続・雨の記憶〜メールの行方
この小説は完全なフィクションです。
暗闇に浮かぶ携帯電話の画面……明かりが消えては、ボタンを押すが、一向に進まない……伝えたい事は多分、一つだけ……
(サラブレッドみたいな目だなぁ……)
それが彼の第一印象だった。たまに行く飲み屋の常連。いつも一番端の席に座り、ひっそり飲んでいる。清潔だけれど、流行を追っていない服装。真っ黒い髪。
店がひどく混んでいた時、隣合わせて話をした。
「接客業です」
仕事を聞くと、目を伏せてそう答えた。意外に思った。おおよそ、人と話すのが得意そうには思えなかったから。
店の入口に団体が現れて、私は腰を浮かせた。
「おいとました方がよさそうですね」
「もう一軒、どうですか? いいところ、知ってます。よければ、ですけど……」
その言い方が気にいって、ついていく事にした。
彼のいういいところとは、奇麗とは言い難いもつ焼き屋だった。あまり、立ち入った事のない分野の店で正直、面食らった。だが、味は抜群だった。
たいした話はしなかった。出身地や学生時代にしていたスポーツ、酒の趣味や食べ物の趣味。
驚く程、共通点がなかった。それを確かめる度、しまった、という顔をした。
「洋画見る時は吹き替え? 字幕?」
「字幕しか見ない」
「よかった! 俺も!」あまりにも嬉しそうな顔をしたので、笑ってしまった。
たったそれだけの共通点で、私たちはまた会う約束をした。
彼は自分のこれまでの人生について話す時、いつも俯いていた。何もない田舎で育った事、勉強はあまり得意でなかった事、飼っていた犬の話、誤解から工業高校時代の先輩に袋だたきにされた話。
なんでも正直に話した。高校を卒業して、遠い街で就職した。車の修理工場。すぐに結婚。
「結婚しようって言われて……毎日セックス出来ると思って結婚した」
「……ひどい理由ね」
「はい、若かったので……もう二十年近く前だし。結局うまくいかなくなって、不倫に走った。反省してる」
素直過ぎるな、とも思ったけれど、魅力的な人だとも思った。
その日、彼は少し酔っていた。
「俺、交通少年院に入ってたんだ」
いつものように俯いていう。
何かあったんだろうな、と思っていたから、特に驚きはしなかった。とても車が好きそうなのに免許もなく、全く掛け離れた仕事をしている。ひっそり暮らしている感じがする。もしかしたら、大変な事故を起こしているのかも、とは予想していた。
「無免許になって、人を轢いてしまって。その場から逃げた。就職決まってた高校生の彼女が一緒だったから。その子送ってから出頭したよ」
「ふうん」
(なんだろう……)
違和感を感じた。でもその後、交際を申し込まれ、私は承諾した。
彼はきっと、真剣に付き合いたいから、正直に話したのだろうと思い、違和感は酒のせいにして忘れる事にした。
付き合いは順調だった。共通点のなさで、ぶつかる事もあったけれど、正直に話し合い、解決して行った。
お互いもう若くない。彼は子供が好きそうだし、それなら尚更早くしないと、と思っていた。
(彼の子供はかわいいだろうな……)そんな事も考えていた。
その日は雨が降っていた。
めずらしく、小洒落た料亭に連れて行かれた。並んで座る。目の前には庭園。燈籠の明かりが雨に光る。
彼はいつものように目を伏せて、たわいもない話をする。言葉を探しているのがわかる。
沈黙。雨を見つめる視線。彼の口から零れる、事故の話。
「……俺は逃げた。高校生を送ってから出頭したんだ……」
全身の血が逆流するような怒りを感じた。
無免許で無くても事故は起きたかも知れない。被害者は即死だったかも知れない。でも一番悪いのは逃げた事だ。それを正当化するような言い方は許せない。
もしも、その高校生が私たちの子供だったら、逃がしてくれた彼に感謝するだろうか。私たちの娘は、その事をどんなふうに受け止めるのか。生きていけるのか。
彼に問い詰めた。どんな言葉だったか、覚えていない。
彼女への謝罪の言葉が聞きたかった。もう取り返しがつかないならせめて、彼女がいたことをこれ以上、誰にも言わないと言って欲しかった。
怒ったような、泣くのを我慢しているような、奥歯を噛み締める顔をしていた。長い睫毛が困ったように動くのを見つめていた。
「どうすればいい?」その言葉を聞いて、立ち去った。
私たちが出会って、初めての雨のデートだった。
数日して彼からメールが届いた。
『同乗者なんて、最初からいなかった。それが俺の出した結論です。こんなダメな奴だけど、あなたと一緒にいたいです』
返事はしなかった。
聞きたかった言葉を聞いたのに、さらに数日たっても、私の心の詰まりは消えなかった。もやもやした気分で公園のベンチに座っていた。小さな子供が、まだ雨も降っていないのに、傘をさしていた。
「そうか……」
彼に詰め寄った内容は間違ってないかも知れない。私の意見としては正しいに違いない。それでも……
彼は充分苦しんだ。罪が消えない事も知っていた。ひっそりと暮らし、大好きな車にも触らず、雨が降る度に思い出していたのだろう。
罪を償っても、犯罪を犯した者として生きるのは、どれくらい大変な事なのだろう。想像もつかない。
なんでも話し合って解決してきた。話し合うのは苦手なのに、逃げずに向き合ってくれた。
今度だってそうだ。どれだけ思い出しただろう。どれだけ自分を責めたのか。
彼女がどうしているのかも、本当のところ、わからない。一生の傷を負い、生きているかもわからない。でも、何かしら幸せになっているかも知れない。それはもう確かめられない。いや、確かめるべきじゃない。
ならば私はどうしてあんなに腹が立ったのか。
事故の事自体にはそんなに驚かなかった。罪を償った彼をある意味では認めていたはずだ。 私が一番考えたのは、なんだったのか。被害者の事?逃げた事?どれでもない。彼女がもし、私たちの子供だったら……
彼に負けず利己的な考え方ではないか。もとより、私に彼を裁く権力などない。
「いつの間に、こんなに好きになったんだろう」
サラブレッドのような目、伏し目がちにしゃべる言葉、嬉しそうな顔、雨を見つめる視線……思い出すと、喉の奥が痛くなる。
いつもの意見の食い違い。あまりの罪の大きさに、逃げ出したのは、私の方だ。今私に出来る事は何か。
すっかり暗くなってしまった公園のベンチに座っていた。ずっと開いたままの携帯電話。
『ごめんね』から先に進まない返信画面に、雨粒が落ちて、『め』の文字だけが、大きく見えた。
「雨の記憶」の三部作、完結編として、執筆しました。