1夜目 小さな一歩、偉大な一歩
少年が控えめに訊く。
「あの、お爺さん」
老人が一通り話終えたところで、白磁のカップに注がれた濃くて熱い液体を啜っていた。
「ん」
元々入っていたのは缶だが、芳ばしい香りは一級品だ。
「えーと、二人目のお母さんがお爺さんに酷いことをしたのは自分の産んだ子供じゃないからなんだよね」
「どうだろう。そんなこと、とてもじゃないが訊けなかったな。訊こうとも思わなかった」
「あっ……。ごめんなさい」
「大丈夫。こんな年寄り、もう傷つくところも無い。さ、それで?」
孫が訊くか訊かないかで悩んでいる間、自分はコーヒーを味わう事にした。賢いが、少し人の目が苦手な子だ、あまり見つめると本当に穴が開いてしまうかもしれない。
「その、お爺さんのお父さんは、お爺さんを守ってあげられなかったの?」
うーん、と口を閉じたまま喉の辺りを震えさせる。
少年は老人の気に触れてしまったと思い、ごにょごにょと口ごもってしまう。
「いや、いいんだ、いいんだよ。これは私の推測だが、お父さんは私を産んだ母さんを忘れたくて、二人目の母さんと結婚したんだと思う」
「忘れたくて? 好きだから結婚するんじゃないの?」
「そうだ。愛していたから、それだけ亡くなったことが辛かったんだろう。新しい幸せで、古い不幸を薄めたかったんだろう」
「うん」
「それで、父さんは母さんの使っていたものや、思い入れのある家も引き払ってしまった。それでも一つだけ、どうしても売れない物があった。分かるかい?」
少年は暫く唸ったが、とうとう首を横に振った。
「私だよ。特に、私は母さんに似ていたからね。やはり見ると思い出して悲しくなったんだろう。結婚した理由の一つに、付きっきりで世話をせずに済む、というのもあったのかもしれない」
「お爺さんは悲しくなかった? その……。お父さんが、お爺さんのされていることに気づいてくれなくて」
「寂しかったけど、悲しくはなかったよ。誕生日やクリスマスには他の兄弟とはまた別に小さなケーキとプレゼントをくれたし、私がベッドに入ると廊下に父さんがやって来てドア越しに話をしたものだよ。学校には、行きたかったけどね」
そう言って、コーヒーで口を湿らせる。少年の方もそれに習い、ココアに少しだけ口をつけた。
「そうそう。家を出た後、父さんと二回会うことが出来たんだ。一回目はその日だったが。二回目は数年後、それも旅先で、偶然に」
老人が笑顔で言うと、嫌なことを思い出させてないか、お父さんを思い出して寂しくなってないか、そんな事を考えて暗くなっていた少年の顔もぱっと明るくなった。
「本当に!?」
「ああ、本当だとも。旅に出てから少し時間が経ってからだけどね。さあ、続きを話そう」
十二の私は、思い出とガラクタと衣服を詰め込んだリュックを背負い、泥で薄汚れてしまった運動靴を履き、黒の手袋に枯草色をしたコートを着て、数年に及ぶ旅の記念すべき第一歩を踏み出した。道路の真っ黒なアスファルトを踏んだとき、全身が痺れたのかと思ったよ。
この一歩は小さいが、人類にとっては偉大な一歩である。
初めて月に降り立った男の言葉だ。彼がそう言ったのはいつの時代だったかな、今みたいにアンドロイドも居ない、それくらい昔か。その映像に当時の地球は沸いたらしい。
彼の一歩が当時の人々に大きな影響を与えたのに反して、当時、私の一歩が影響を与えたのは精々2人目の母さんとその連れ子、そして父さんだろう。兄弟達はニールの姿を見ていることしかできないマイケルか、あるいは母なる地球からテレビ中継をポップコーン片手に指を指して笑うのか。
ああ、そんなことは関係なかった。いずれにしろ、私にとっては意義のあるものだった。おつかい以外に家から出る経験は、二人目の母さんの家に来て以来で、それだけで興奮したものだ。
そうして、じっくりと自由になったという事に感激を噛み締めながら、次に何をすべきか考えた。山に行こうか、海へ行こうか。北上するか、南下するか。歩いて行こうか、バスにでも乗ろうか。
行きたいところは幾らでもあったし、私にとってはどうやって行くかも重要だった。
そして、歩きながら数分、まずは何処へ行こうか、九州――今では朝鮮領に成っていたな――から出ようか、そんなことばかり考えているとホームセンターに到着し、そのまま暖房の効いた店内を買い物かご1つ引っ提げて彷徨いていた。そうして、口から水を吐き出すライオンの置物を見ていたとき、ある事を思い付いた。
ルールを作ろう、と。といっても、無学な子供だ。できた物は非常に稚拙だったよ。
一つ、無駄遣いしない。
二つ、お世話になったら何かしらお礼をする。
三つ、死なない。
一つ目のルール、これは簡単だな。収入源の安定しない旅だ。父さんが私のIDに振り込んでくれる事を期待しても良かったんだが、ま、働きたいという思いも強かったからね。
二つ目、こいつもそんなに難しくはなかった。とはいっても、ヒッチハイクして拾ってくれた相手にアメやガムを渡す程度だったが、それはそれで喜んでもらえた。
最後のこいつが一番厄介だった。結果的に私は生き延びているが、初日でこのルールを破りそうになった。
そうして私は、出来上がったルールを頭に叩き込むと鼻唄を歌いながらスキップをし、時々カゴに商品を放り込む作業に移った。懐中電灯と寝袋、他には1粒で1食分の超高カロリーカプセル、そうそう、護身用にスタンガンなんかも買ったな。少し痺れる程度で、今考えてみれば期待はできる威力ではなかった。
なぜ私が物騒な物を求めたかって? 簡単だ。当時、私が住んでいた九州は治安が悪かった。盗み壊しは序の口、殺しもしょっちゅう起きていた。九州を知らない? ほら、この国の西の島だよ。ああ、そうそう、中国の物になって、だいぶへんてこな名前になったね。あんな核で汚れた所、誰が欲しいのやら。
とりあえず、そこでは海外から流れてきた銃や、手榴弾や、他にも危ない物が沢山あった。ロシアが開発したアンドロイドも幾つか居た。私が住んでいた所は比較的安全な地域だったが、それでも居住区から一歩外に出れば無法地帯だった。
核戦争で人々は変わってしまった。いや、正しくはアジア系の移民とアンドロイドが多く、住む家を奪われた日本人は東へ東へ追いやられて、住む人間が変わっただけか。そうして、私たちは希少で邪魔な日本人になった。皮肉にも、地球最後のミサイルが打ち込まれたのはすっかり占領されてしまったそこだったが、これもまた随分後の話だ。
さあ、話を戻そう。歴史の話なんて学校だけで十分だろう。
清算を済ませて、ついでにトイレも済ませた。旅立ちに必要なものは粗方揃った。家から出て、二時間くらい。その時間になると、辺りは寒く暗かったよ。そして、コートの襟を立てて、銃を腰に挟み、店から出たときあるものが目に入った。
モミの木だ。店の外にそれはそれは綺麗な飾りもあった。赤、青、黄、色とりどりの電球が規則的に点滅を繰り返していたよ。何メートルあるか、その時の私の二倍くらいかな。それが立っていることに店に入るときはあれこれ考え事をしていた上、電飾もついていなかったから気がつかなかった。
そして、無機的なようで暖かい光に包まれていると不意に涙が出た。何故かは分からなかった。母さんの事、家にあった小さなツリーの事、そして父さんの事も。
そこまで来て、やっと思い出した。父さんに挨拶するのを忘れていた。
母さんや他の兄弟の事はどうでも良かった。ただ、父さんに会いたくて全力で引き返した。
そして、ちょうど家の真ん前で父さんと会った。父さんは私と全く同じ格好に革製の手提げとラッピングされた長い箱を持って、驚いた表情をしていた。
「おかえりなさい」
私は息も絶え絶え言った。頬は紅潮し汗が額を伝って、そのまま顔を縦に流れていく。
「ただいま」
そして、洒落た紙で包まれたそれを私に寄越して、
「メリークリスマス」
そう言った。
「見てもいい?」
「ああ」
紙を破くと、全く逆の雰囲気を醸す桐の箱が。開けてみると出てきたのは一振りの刀、とは言っても長さは肘から指先程度だったが少し反った漆塗りの鞘、細工が施された鍔、どれを取っても惚れ惚れする逸品だった。
「わ……」
鞘から抜いてみると、美しい波が刃を走っていた。鋼は街灯の明かりを受けて黒く鈍く光り、その輝きに文字通り言葉を失った。
「何も言わん。気を付けて行ってこい」
父さんはそれだけ言うととぼとぼ家に向かって歩いていった。何故私が出ていくことを父さんが知っていたのか。単純に、母さんから電話があったからだと。これも再会した時に聞いた。プレゼントも弾丸飛び交う無法地帯には疑問符を浮かべずにはいられなかったが、アルバイトの時給で買えるスタンガンよりは、気休めになった。
そして、今にもチャイムを鳴らそうとする父さんの背中になんとか声をかけようと思った。ここで最後かもしれない、そうでなくても暫く会えない気がした。その時になると、家事から解放されるというより、外の世界に触れてみたいと思えるようになった。母さんも兄弟の事もどうでもよかった。
「い、いってきます」
ああ、なんとも間抜けだったよ。素敵なプレゼントのお礼も言わずに、いってきます、だからね。
父さんは振り向かずに、右手の親指を立てた。ま、それ以上言うことはなかったからさっさと行くことにしたよ。
「これで旅の準備は終わった。肝心の切っ掛けが酷かったがね。母さんもまさか本当に出ていくとは思わなかっただろう。じゃあ、質疑応答といこうか」
老人は膝に置いていた本をぱらぱらと適当に捲る。黄ばんでシミのある紙が、その本があり続けた時間を感じさせた。
「えっと、お爺さんは全部覚えているの?」
「いや、そんなことはない。三日も放っておけば全部忘れてしまうだろう。それでも、これのお陰でその時の気温や空の色、食べた飯の味さえ思い出せるよ」
片手で本を持ち上げ、Diary、金文字の方を少年に向ける。
「日記?」
「ああ。ただ、当時の手帳やわら半紙に書いたものの寄せ集めだけどね」
笑顔を浮かべると、それを再び膝の上に置き、両手をその上に重ねる。
「うーん。あ、あとこれからどうなるの?」
「そうだな、暫くは独りで歩き続けた。無法地帯に入ると、殆ど誰かと一緒だったな。独りで居たときの記録は特に無いな。忘れてしまっても困らないことばかりだったよ」
そう言って、話している内に中身を消化したカップを暖炉の上に置く。
「あの地域で初めて出会ったのはアンドロイドハンターとその姪っ子だった。さあ、続きは明日の夜にね」
二回鐘の鳴った柱時計を指差して言う。少年は続きを聞きたい気持ちを抑えて、おやすみなさいと言うと、渋々自分のベッドへ帰った。