第1話 転生したら海だった
この物語を手に取ってくださり、ありがとうございます。
ほんのひとときでも、あなたの心に何かが残れば幸いです。
どうぞ、ゆっくりと物語の世界へ。
我は、青の中にいた。
……
どこまでも続く、青。
深い、深い青。
……
それは色であり、空間であり、存在そのものだった。
……
青には、無数の層がある。
……
薄い青。
濃い青。
緑がかった青。
黒に近い青。
……
それらが、重なり合い、溶け合い、揺らいでいる。
……
上も下もない。
始まりも終わりもない。
ただ、青だけが在る。
……
我は、その青に包まれている。
いや、我そのものが青なのかもしれない。
……
目を開けているのか、閉じているのか。
それすらわからない。
……
目が、ないのだから。
……
身体が、ない。
手も、足も、顔も。
触れるものが、何もない。
……
でも、我は在る。
確かに、ここに。
……
意識だけが、漂っている。
……
思考だけが、在る。
……
これは、どこだろう。
……
いや、「どこ」という概念さえ、曖昧だ。
……
そう思った瞬間、音が聞こえた。
……
ザァァァ……。
……
波の音。
……
ああ、と我は理解する。
ここは、海だ。
……
我は、海になった。
いや、海の中に溶けた。
……
境界が、ない。
我と水の境目が、わからない。
どこまでが我で、どこからが海なのか。
……
皮膚がないのだ。
輪郭がないのだ。
……
かつて身体には、明確な内と外があった。
皮膚という境界線があった。
……
でも今は、すべてが繋がっている。
……
我は水に溶け、水は我に染み込む。
分けることができない。
……
それは、恐ろしいことのはずだった。
自分が失われていく、ということなのだから。
……
でも、不思議と恐怖はなかった。
むしろ、懐かしい。
……
まるで、帰ってきたような。
……
波が、揺れる。
……
その揺らぎが、我を通り抜ける。
いや、我そのものが揺れている。
……
ザァァァ……。
……
音が、記憶を運んでくる。
……
誰かの泣き声。
誰かの笑い声。
握った手の温もり。
交わした言葉。
……
「ありがとう」
「さようなら」
「また会おう」
……
言葉が、波に溶けている。
……
雨の日の匂い。
濡れたアスファルト。
傘を叩く音。
……
朝日の温度。
窓から差し込む光。
目覚めの静けさ。
……
別れの時の沈黙。
何も言えなかった瞬間。
背中を見送った記憶。
……
それらが、波に混ざって漂っている。
過去と未来が、境界なく溶け合っている。
……
いつの記憶なのか、わからない。
……
かつての我の記憶か。
それとも、海そのものの記憶か。
……
我は、それらを抱いている。
拒むことなく。
……
すべてが、ここにある。
すべてが、我である。
……
波は、記憶を運び続ける。
……
永遠に。
……
時間が、ない。
……
海には、時間がない。
波は永遠に繰り返し、永遠に新しい。
……
我は、その中を漂う。
……
光が、差し込んでくる。
……
上から。
いや、上という概念があるのかさえわからない。
ただ、光が。
……
それは水を通り、屈折し、揺らぎ、砕ける。
……
青い光。
緑がかった青。
透明な青。
……
光は一筋ではない。
無数の筋が、波の揺らぎに合わせて踊っている。
……
カーテンのように。
レースのように。
……
光の織物が、海を満たしている。
……
その光の筋を見つめながら、我は思う。
これが、深さなのだと。
……
光が届く場所と、届かない場所。
明るさと、暗さ。
その差が、深さを生む。
……
距離を生む。
……
我は、深い場所にいる。
でも、光は届いている。
……
かすかに、でも確かに。
……
それは、希望に似ていた。
遠くても、消えない何か。
……
どんなに深くても、光は来る。
……
それを、我は知っている。
……
その光が、我を照らす。
いや、我を通り抜ける。
……
我は透明だ。
水と同じように。
……
でも、在る。
……
波が、また揺れる。
……
その揺らぎに合わせて、我も揺れる。
抵抗することなく。
……
これが、海というものなのだろう。
……
すべてを包み込み、すべてを溶かす。
境界を持たず、形を持たず。
ただ、在り続ける。
……
母のように。
……
そう思った瞬間、温かさを感じた。
……
それは、かつて感じた温もりに似ていた。
……
誰かに抱かれた時の、安心。
誰かに手を握られた時の、信頼。
……
海は、それと同じものを与えてくれる。
……
拒まず、責めず、ただ包む。
……
海には、温度がある。
冷たい場所も、温かい場所も。
流れがあり、層がある。
……
表層は温かく、深層は冷たい。
光が届く場所は明るく、届かない場所は暗い。
……
そして、それらは混ざり合いながら、分かれている。
……
我は、その全てを感じている。
……
同時に。
……
身体がなくても、感覚は在る。
いや、身体がないからこそ、すべてを感じられる。
……
一点に閉じ込められていない。
どこか一つの場所にいるのではない。
……
我は、海のあらゆる場所に在る。
……
波の揺らぎ。
光の屈折。
水の温度。
深さの重み。
……
それら全てが、我なのだ。
……
我は、海そのものになっている。
……
ザァァァ……。
……
波の音が、呼吸のように聞こえる。
……
吸って、吐いて。
満ちて、引いて。
……
それは、生命のリズム。
……
すべての生命が持つ、根源的なリズム。
……
我は、その中で思い出す。
……
かつて、我には身体があった。
手があり、足があり、心臓があった。
……
呼吸をしていた。
吸って、吐いて。
……
空気を取り込み、吐き出していた。
肺が膨らみ、縮んだ。
胸が上下した。
……
それが、生きるということだった。
……
でも今は違う。
……
その呼吸が、今は波になっている。
……
我の息が、海の波に変わった。
……
肺ではなく、海全体が呼吸している。
……
そして、それは止まらない。
永遠に続く。
……
身体は失ったが、呼吸は残った。
形を変えて。
……
規模を変えて。
……
個の呼吸から、全の呼吸へ。
……
これが、生命の本質なのかもしれない。
……
形ではなく、律動。
……
我は、その律動そのものになった。
……
これが、生命の最初の記憶なのかもしれない。
……
水の中で生まれた、最初の鼓動。
……
すべての生命は、水から始まった。
海から生まれ、海に還る。
……
我は、その記憶を抱きながら漂う。
……
光が、また揺れる。
……
波が、また満ちる。
……
我は、その中で溶けていく。
……
でも、消えはしない。
……
水は循環する。
蒸発し、雲になり、雨になり、また海に還る。
……
我も、そうなのだろう。
……
形を変えながら、巡っていく。
……
海から、何かへ。
何かから、また何かへ。
……
それは旅のようなもの。
終わりのない、静かな旅。
……
終わりはない。
……
ただ、変化があるだけ。
……
波が、我を揺らす。
……
我は、それに身を任せる。
……
青い世界が、我を包む。
……
境界のない、優しい世界。
……
ここには、苦しみがない。
痛みもない。
……
ただ、在るだけ。
……
それで、十分だった。
……
我は、海の中で微笑む。
……
顔はないが、確かに微笑んでいる。
……
波の音が、子守唄のように響く。
……
ザァァァ……。
……
我は、その音の中で眠る。
眠りながら、目覚めている。
……
これが、海。
……
これが、我。
……
そして、これが始まり。
……
光が、優しく揺れている。
……
波が、永遠に続いている。
……
我は、その中で呼吸する。
……
海として。
……
水として。
……
生命として。
……
波が、また満ちる。
……
光が、また揺れる。
……
我は、在る。
……
ここに。
……
どこまでも続く青の中に。
……
永遠に。
……
……
……
(了)
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
あなたの時間を少しでも楽しませることができたなら、それが何よりの喜びです。
また次の物語で、お会いできる日を願っています。




