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お客様は神様なのです

作者: 雉白書屋

「ほら、ここなんかいいんじゃないか? な? な?」


「ふうん……」


 彼女が訝しげに返事をした。『どうせ、予約しないと無理なんじゃないの?』とでも言いたげな目つきである。

 まあ、無理もない。今日は彼女の誕生日。本来なら前々から行きたがっていた有名レストランでディナーの予定だったのだが、おれが予約をミスして、門前払いを食らってしまったのだ。

 彼女を宥めながら歩いていたところ、たまたま見つけたのがこのレストランだった。こぢんまりしているが、看板は洒落ていて照明も柔らかく、雰囲気は悪くない。……まあ、そう思い込むしかないのかもしれない。

 おれはまだつんとしてる彼女を背に、頭を掻きながらドアを押し開けた。


「いらっしゃいませ。ようこそお越しくださいました。当レストランの給仕長、室町と申します。お席までご案内いたします」


 深々と頭を下げて出迎えた男の声は低く、よく通った。黒髪をぴっちり撫でつけたオールバック、背筋の伸びた長身。仕立てのよい制服は一切の皺がなく、その存在感はまるで舞台俳優のようだった。その迫力に、おれと彼女も思わず背筋を正して会釈した。

 椅子を引かれて、席に腰を下ろす。


「ほら、なかなかいい店じゃないか」


 おれが小声で言うと、彼女は「そうね」と短く返し、少し口角を上げた。ようやく機嫌が直ってきたようで、おれは胸を撫で下ろした。

 二人同じコース料理を注文し、給仕長が静かにメニューを下げた。やがて、ウエイターが皿にナプキンを載せて運んできた。おれたちはそれを膝の上に広げた――そのときだった。


「あっ!」


「えっ」


 ナイフが床に落ち、硬い音を響かせた。ウエイターがテーブルに並べようとした瞬間、手を滑らせたのだ。


「も、も、申し訳ございません!」


 ウエイターは顔を真っ青にして、素早くナイフを拾い上げると、床に膝をついたまま深々と頭を下げた。おれは驚きつつも、「大丈夫ですよ」と慌てて声をかけた。

 彼女と顔を見合わせ、二人して小さく苦笑いした。何もそこまで取り乱さなくても、と。


「お客様、うちの者が大変な失礼を……」


 給仕長が音もなく歩み寄り、そう言った。


「ああ、いえ、全然……」


 給仕長がウエイターの肩に手を置くと、ウエイターは「ひっ」と短く声を上げた。給仕長はもう片方の手を差し出した。ウエイターは顔を引きつらせながら、その手のひらにナイフをそっと乗せた。

 次の瞬間――給仕長はそのナイフで、ウエイターの喉を掻き切った。


「え、え、え?」


 鮮血が弧を描いた。栓を開けたように喉から赤黒い血が流れ出し、ウエイターは糸の切れた人形のように崩れ落ちた。飛び散った血が、おれの膝のナプキンに点々と染み込み、三つの花びらのような形になっていく。


「大変、申し訳ございませんでした」


「は、は、あ、あ、あの、なんで、か、彼を……?」


 おれは喉の奥から絞り出すように問いかけた。彼女は両手で口を覆い、凍りついたように声一つ上げられずにいた。


「当レストランでは、お客様は絶対的な神様なのです」


「へ、へえ?」


「食前酒をお持ちいたしますね」


 微笑を浮かべたまま給仕長はウエイターの足を掴み、ずるずると引きずって奥へ消えていった。赤いカーペットには、どす黒い帯のような血の跡が伸びていた。


「こ、このレストラン、おかしいよ!」


「しっ! 静かに……!」


 今にも絶叫しそうな彼女を、おれは慌てて制した。おかしいなんて百も承知だ。二言目にはおれへの非難が飛び出すことも。だが、今はそんなことをしている場合ではないし、騒げば何をされるかわからない。


「シャンパンをお持ちいたしました」


 ほどなく戻ってきた給仕長は、無駄のない動作でボトルを傾け、シャンパンを注いだ。小刻みに震えるおれたちとは正反対に、その指先には一切の揺らぎもなかった。


「どうぞ、ごゆるりと時をお過ごしください――神様」


 神様――その冷たい響きに、おれはぶるっと震えた。

 深く一礼し、給仕長が下がる――とそのとき、ふいに足を止めた。


「写真でもお撮りになるおつもりですか?」


「へ?」


 給仕長は振り返り、じっとこちらを見据えた。いや、おれではない。彼女を見ている。彼女が小さく首を横に振ると、給仕長はにこりと笑い、軽く会釈して今度こそ奥へと下がっていった。


「ど、どういうことだ?」


 おれは声を潜め、彼女に訊ねた。


「ひ、膝……」


「膝?」


「膝の上で……スマホ……通報……」


 彼女は震えながら途切れ途切れに言った。どうやら、こっそり警察に通報しようとしたらしい。だが、あっさりと見抜かれてしまったのだ。


「ね、ねえ、い、今のうちに逃げようよ!」


「だから声を落とせって。逃げるにしても、失敗したら間違いなく殺されるぞ」


「ころさ、殺され、だったら通報してよ……!」


「しっ、あ、ほら来た……」


 銀のトレーを抱え、給仕長が料理を運んできた。足音がなく、いつ現れるのかまったくわからない。逃げる隙なんてなさそうだった。それに、こんな震えっぱなしの彼女を連れていたら、すぐに追いつかれるに決まっている。

 仮にうまく警察を呼べたとしても、捕まえる前にこっちに切りかかってきたら、なんの意味もない。彼はおれたちを“神様”と呼んでいるのだ。きちんとした振る舞いをしている限りは、危害を加えてくることはない……はずだ。


「ナイフやフォークは外側から順にだぞ……」


「わかってる」


「音を立てないようにするんだ」


「だから、わかってる」


「大声で話すのはマナー違反だぞ」


「もう、わかってるって!」


 おれはこの日のために調べたテーブルマナーを必死に思い出していた。そのことに夢中で、味わう余裕などないと思っていたが、口に運んだ料理は意外にもうまかった。彼女も震えながら、ちまちまと食べ進めていた。やがて、残したら殺されると悟ったのか、無理やり喉に押し込むようにして食べきった。

 メインの肉料理には、さすがに二人とも手が止まったものの、なんとか残さず平らげた。


「ちょっと、トイレ……」


 デザートの前に、彼女が席を立った。

 ほどなくして、給仕長がデザートの焼き菓子を運んできた。彼は流暢に料理の説明を始めたが、相変わらず内容は頭に入ってこなかった。


「あの……」おれは思い切って口を開いた。


「さっき厨房からすごい音がしたんですけど……ガガガッシャーンって……」


 あの音にはおれも彼女も跳び上がり、危うくフォークを床に落としそうになった。


「ああ、失礼しました。シェフが調理道具を床に落としたんです」


「あ、ああ、なるほど……ちなみに、そのシェフは……?」


「ご安心ください。殺しました」


「おお……すごいですね」


 なぜ褒めたのか、おれ自身にもわからなかった。


「以後は私が調理と配膳を行っておりますが、お食事に不備はございませんでしたか?」


 おれは首を横に振った。振りすぎて吐きそうになった。

 給仕長は微笑むと、静かに下がっていった。

 おれは震える手で焼き菓子を口へ運ぶ。味がしなかった。まるで砂を噛んでいるようだった。


「あ、あの……」


 十数分が過ぎた。おれは意を決して手を挙げ、壁際に控えていた給仕長を呼んだ。


「どうされましたか?」


「彼女がトイレから戻ってこないんですが……」


「ああ」給仕長がにこりと笑った。「お連れの方なら、嘔吐されましたので殺しました」


「え、え、え? なんで? だって、ちゃんとトイレで……あ、食事中に行ったから? 食前に行くのがマナーでしたよね……? ははは……」


 給仕長はゆっくりと首を横に振った。


「神様はゲロを吐かないので」


「あ~」


 おれの喉から、濁った音が漏れた。

 他にも漏らした。

 給仕長の鼻がわずかにひくつき、その目が冷たく鋭く変わっていった。

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