第5話 転生したら鞄だった
この物語を手に取ってくださり、ありがとうございます。
ほんのひとときでも、あなたの心に何かが残れば幸いです。
どうぞ、ゆっくりと物語の世界へ。
我は、彼女を運ぶ。
……
いや、彼女が我を運ぶ。
……
どちらでもいい。
……
我は、鞄になった。
……
〈眠りの女〉の鞄。
……
革の、少し古びた鞄。
……
彼女の肩に掛けられ、揺れながら、共に歩く。
……
我には、内側がある。
……
暗い、閉じられた空間。
……
ファスナーで区切られた、秘密の場所。
……
そこに、彼女の日常が詰め込まれている。
……
財布。
革製の、使い込まれた財布。
……
鍵。
家の鍵、職場の鍵、自転車の鍵。
……
手帳。
予定が書かれた、彼女の時間。
……
ペン。
青いインクの、ボールペン。
……
ハンカチ。
白地に花柄の、小さな布。
……
リップクリーム。
少し溶けかけた、柔らかな感触。
……
イヤホン。
絡まった白いコード。
……
スマートフォン。
……
ミント。
……
絆創膏。
……
小さな、でも大切なものたち。
……
それぞれに、役割がある。
……
それぞれに、彼女との物語がある。
……
我は、それらを抱いている。
……
一緒に。
……
区別することなく。
……
守っている。
……
それが、鞄の役割。
……
すべてを受け入れ、すべてを運ぶ。
……
彼女が、我の中に手を入れる。
……
指が、内側を探る。
……
何かを探している。
……
財布だろうか。
鍵だろうか。
……
我は、その動きを感じる。
……
内側から。
……
彼女の指が、様々なものに触れる。
……
そして、見つける。
……
鍵。
……
彼女が、それを取り出す。
……
我は、少しだけ軽くなる。
……
でも、すぐに元に戻る。
……
鍵が、また戻される。
……
我は、それを受け止める。
……
何度も、何度も。
……
毎日、繰り返される行為。
……
取り出して、戻す。
……
それが、日常。
……
我は、その日常の一部。
……
彼女の体温が、我に伝わる。
……
肩に掛けられているから。
……
革が、その温もりを吸収する。
……
ゆったりと。
……
そして、我も温かくなる。
……
彼女と同じ温度に。
……
それは、心地よかった。
……
かつて、我は靴だった。
……
足の温もりを感じていた。
……
今は、肩の温もり。
……
場所は違うが、温かさは同じ。
……
生きている、という証。
……
電車の中。
……
我は、彼女の膝の上に置かれる。
……
揺れる。
……
電車の振動が、我を通り抜ける。
……
ガタン、ゴトン。
……
規則的な音。
……
リズム。
……
都市の鼓動。
……
それに合わせて、我も揺れる。
……
中のものたちも、少しだけ動く。
……
カチャ、と小さな音。
……
金属同士が触れる音。
……
鍵と、何かが。
……
コインかもしれない。
……
我は、その音を内側から聞く。
……
鞄の中は、小さな世界。
……
外の世界とは、切り離された空間。
……
でも、完全に孤立しているわけではない。
……
ファスナーの隙間から、光が入る。
……
細い、細い光の筋。
……
空気が入る。
……
外の匂いが、中に染み込む。
……
音が入る。
……
アナウンス。
人々の話し声。
……
そして、彼女の手が入る。
……
内と外を繋ぐ、境界。
……
それが、我。
……
駅に着く。
……
彼女が、立ち上がる。
……
我は、再び肩に掛けられる。
……
重力が、我を引く。
……
下へ。
……
でも、彼女の肩が、我を支える。
……
我は、ぶら下がりながら、揺れる。
……
左右に。
……
彼女の歩みに合わせて。
……
それは、リズムだった。
……
右、左、右、左。
……
我は、そのリズムを刻む。
……
ドンドンドンドン。
……
彼女の腰に、ぶつかる音。
……
それが、歩くという行為の証。
……
オフィスに着く。
……
我は、机の下に置かれる。
……
床に。
……
冷たい床。
……
我は、そこで静かに待つ。
……
彼女が、仕事をしている間。
……
時間が、ゆっくり流れる。
……
我には、することがない。
……
ただ、そこに在るだけ。
……
でも、それでいい。
……
待つことも、役割だから。
……
忍耐。
……
静止。
……
必要とされる時まで、ただ在ること。
……
たまに、彼女が我を開ける。
……
ファスナーが、ジッと音を立てる。
……
何かを取り出す。
……
ペンだったり、手帳だったり。
……
その動きで、中のものたちが動く。
……
位置が変わる。
……
そして、また戻す。
……
我は、それを受け入れる。
……
繰り返し。
……
何度でも。
……
開けられて、閉じられる。
……
それが、日常。
……
昼休み。
……
彼女が、我を持って出る。
……
外へ。
……
オフィスの外。
……
太陽の光。
……
明るい、温かい光。
……
我は、その光を浴びる。
……
革が、温まる。
……
熱を吸収する。
……
心地よい温度。
……
生き返るような感覚。
……
彼女が、ベンチに座る。
……
我は、隣に置かれる。
……
ベンチの上。
……
木の質感。
……
少しざらついている。
……
ペンキが剥げている部分もある。
……
我は、その上で休む。
……
彼女と、並んで。
……
彼女が、サンドイッチを食べている。
……
我は、それを見ているわけではない。
……
でも、感じる。
……
彼女の動き。
……
咀嚼のリズム。
……
満足の空気。
……
それが、伝わってくる。
……
風が吹く。
……
我は、少し揺れる。
……
でも、倒れない。
……
しっかりと、そこに在る。
……
重みがあるから。
……
中に、ものが詰まっているから。
……
空っぽではないから。
……
彼女の動き。
……
咀嚼のリズム。
……
満足の空気。
……
それが、伝わってくる。
……
風が吹く。
……
我は、少し揺れる。
……
でも、倒れない。
……
しっかりと、そこに在る。
……
重みがあるから。
……
中に、ものが詰まっているから。
……
空っぽではないから。
……
仕事が終わる。
……
彼女が、我を持って帰る。
……
夕暮れの街。
……
オレンジ色の光。
……
我は、その光の中を揺れる。
……
彼女の肩で。
……
一日が、終わろうとしている。
……
我の中には、今日一日の記憶がある。
……
どこへ行ったか。
何をしたか。
……
それら全てが、我に刻まれている。
……
財布の位置。
鍵の位置。
手帳の角度。
……
すべてが、少しずつ変化している。
……
それが、時間の流れ。
……
我は、その流れを記録している。
……
鞄とは、記録なのだ。
……
日常の、記録。
……
家に着く。
……
彼女が、我を床に置く。
……
玄関の隅に。
……
我は、そこで一日を終える。
……
重さが、残っている。
……
中のものたちは、まだそこにいる。
……
明日も、使われるものたち。
……
我は、それらを守りながら、夜を過ごす。
……
静かに。
……
でも、空っぽではなく。
……
彼女の日常を抱きながら。
……
革が、少しずつ柔らかくなっている。
……
使い込まれることで。
……
最初は固かった。
……
張りがあり、形が崩れなかった。
……
でも今は、違う。
……
彼女の手に馴染むことで。
……
彼女の肩の形に馴染むことで。
……
我は、変化している。
……
革の繊維が、ほぐれている。
……
油分が染み込み、艶が出ている。
……
色も、少し濃くなった。
……
最初の明るい茶色から、深い茶色へ。
……
使用の痕跡。
……
時間の証。
……
新しい鞄ではなく、古い鞄へ。
……
でも、それは悪いことではない。
……
むしろ、良いこと。
……
美しいこと。
……
馴染むということは、信頼されているということ。
……
長く使われるということは、必要とされているということ。
……
選ばれ続けているということ。
……
我は、それを誇りに思う。
……
鞄として。
……
彼女の日常を運ぶ、存在として。
……
相棒として。
……
明日も、我は彼女と共に歩く。
……
肩に掛けられて。
……
揺れながら。
……
日常を、運びながら。
……
それが、我の道。
……
鞄としての、道。
……
……
……
(了)
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
あなたの時間を少しでも楽しませることができたなら、それが何よりの喜びです。
また次の物語で、お会いできる日を願っています。




