音
「ウツロヒ」第1話
-「音」-
2月も中旬に差し掛かり、日中陽が差し込んでいるときは若干暖かくなりつつある。
しかし、夜になると肌を取り巻くシンシンとした冷気は相変わらずで、まだまだ冬であることを再認識させられる。
僕の部屋にはとても大きい窓があり、未だにカーテンがない。更に天窓もついているため、この時期はエアコンを止めてしまうと外の空気が強く影響し、非常に寒くなる。
布団にくるまり、自分の体温で暖められた布地に包まれていても、僅かな隙間から入ってくる冬の空気や露出している顔の冷却は防ぎようがない。
そのせいか眠りも浅く、よく夜中に目が覚めてしまうことがある。
もう1ヶ月ほど前だっただろうか。
いつものように浅い眠りから生じる虚ろな夢の中から、僕は急遽現実の世界へと戻された。
部屋の中の強烈な冷気が、顔の肌を撫でる。
キン・・・
この空気を音にすればそんな表現になるのだろうか。
タイマーをかけていたエアコンはとうに止まっており、部屋の中は真冬の空気に染められていた。
手を伸ばして携帯を探る。この空気の中では、側においてあるそれを探すことすら億劫に感じる。
冷たい。早くこの腕を布団の中に戻したい。
暗闇の中でようやく携帯を探し当て、スイッチを入れる。時間は3時だ。
全くもうー!
こんな時間に目が覚めてしまうと、特に意味もなく損をした気分になる。起床時間までがっつり寝てこそ「睡眠」だよな。
などと、胸中で自分でもよく解らない独り言を吐き出した。
一度目が覚めてしまうと、再び眠りに落ちるまでは若干の時間を必要とする。
冷えた顔を少しでも暖めたくて、毛布を鼻の辺りまで引っ張りあげながら目を閉じる。
暗闇の中で、更に自分の瞼によって闇が上書きされる。露出している顔の残りの部分が、一層空気の冷たさを意識する。
この時間帯になると静かだ。周囲は住宅街だが、人の歩く音はもちろん、車の通る音もしない・・・。
そんなことを意識した瞬間。
部屋の中で僅かな物音がした。
今何かの音がしたかな、と思考がささやく。
そしてまた、僅かな物音がする。
ミシッ
小さな、それでいて印象深い音。
こんな話をすると、「ラップ音!?」と騒ぐ人もいるが、違う。
実は普段からこういう音はどの家でも鳴っている。
人間の聴覚には非常に面白い特徴があり、音として等しく飛び込んでくる情報を無意識の内にふるいにかけ、必要な情報のみを認識するようにできている。
そのふるいに落とされた音、つまり聴覚として捉えているにも関わらず意識レベルまで達することのない音を基調音といい、集中すれば聞こえるがそれ以外ではほぼ認識することのない音だ。
夜中こういう音が聞こえるのは、その他の音が無くなったため、普段感じていない基調音が意識レベルまで達したせいで、幽霊や妖怪の類いが出している音ではない。
もっとも、そういうモノが実在して音を出していたとしても、
霊感が悲しいほど無い僕にとっては見ることも聞くこともできないのであるが。
気にせずに眠ろうとする僕の耳に、
今度は別の音が飛び込んできた。
トン、トン、トン、トン・・・
階段を登ってくる音だ。
隣の住人の方だろうか?こんな時間に帰ってくるなんて、どういう仕事をしている方なのだろう?それとも学生さんなのだろうか。
ここに引っ越してきてからもう2年になるが、
未だ、隣の家の方の顔を見たことは無い。
たまに部屋の外に干してある洗濯物から推察するに男性だと思われるが、引越しの挨拶時も不在であり、そもそもいつ部屋にいるのかも判らない方だった。
いくら他人とはいえ、一度お顔を拝見しながら挨拶くらい交わしたいな。
そんなことを考えながら、再び虚ろな夢の世界へと落ちていった。
それからまた1週間ほどたった夜。
僕はまた冬の冷たい手によって、眠りから引き戻された。
相変わらずの冷気。変わることの無い真冬の吐息。
夏のうだるような暑さとは対極に位置するこの気温も、
度が過ぎると苦痛になる。
前回と同じように布団から手を伸ばし、携帯を探り当てるとスイッチを入れた。
また3時前後。
どうやらこの時間が、我が家が一番寒くなる時間帯らしい。
ため息をつきながら寝返りをうち、再び寝ようとした僕の耳に、
また階段を登る音が聞こえてきた。
トン、トン、トン、トン・・・
なんだまた隣の人かな?いつもこんなに遅いのかな。
そんなことを考えていると、一つおかしなことに気がついた。
階段を上ってくる音。
通路を歩く音。
この二つはするのに、いつまでたってもドアを開閉する音がしないのだ。
この建物は鉄筋コンクリートではないから、隣の部屋の音はよく響く。
だから、ドアを開け閉めすれば当然その音が響くはずなのに、その音が全く聞こえてこないのはおかしい。鍵でも探しているのだろうか。
寝ぼけた頭の中で、少しの時間考察する。
しかし睡眠状態から抜け切っていない頭では明確な答えは出せず、恐らく隣の人が音をたてないよう気を使ってくれたのか、あるいは配達などだろうとと考えて、その夜はそのまま再び眠りに落ちてしまった。
翌朝は実に良く晴れた天気となった。
天窓から差し込んでくる太陽の光が、暗く冷え切っていた部屋の中を切り裂き、
光の世界へと変貌させる。
この時には昨夜の出来事などとうに忘れており、感じていたはずの疑問も朝飯と一緒に胃の奥底まで流し込まれてしまっていた。
スーツに着替えて、面接会場へ向かうために部屋を出る。日差しが心なしか暖かく感じる。こういう天気だとなんだか気分も爽やかになってくる。
お隣さんの、郵便物が雑多に突っ込まれているドアの前を通り過ぎ、階段を降りる。
トン、トン、トン・・・
夜中聞く音とは違い、それほど響いていないような気もする。
これも基調音の一つのようなものだからだろうか。
僕は冬の太陽の光を浴びながら、バス停へと足早に歩き去っていった。
1月下旬に差し掛かっても、まだ夜の寒さは相変わらずだ。
確かバレンタインを過ぎたあたりから、毎年暖かくなり始めると記憶している。
夜の淀んだ光が充満する部屋の中で、僕はまた目を覚ましていた。
もはや、時間を確認する気にすらならない。
また寝なおさなければ、明日は早いんだから・・・
トン、トン、トン、トン・・・
階段を上ってくる音。
お隣さんが帰ってきたんだな。
しかし、すでに2回も聞いていた音だ。特に気にするものでもない。
そう思いつつも、寝ようとしながらその音に耳を向けてしまう自分がいた。
階段を登りきり、通路を歩く足音。
そしてその音が、無くなる・・・。
そして、また。
ここで止まった。
何の音もしない。さすがに気になる。
そこまで気を使ってくださっているとも思えないし、何より全くの無音というのはおかしい。いくら音を立てないようにドアを開閉したりしようとしても、僅かな音はするはずだった。それなのにいつまでたっても何の物音も聞こえないのは何故だ。
起き抜けの脳が、油をさされた錆びた歯車のように、ギリギリと軋んだ音色を奏でながら動き始める。思考が外の「音」へと姿勢を正す。
先ほどの物音がどういう動きを表していたのか。
通路を歩く音は。
お隣のドアの前で止まったのではない。
僕の、部屋の前だ。
ベッドから上半身を起こし、ドアの方向を見つめる。
途端に冷たい空気が体に襲ってくるが、気にはならなかった。
段々と夜目が効いてきて、部屋の内部の輪郭がぼんやりと浮かび上がってくる。
玄関のドアと部屋の間にはガラス扉が一枚あり、ドアそのものを直視することはできない。それでも僕は上半身を起こした姿勢のまま、ドアのある方向を見つめていた。
ミシッ カタッ
僅かな軋んだ音が、部屋の中で聞こえる。
しかし外からは。今しがた階段を登ってきたものがいるべきドアの外からは、何の音もしない。まるで息を殺している、この冬の吐息のように。
ゆっくりと、物音をたてない様にしつつベッドから完全に起き上がり、壁に立てかけてある木刀を手に取った。気温に冷やされて本物の鉄のように冷たい。
そのまま足を忍ばせつつ室内を歩き、ガラス扉に手をかける。小さく、本当に小さくカタカタと音を発しながら扉が開き、薄い闇の中でドアが目に入ってくる。
外からは何の音も聞こえてこない。動きすら感じない。
そっとドアに近づき、覗き穴に目を当てた。
ランプに照らされた外の世界が見える。
そこには何もいなかった。
冷たい空気が漂う夜が、ただありのまま広がっているだけだった。
2月に入り、暖房の稼働時間が多少なりとも減ってきた。
しかし夜は以前と変わらない。寒いものは寒い。
あれから一つ解ったことがある。
それは、お隣はいつの間にかとっくに引っ越していて、今では誰も住んでいないという事実だった。2階建てのアパートであるこの建物の、2階に住んでいるのは僕一人なのだ。
1階も、引越しが相次いで現在は1人しか住んでいないという。
今夜は事情で帰りが遅くなり、1時過ぎに帰ってきた。
シャワーを浴びて体を温め、深夜バラエティーなんかを観て笑いながらビールを飲み干すと、それだけでも多少疲れが取れる気がする。
いつの間にか時間は過ぎ、2時を回っていた。
結局あれはなんだったんだろうな?
と考えてみるも、解らない。
自分の部屋の前で止まった足音。
お隣さんは既にいない。バイクの音がしないし、自分の郵便受けに何も入って無かったことから、郵便の類でもない。泥棒が下見でも来たのかな?
自分の部屋の前で止まったと感じたのも気のせいかもしれない。
寝間着に着替え、テレビと部屋の電気を消して横たわろうとした、
その時だった。
トン、トン、トン、トン・・・・・・
不意打ちだった。
自然に息を殺してしまう。
トッ、トッ、トッ・・・
これまでと同じく通路を歩く足音が響き、そして今度ははっきりと解った。
確かに僕の玄関のドアの前で、その音は止まった。
今までと同じ様に。
冷たい空気が、重みを帯びたかのようだ。
それでいて外の音はとても静かだった。
ドクン、と、自分の心臓の鼓動だけが、耳の内側に響く。
ツバを飲み込む音ですら大きく聞こえるような錯覚を覚える。
それなのに、ドアの外からは何も聞こえてこない。身動きをする音すらも。
ガラス扉はまだ閉めていなかった。
今自分の目の前に、ドアがある。
今そのドアの向こうに、何かいる。
今そこにいるのは、誰なんだ。
音は、無い。
いつも自分が外へ出るときのことが頭をよぎる。
そこから動けば、必ず何かしらの音がする。
良く音が響く階段は足音を殺せない。
だから、いる。今このドアの外に。誰かが。
いや、それとも「誰か」ではないものが。
自分の体に、冬の冷たい手ではない、
別の何かが触れたような気がして。
僕はドアに駆け寄り、一気に開け放った。
そこには、やはり誰も、いや、「何も」いなかった。
拍子抜けするほどに、いつも通りの冷たい空気と、
夏よりも輝いて見える星々を従えた夜空が見えるだけだった。
いつの間にか止めていた息を、ゆっくりと吐き出す。
何をバカなことをしてるんだろう。
いい歳をしてバカバカしい。
一度落ち着くと、何だか外の空気が途端に寒く感じられて、
慌ててドアを閉じる。
寝床に入りながら、僕は気持ちを落ち着かせた。
幻聴ってことは無いと思うけど、何もいなかったのなら問題ない。
さあ、また明日に備えて寝よう。
今度は途中で目を覚まさないように・・・
ミシミシ・・・ カタッ ミシッ
いつもより基調音が激しくなった気もしたが、
妙なことを考えてしまったせいだろう。
明日も、晴れると良い。
-<「音」終>-