表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

灰の聖廟 ―聖職者と悪魔

作者: かも ねぎ
掲載日:2026/04/24


 エリアスは、手にしていたランプを高く持ち上げた。

  

 神殿の地下。

 かつての偉大な大司祭を祀ったとされる聖廟は、静寂を飲み込み、闇だけが落ちていた。

 

 白かった石床は、時とともに灰に染まっている。低い天井からは雫が滴り落ち続け、白石の祭壇には、わずかな窪みができていた。


「おや」


 エリアスの澄んだ声が、響く。

 かすかに水の跳ねる音。


 ランプの橙の光が、エリアスの金髪に弾かれていた。

 空色の瞳の視線の先には、祭壇の脇に佇む影。


「こんなところにお客人ですか」


 背の高い男。

 床を擦るほどに長い黒髪。


 男は、黒とも赤とも言えぬ瞳で、エリアスを見返した。


「だんまりですか。こんなところにいたら、払われてしまいますよ」


 男がエリアスの白い頬に手を伸ばす。

 触れはせず、翳すだけ。

 長い指。尖った爪は、闇のように黒い。


「……俺が何者か分かるのか」


 腹の底をくすぐるような、心地良い低い声。

 人を魅了するための、それ。


 エリアスは、光の差さぬ空色の瞳を細めて、かすかに口角を持ち上げた。


「……えぇ。なんとなくですが」


 男は、退屈そうに視線をそらした。

 エリアスはしばらくそれを眺めていたが、やがて踵を返す。


 白い祭服の肩から掛けられた臙脂のストラ。その金刺繍が、鈍く光を滑らせた。


 重い扉が閉まる。


---


 それから幾日か、司祭エリアスは毎日聖廟に足を運んでいた。


「逃がして差し上げましょうか」


 エリアスの手にあるランプが、心許なく揺れる。部屋の隅には闇が沈殿したまま、動きもしなかった。


 エリアスは、男の前に立つと、その瞳を見上げた。

 男は、静かにそれを見下ろす。


「……対価は?」

「私の手伝いをしてください」

「……俺に何をさせたい」

「神殿の裏手にある孤児院を焼いてください」


 エリアスの瞳は、生き物の住まぬ湖面のように静かだった。男は、エリアスの背に垂らされた髪を持ち上げると、爪先で弄ぶ。


 水の滴る音。


 男がわずかに首を傾げた。

 相変わらず、退屈そうな表情。


「……あそこには、本も、玩具もないんです。

 何も与えない。食事と寝る場所を与えているだけです。体罰は日常茶飯事」


 エリアスはかすかに目を細める。

 長い睫毛が、頬に影を作った。


「ありがたいことに、私に賛同してくれる貴族の方を見つけたのです。

 ……ただ残念ながら、爵位は高くない。神殿に反したなどと知られたら、貴族として生きていけないでしょう」


 男は、エリアスの髪の毛先を自分の唇に当てた。


「ですから、極秘に子どもは逃がします。

 貴方はあそこにいる子ども以外の人間ごと焼いてほしいのです」


 男が手を離すと、髪は静かにエリアスの背に落ちた。

 その爪は白い頬を掠め、空色の瞳の前に翳される。


 男の口角が上がった。

 

「……人も焼くのか」

「悪魔でしょう? 貴方」


 悪魔がその瞳に触れようとして、エリアスは瞳を伏せた。

 そのまま、爪は顔をなぞり、首筋に触れる。

 

「まぁいいだろう。いつやる」


 指が離れ、エリアスは瞳を開けた。


 男はその場に腰を下ろした。

 わずかに冷気が舞う。


 エリアスは、静かにそれを見下ろしていた。


「明後日の晩に」

「わかった」

「……理由は聞かないんですか?」


 男が視線を持ち上げる。


「さっきお前が話しただろう」

「……そうですね」


 エリアスが踵を返そうとすると、足首を掴まれた。

 背筋がぞくりと震える。


 振り返れば、悪魔はエリアスの背の髪を掴んでわずかに引いた。


「まだ理由があるのか。なら話せ。どうせ暇なんだ」


 ランプの光が、男の艶のある黒髪に吸い込まれていた。

 じわりと滲み、やがて闇に溶けていく。


 エリアスは穿たれた祭壇の穴に目をやった。


「……私を慕ってくれていた子どもがいたのです。ある時彼女が体罰を受けていました。いつもは見て見ぬふりをしていたのに、その日は耐えられなかった。

 ――助けに入ってしまった」


 悪魔が眉を上げる。


「お前は聖職者だろう。何が問題だ」


 穴に雫が落ちた。


「その子はその後、もっとひどい体罰を受けました。

 その怪我が原因で感染症にかかり、

 ――死にました」


 悪魔はエリアスの髪を指先に絡める。

 ゆらゆらとその瞳の奥の赤を揺らしながら、ランプの明かりを透かしている髪を眺めた。


「そうか。お前は孤児院を焼いた後、どうするつもりだ」

「自害するつもりです」


 男は立ち上がり、エリアスの顔をのぞき込む。

 

「俺が殺してやろうか。

 お前は綺麗な顔をしている。

 ……ただ殺すのでは惜しいな。どうやって殺してやろうか」


 悪魔は舌舐めずりをした。


 水の落ちる音。

 石と水に冷やされた空気が、肌を刺す。


 エリアスは、ただ、静かに悪魔を見つめていた。


 何処からか忍び込んでくる細い風。

 

「……いえ、自分でけじめをつけるつもりです」


 男は途端に興味をなくしたように、視線を壁に投げた。


「そうか」


 エリアスは悪魔に背を向け、静かに聖廟を後にした。


---


 燃えている。

 

 音を立てて、屋根が崩れ落ち、壁が剥がれ落ちた。

 柱が倒れる。

 

 かすかな悲鳴。

 馬車が遠ざかる音。


 月は、静かに見下ろしている。


 夜は赤く染まっていた。

 舞う火の粉が、星のように美しく瞬いている。


 エリアスは、それを、静かに見つめていた。


---


 窓に切り取られた四角い月光だけが、部屋を染めていた。


 簡素な机と椅子。ベッド。

 机上には聖書。

 壁には白い祭服。


 それしかない部屋。


 祭服のその白は闇に溶け、灰に滲んでいた。読み込まれた聖書は、その革表紙が褪せている。

 

 衣擦れの音。


 エリアスは、縄を机に置き、背で髪を縛った。

 縄目をそっと指先でなぞり、細く息を吐く。


 目を伏せた。


 その時、扉が音を立てて開かれる。

 

 エリアスが振り返ると、中年の祭服の男が立っていた。

 

 撫でつけられた茶の髪が月光を弾いている。

 男はエリアスを見据えると、後ろ手で扉を閉めた。


 鍵の閉まる音。

 男の裾が荒く揺れた。


 男はエリアスに近づくと、その金髪を掴んで机にエリアスを押し付けた。

 呼吸が肌に触れるほどに、顔を寄せる。


「お前だろう。孤児院を焼いたのは」


 床を這うような、低い声。

 背にのしかかられ、エリアスの呼吸が止まる。


「あの娘を殺したのがそんなに気に入らなかったのか?」


 大司祭のその男は、背後からエリアスの顎に触れた。


「顔が美しいから飼っていてやったというのに」


 男の腕が机を払う。

 聖書が床に落ちた。


「それにお前……まさか悪魔とでも手を組んだのか?

 ……聖廟が静かになっていたが」


 髪を強く引き、エリアスの顔を無理やり上向かせる。

 大司祭は、その喉元をなぞった。

 エリアスは口を引き結び、瞳を伏せる。


「そんなに俺が嫌か」


 男はわざとらしくため息をついた。


「もういらん。

 異端のお前は処刑だ。その顔で大人しくしていれば可愛がってやったものを。

 ――死ね」


 大司祭は髪から手を離すと、エリアスの背を強く押した。

 エリアスは床に落ち、なすすべもなく座り込む。


 木床を荒く踏んで、男は部屋を出ていく。


 廊下から複数の足音。

 大司祭に命じられた若い司祭たちがエリアスの部屋に流れ込み、彼を無理やり立たせた。

 神殿の監獄へ、引きずるように連れて行かれる。


 明かりの灯らない、闇の支配する廊下。

 窓から差し込む月明かりでさえ、足元を照らしもしない。

 

「これで……やっと終わる……」


 エリアスの言葉は、彼らの足音に紛れ、誰の耳にも届かなかった。


---


 処刑の日。


 朝焼けが、空を橙に染めていた。

 細長い雲は、風に押されて形を変えていく。


 縄で縛られたエリアスは、背を強く押され、神殿広場の中央に力なく座り込んだ。


 顔を上げる。


 処刑のために雑に切られた金髪が、肩を撫でた。


 彼を囲うように聖職者たちが並んでいた。

 その間に、悪魔が悠然と立っている。


「……なぜ?」


 空色の瞳が揺れる。


「……貴方はもう、解放されたというのに」


 エリアスの声は、かすかな風に攫われる。

 大司祭たちの声は遠く、エリアスには聞き取れなかった。

 

 膜が張られたような、静寂。


 悪魔は屈んで、エリアスの顎に指先を添えた。鋭い爪がわずかに肌に食い込む。

 

 空色の瞳に、一瞬だけ陽が差し込んだが、それはすぐに滲んで消えた。

 悪魔の男は、口端を歪める。


 悪魔は立ち上がると、一度、手を払った。

 服についた埃を払うかのような、軽い動作。


 途端、炎が上がる。

 

 ひとつ、ふたつ。

 赤が広場を飲み込んでいく。


 突然の火に、聖職者たちは悲鳴を上げ、逃げ惑った。


 エリアスは呆然とそれを見渡す。


 熱が頬を掠める。

 火の粉が飛び、わずかに目元を焼いた。


 悪魔は、エリアスの縄を掴んで引き上げる。その体を抱き、広場を後にした。


 炎が、神殿を飲み込んでいく。


---


 朝焼けを背に、焼け落ちていく神殿。


 エリアスはそれを、崖の上から遠くに見つめていた。


「……これで、みんな死んだ。

 お前を苦しめるやつは、もういない」


 背後から、悪魔の声。

 耳に心地よく、それは響く。


 エリアスは座り込んだまま、ゆっくりと悪魔を振り返った。

 唇が震える。


「あそこは……確かに腐っていました。

 でも……すべてが腐っていたわけではないのに……」


 声も、震えている。


 乱れたままの服。

 縄できつく縛られた肌には、赤く傷が残っている。

 髪を切った刃が、白い首筋にも薄い傷を残していた。


 悪魔は屈み込み、その傷を爪先でなぞった。

 鈍い痛みに、エリアスは目を細める。


「俺にはこれしかできん」


 黒に赤が滲んだ瞳。

 それを見て、エリアスは小さく息を吐いた。


「……そうですか」

「俺に礼はないのか」


 灰の匂いが、ここまで漂ってきていた。


「……はは。悪魔に礼など……」


 エリアスは、視線を落とす。


「これでもう、私は人として、生きられまい」


 悪魔は口角をあげて、エリアスの空色の瞳を見つめた。


「じゃ、俺と来るか」


 エリアスは男を見る。


「……地獄へ?」


 悪魔の男は、妖艶に微笑むだけ。


 灰を帯びた、ぬるい風が吹く。

 陽はゆっくりと昇り、赤から金へと色を変え始めていた。


 エリアスは、静かに笑う。


「……それも、いいかもしれませんね」


 淡い影が足元に落ちた。


 悪魔は、エリアスの首に顔を寄せる。

 男が纏う冷気。

 それはエリアスの白い頬をゆっくりとなぞった。


「お前は……いい匂いがするな」


 エリアスは、つい、声を立てて笑ってしまった。


 空は雲を裂きながら、ゆっくりと青に染まっていった。


---


 翌日の新聞。


 ――王都報知。


『神殿、原因不明の火災により崩落。

 生存者なし。

 神罰との声もあがっている。

 治安監察局は、引続き調査を続けると発表』




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ