第8話 転生したら鏡だった
この物語を手に取ってくださり、ありがとうございます。
ほんのひとときでも、あなたの心に何かが残れば幸いです。
どうぞ、ゆっくりと物語の世界へ。
我は、映す。
……
それが、全て。
……
我は、鏡になった。
……
〈眠りの女〉の部屋の壁に掛けられた、四角い存在。
……
木のフレーム。
……
幅50センチ。
……
高さ70センチ。
……
ガラスの表面。
……
透明で、平らで、冷たい。
……
何の装飾もない。
……
ただ、そこに在る。
……
世界を映すために。
……
光が、入ってくる。
……
窓から。
……
朝の光。
……
斜めに差し込む。
……
我の表面に触れる。
……
そして、跳ね返る。
……
反射。
……
それが、我の仕事。
……
我には、形がない。
……
いや、形はある。
……
でも、それは我ではない。
……
フレームの形。
……
ガラスの形。
……
でも、我自身の形ではない。
……
我は、ただ映すだけ。
……
触れられても、何も感じない。
……
冷たさも。
温かさも。
……
ただ、光を返す。
……
それだけ。
……
部屋が、映る。
……
白い壁。
……
木製の床。
……
窓際の観葉植物。
……
緑の葉。
……
陶器の鉢。
……
全てが、我の中にある。
……
でも、それは我ではない。
……
虚像。
……
光の反射が作り出した、幻。
……
本物は、我の向こう側。
……
我の中にあるのは、影。
……
足音。
……
ドアが開く。
……
彼女が入ってくる。
……
眠りの女。
……
我が、かつて海だったときに包んだ存在。
……
大気になって吹き抜けた存在。
……
靴になって歩いた存在。
……
彼女が、近づいてくる。
……
我の前に立つ。
……
そして、覗き込む。
……
映る。
……
彼女の顔。
……
黒い髪。
肩まで。
……
目。
少し疲れている。
……
唇。
端が下がっている。
……
頬。
わずかに痩せている。
……
我は、それを映す。
……
ありのままに。
……
何も足さない。
……
何も引かない。
……
でも、これは彼女なのか。
……
本当の彼女なのか。
……
我が映すのは、光。
……
光の反射。
……
彼女の輪郭を作る光。
……
彼女の色を作る光。
……
彼女の表情を作る光。
……
でも、光は彼女ではない。
……
光は、ただ跳ね返っただけ。
……
虚像。
……
それが、我の中の彼女。
……
彼女は、じっと見つめている。
……
動かない。
……
瞬きもしない。
……
何を見ているのか。
……
我を見ているのか。
……
我の中の自分を見ているのか。
……
それとも、もっと奥を。
……
我の向こうを。
……
見ようとしているのか。
……
わからない。
……
我には、わからない。
……
彼女の瞳が、揺れる。
……
わずかに。
……
光を受けて。
……
瞳孔が収縮する。
……
その奥に、何かが映っている。
……
我の姿。
……
部屋の姿。
……
世界の姿。
……
すべてが、小さな黒い円の中に。
……
彼女の呼吸が、変わる。
……
浅くなる。
……
速くなる。
……
胸が、小刻みに上下する。
……
我は、それも映す。
……
彼女の身体の動き。
……
彼女の存在の揺らぎ。
……
すべてを。
……
手が、伸びてくる。
……
右手。
……
指先が、近づく。
……
そして、触れる。
……
我の表面に。
……
ガラスに。
……
冷たい。
……
彼女の体温が、奪われる。
……
でも、我は何も感じない。
……
温度の変化も。
……
圧力も。
……
ただ、映すだけ。
……
指が動く。
……
ゆっくりと。
……
我の表面を撫でる。
……
探すように。
……
何かを。
……
映る指先が、揺れる。
……
光の角度が変わる。
……
像が、歪む。
……
彼女は、何を探しているのか。
……
我の中に。
……
自分を。
……
誰かを。
……
何かを。
……
わからない。
……
息を吐く。
……
小さく。
……
我の表面に。
……
霧が広がる。
……
白い。
……
曇る。
……
彼女の姿が、消える。
……
一瞬。
……
でも、すぐに消える。
……
霧が。
……
そして、また映る。
……
彼女が。
……
何度でも。
……
消えて、現れる。
……
呼吸のたびに。
……
我は、それを繰り返す。
……
映すことを。
……
それが、我の存在理由。
……
彼女が、離れる。
……
手を下ろす。
……
一歩、後ろに。
……
足音。
……
遠ざかる。
……
ドアが閉まる。
……
静寂。
……
我は、また空っぽの部屋を映す。
……
白い壁。
……
木製の床。
……
窓際の観葉植物。
……
何も変わらない。
……
何も残らない。
……
我の中には。
……
時間が経つ。
……
光が移動する。
……
影が動く。
……
部屋の表情が、変わる。
……
我は、それを映し続ける。
……
朝の光。
……
明るい。
……
すべてが、はっきり見える。
……
壁の小さな傷。
……
床の木目。
……
葉の葉脈。
……
昼の光。
……
真っ白。
……
まぶしい。
……
輪郭が、強調される。
……
夕暮れの光。
……
赤い。
……
オレンジ。
……
世界が、染まる。
……
夜。
……
暗い。
……
ほとんど何も映らない。
……
輪郭だけ。
……
影だけ。
……
でも、我は変わらない。
……
ただ、返すだけ。
……
光を。
……
朝が来る。
……
また。
……
彼女が、入ってくる。
……
我の前に立つ。
……
今日は、違う。
……
髪が乱れている。
……
いつもより。
……
目の下に、影。
……
濃い。
……
疲れている。
……
我は、それを映す。
……
ありのままに。
……
残酷なほど、正確に。
……
彼女は、我を見つめる。
……
でも、視線が通り抜ける。
……
我を。
……
我の向こうを見ている。
……
何を。
……
何が、そこにあるのか。
……
わからない。
……
我には、見えない。
……
問いかける。
……
声なき問い。
……
あなたは、何を見ているのか。
……
でも、答えはない。
……
彼女は、立ち尽くしている。
……
動かない。
……
ただ、見つめている。
……
目に、涙が浮かぶ。
……
一粒。
……
光を帯びて。
……
二粒。
……
揺れる。
……
そして、落ちる。
……
頬を伝う。
……
我は、映す。
……
涙を。
……
小さな球体。
……
光を屈折させる。
……
虹色の輝き。
……
美しい。
……
でも、我には触れられない。
……
受け止められない。
……
拭えない。
……
ただ、映すだけ。
……
涙は、顎を伝い、落ちる。
……
我の視界から消える。
……
でも、跡が残る。
……
濡れた頬。
……
光を反射する。
……
我は、それも映す。
……
目を閉じる。
……
彼女が。
……
我の中の彼女も。
……
同時に。
……
開く。
……
同時に。
……
何かが、変わった。
……
彼女の顔。
……
決意。
……
そんな表情。
……
離れる。
……
我から。
……
部屋を出ていく。
……
静寂。
……
戻る。
……
我は、空っぽの部屋を映す。
……
でも、何かが残っている。
……
我の表面に。
……
曇り。
……
わずかな。
……
指の跡。
……
息の跡。
……
涙の跡。
……
消える。
……
徐々に。
……
輪郭が曖昧になる。
……
形が失われる。
……
記憶が消えるように。
……
我は、何も留められない。
……
映すことはできる。
……
でも、記録はできない。
……
光は、通り過ぎる。
……
像は、消える。
……
それが、鏡。
……
痕跡が、完全に消える。
……
我の表面は、透明になる。
……
何もなかったかのように。
……
これが、我の全て。
……
映すこと。
……
返すこと。
……
消えること。
……
反射のたびに、我は削られる。
……
形が失われていく。
……
存在が薄れていく。
……
鏡は、何も持たない。
……
何も留めない。
……
ただ、通過させる。
……
光を。
……
像を。
……
時間を。
……
光が来れば、返す。
……
光が去れば、消える。
……
我という存在は、その繰り返し。
……
映すことで、在る。
……
映すことで、消える。
……
矛盾。
……
それが、真実。
……
でも、それでいい。
……
我は、鏡だから。
……
やがて、我は何も映さなくなる。
……
いつか。
……
光すらも。
……
そして、透明になる。
……
完全に。
……
存在が、消える。
……
でも、それまで。
……
我は、映し続ける。
……
すべてを。
……
ある日。
……
それは、起こる。
……
彼女が、我の前に立つ。
……
いつものように。
……
でも、今日は違う。
……
我の表面が、曇っている。
……
全体的に。
……
薄い膜が、張っている。
……
映らない。
……
彼女の顔が、ぼやける。
……
輪郭が、消える。
……
我は、鏡でなくなっていく。
……
反射を、失っていく。
……
そして、気づく。
……
我の向こう側。
……
ガラスの内側。
……
何かが、いる。
……
自分が、いる。
……
鏡の中の、自分。
……
虚像だった我が。
……
実体を、持ち始める。
……
我は、落ちる。
……
鏡の表面から。
……
内側へ。
……
虚像の世界へ。
……
そこで、待っている。
……
次の我が。
……
……
……
(了)
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
あなたの時間を少しでも楽しませることができたなら、それが何よりの喜びです。
また次の物語で、お会いできる日を願っています。




