灰の聖廟 ―聖職者と悪魔
エリアスは、手にしていたランプを高く持ち上げた。
神殿の地下。
かつての偉大な大司祭を祀ったとされる聖廟は、静寂を飲み込み、闇だけが落ちていた。
白かった石床は、時とともに灰に染まっている。低い天井からは雫が滴り落ち続け、白石の祭壇には、わずかな窪みができていた。
「おや」
エリアスの澄んだ声が、響く。
かすかに水の跳ねる音。
ランプの橙の光が、エリアスの金髪に弾かれていた。
空色の瞳の視線の先には、祭壇の脇に佇む影。
「こんなところにお客人ですか」
背の高い男。
床を擦るほどに長い黒髪。
男は、黒とも赤とも言えぬ瞳で、エリアスを見返した。
「だんまりですか。こんなところにいたら、払われてしまいますよ」
男がエリアスの白い頬に手を伸ばす。
触れはせず、翳すだけ。
長い指。尖った爪は、闇のように黒い。
「……俺が何者か分かるのか」
腹の底をくすぐるような、心地良い低い声。
人を魅了するための、それ。
エリアスは、光の差さぬ空色の瞳を細めて、かすかに口角を持ち上げた。
「……えぇ。なんとなくですが」
男は、退屈そうに視線をそらした。
エリアスはしばらくそれを眺めていたが、やがて踵を返す。
白い祭服の肩から掛けられた臙脂のストラ。その金刺繍が、鈍く光を滑らせた。
重い扉が閉まる。
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それから幾日か、司祭エリアスは毎日聖廟に足を運んでいた。
「逃がして差し上げましょうか」
エリアスの手にあるランプが、心許なく揺れる。部屋の隅には闇が沈殿したまま、動きもしなかった。
エリアスは、男の前に立つと、その瞳を見上げた。
男は、静かにそれを見下ろす。
「……対価は?」
「私の手伝いをしてください」
「……俺に何をさせたい」
「神殿の裏手にある孤児院を焼いてください」
エリアスの瞳は、生き物の住まぬ湖面のように静かだった。男は、エリアスの背に垂らされた髪を持ち上げると、爪先で弄ぶ。
水の滴る音。
男がわずかに首を傾げた。
相変わらず、退屈そうな表情。
「……あそこには、本も、玩具もないんです。
何も与えない。食事と寝る場所を与えているだけです。体罰は日常茶飯事」
エリアスはかすかに目を細める。
長い睫毛が、頬に影を作った。
「ありがたいことに、私に賛同してくれる貴族の方を見つけたのです。
……ただ残念ながら、爵位は高くない。神殿に反したなどと知られたら、貴族として生きていけないでしょう」
男は、エリアスの髪の毛先を自分の唇に当てた。
「ですから、極秘に子どもは逃がします。
貴方はあそこにいる子ども以外の人間ごと焼いてほしいのです」
男が手を離すと、髪は静かにエリアスの背に落ちた。
その爪は白い頬を掠め、空色の瞳の前に翳される。
男の口角が上がった。
「……人も焼くのか」
「悪魔でしょう? 貴方」
悪魔がその瞳に触れようとして、エリアスは瞳を伏せた。
そのまま、爪は顔をなぞり、首筋に触れる。
「まぁいいだろう。いつやる」
指が離れ、エリアスは瞳を開けた。
男はその場に腰を下ろした。
わずかに冷気が舞う。
エリアスは、静かにそれを見下ろしていた。
「明後日の晩に」
「わかった」
「……理由は聞かないんですか?」
男が視線を持ち上げる。
「さっきお前が話しただろう」
「……そうですね」
エリアスが踵を返そうとすると、足首を掴まれた。
背筋がぞくりと震える。
振り返れば、悪魔はエリアスの背の髪を掴んでわずかに引いた。
「まだ理由があるのか。なら話せ。どうせ暇なんだ」
ランプの光が、男の艶のある黒髪に吸い込まれていた。
じわりと滲み、やがて闇に溶けていく。
エリアスは穿たれた祭壇の穴に目をやった。
「……私を慕ってくれていた子どもがいたのです。ある時彼女が体罰を受けていました。いつもは見て見ぬふりをしていたのに、その日は耐えられなかった。
――助けに入ってしまった」
悪魔が眉を上げる。
「お前は聖職者だろう。何が問題だ」
穴に雫が落ちた。
「その子はその後、もっとひどい体罰を受けました。
その怪我が原因で感染症にかかり、
――死にました」
悪魔はエリアスの髪を指先に絡める。
ゆらゆらとその瞳の奥の赤を揺らしながら、ランプの明かりを透かしている髪を眺めた。
「そうか。お前は孤児院を焼いた後、どうするつもりだ」
「自害するつもりです」
男は立ち上がり、エリアスの顔をのぞき込む。
「俺が殺してやろうか。
お前は綺麗な顔をしている。
……ただ殺すのでは惜しいな。どうやって殺してやろうか」
悪魔は舌舐めずりをした。
水の落ちる音。
石と水に冷やされた空気が、肌を刺す。
エリアスは、ただ、静かに悪魔を見つめていた。
何処からか忍び込んでくる細い風。
「……いえ、自分でけじめをつけるつもりです」
男は途端に興味をなくしたように、視線を壁に投げた。
「そうか」
エリアスは悪魔に背を向け、静かに聖廟を後にした。
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燃えている。
音を立てて、屋根が崩れ落ち、壁が剥がれ落ちた。
柱が倒れる。
かすかな悲鳴。
馬車が遠ざかる音。
月は、静かに見下ろしている。
夜は赤く染まっていた。
舞う火の粉が、星のように美しく瞬いている。
エリアスは、それを、静かに見つめていた。
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窓に切り取られた四角い月光だけが、部屋を染めていた。
簡素な机と椅子。ベッド。
机上には聖書。
壁には白い祭服。
それしかない部屋。
祭服のその白は闇に溶け、灰に滲んでいた。読み込まれた聖書は、その革表紙が褪せている。
衣擦れの音。
エリアスは、縄を机に置き、背で髪を縛った。
縄目をそっと指先でなぞり、細く息を吐く。
目を伏せた。
その時、扉が音を立てて開かれる。
エリアスが振り返ると、中年の祭服の男が立っていた。
撫でつけられた茶の髪が月光を弾いている。
男はエリアスを見据えると、後ろ手で扉を閉めた。
鍵の閉まる音。
男の裾が荒く揺れた。
男はエリアスに近づくと、その金髪を掴んで机にエリアスを押し付けた。
呼吸が肌に触れるほどに、顔を寄せる。
「お前だろう。孤児院を焼いたのは」
床を這うような、低い声。
背にのしかかられ、エリアスの呼吸が止まる。
「あの娘を殺したのがそんなに気に入らなかったのか?」
大司祭のその男は、背後からエリアスの顎に触れた。
「顔が美しいから飼っていてやったというのに」
男の腕が机を払う。
聖書が床に落ちた。
「それにお前……まさか悪魔とでも手を組んだのか?
……聖廟が静かになっていたが」
髪を強く引き、エリアスの顔を無理やり上向かせる。
大司祭は、その喉元をなぞった。
エリアスは口を引き結び、瞳を伏せる。
「そんなに俺が嫌か」
男はわざとらしくため息をついた。
「もういらん。
異端のお前は処刑だ。その顔で大人しくしていれば可愛がってやったものを。
――死ね」
大司祭は髪から手を離すと、エリアスの背を強く押した。
エリアスは床に落ち、なすすべもなく座り込む。
木床を荒く踏んで、男は部屋を出ていく。
廊下から複数の足音。
大司祭に命じられた若い司祭たちがエリアスの部屋に流れ込み、彼を無理やり立たせた。
神殿の監獄へ、引きずるように連れて行かれる。
明かりの灯らない、闇の支配する廊下。
窓から差し込む月明かりでさえ、足元を照らしもしない。
「これで……やっと終わる……」
エリアスの言葉は、彼らの足音に紛れ、誰の耳にも届かなかった。
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処刑の日。
朝焼けが、空を橙に染めていた。
細長い雲は、風に押されて形を変えていく。
縄で縛られたエリアスは、背を強く押され、神殿広場の中央に力なく座り込んだ。
顔を上げる。
処刑のために雑に切られた金髪が、肩を撫でた。
彼を囲うように聖職者たちが並んでいた。
その間に、悪魔が悠然と立っている。
「……なぜ?」
空色の瞳が揺れる。
「……貴方はもう、解放されたというのに」
エリアスの声は、かすかな風に攫われる。
大司祭たちの声は遠く、エリアスには聞き取れなかった。
膜が張られたような、静寂。
悪魔は屈んで、エリアスの顎に指先を添えた。鋭い爪がわずかに肌に食い込む。
空色の瞳に、一瞬だけ陽が差し込んだが、それはすぐに滲んで消えた。
悪魔の男は、口端を歪める。
悪魔は立ち上がると、一度、手を払った。
服についた埃を払うかのような、軽い動作。
途端、炎が上がる。
ひとつ、ふたつ。
赤が広場を飲み込んでいく。
突然の火に、聖職者たちは悲鳴を上げ、逃げ惑った。
エリアスは呆然とそれを見渡す。
熱が頬を掠める。
火の粉が飛び、わずかに目元を焼いた。
悪魔は、エリアスの縄を掴んで引き上げる。その体を抱き、広場を後にした。
炎が、神殿を飲み込んでいく。
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朝焼けを背に、焼け落ちていく神殿。
エリアスはそれを、崖の上から遠くに見つめていた。
「……これで、みんな死んだ。
お前を苦しめるやつは、もういない」
背後から、悪魔の声。
耳に心地よく、それは響く。
エリアスは座り込んだまま、ゆっくりと悪魔を振り返った。
唇が震える。
「あそこは……確かに腐っていました。
でも……すべてが腐っていたわけではないのに……」
声も、震えている。
乱れたままの服。
縄できつく縛られた肌には、赤く傷が残っている。
髪を切った刃が、白い首筋にも薄い傷を残していた。
悪魔は屈み込み、その傷を爪先でなぞった。
鈍い痛みに、エリアスは目を細める。
「俺にはこれしかできん」
黒に赤が滲んだ瞳。
それを見て、エリアスは小さく息を吐いた。
「……そうですか」
「俺に礼はないのか」
灰の匂いが、ここまで漂ってきていた。
「……はは。悪魔に礼など……」
エリアスは、視線を落とす。
「これでもう、私は人として、生きられまい」
悪魔は口角をあげて、エリアスの空色の瞳を見つめた。
「じゃ、俺と来るか」
エリアスは男を見る。
「……地獄へ?」
悪魔の男は、妖艶に微笑むだけ。
灰を帯びた、ぬるい風が吹く。
陽はゆっくりと昇り、赤から金へと色を変え始めていた。
エリアスは、静かに笑う。
「……それも、いいかもしれませんね」
淡い影が足元に落ちた。
悪魔は、エリアスの首に顔を寄せる。
男が纏う冷気。
それはエリアスの白い頬をゆっくりとなぞった。
「お前は……いい匂いがするな」
エリアスは、つい、声を立てて笑ってしまった。
空は雲を裂きながら、ゆっくりと青に染まっていった。
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翌日の新聞。
――王都報知。
『神殿、原因不明の火災により崩落。
生存者なし。
神罰との声もあがっている。
治安監察局は、引続き調査を続けると発表』




