『第二話・後編:削除コード999──千魂葬陣、アレマサ』
その瞬間、リリアの身体──つまり颯太の中の何かが、深い海の底で、音もなく反転した。
(……やるしかねぇ。……行くぞ)
空気が、びり、と震える。
骨の奥で、微細な振動が響き、鼓動と同期する。
リリアの身体が、静かに立ち上がる。
その双眸に、いまはもう、ひと欠片の光もない。
意識は底の底へと沈みゆき──その奥底で、“かつての自分”が、静かに眼をひらいた。
《認識コード、LILIA=再導入》
《アクセス:旧世界コード999》
《リンク:本体ユニット“犬飼颯太”──同期継続中》
指先から、黒い光が走る。
それは熱でも冷気でもない、“データの焦げる匂い”を伴う光だった。
リリアは静かに右手を掲げた。
「──これは、“書き換え詠唱”。この世界の記録ごと、燃やす術──」
ほんの一瞬、森のざわめきが止まった。
風が息を潜め、葉の一枚すら動かない。
「──《千魂葬陣・アレマサ》、起動詠唱──」
その言葉と同時に、世界が軋む。
木々の影が逆流し、地面に刻まれた獣の足跡が一瞬で消えていく。
「天の階より名を奪いし者よ……」
──声は、ひどく澄んでいた。
「七十二の羽根を捨てし堕天よ……」
──響きは、どこか懐かしくもあった。
「その罪を刻み、この身、この声、この魂にて──」
……一拍。息が止まる。
「再び“黄泉の扉”を叩かん」
リリアは一歩、静かに前へ進む。
風もないのに銀髪が揺れ、瞳は虚ろに空を見上げていた。
その背中から伝わる気配は、颯太のものではなかった。
足元に滲む、漆黒の靄。
魔法陣ではない。
“魔法陣が記されていた場所”そのものが、塗りつぶされたエラーごと歪んでいる。
(……これが……俺の……力? いや、違ぇな。これはリリアの……)
(けど……今は、もう区別なんか……)
「我が記録番号、旧約《No.999》」
「記録の外より顕現せし残響」
「されどこの手は、未だ断ち祓う刃を忘れず──」
その手がゆっくりと宙に浮かぶ。
指先で“虚空の羽根”をなぞるように描く輪郭は、神聖で、禍々しい。
天と地の座標が、音もなく崩れる。
空に走る、黄金と黒のグリッチ。
モンスターたちは、ログアウト中のように沈黙していた。
リリアは細く息を吐き──胸元に手を添えた。
その肩が、ほんのわずかに震えている。
(この身体が耐えられるか……)
迷いは一瞬。すぐに押し込め、唇を結ぶ。
《※内部ログ出力:LILIA(ver.9.99β)》
《詠唱進行度:88%》
《座標リンク完了──天獄断層より影響波反応検出》
《コード干渉:ERROR── 神託より逸脱せし語、検知》
それでも、リリアは続けた。
「《冥絶ノ書》第七頁──開帳」
「術式、再構成」
「属性:負。原初コード:ゼロ」
「実行命令──この森の“しずめの詩”を書き換え、記録を灰に還せ」
指先がぴたりと空を刺す。
その瞬間、空間が水のように揺れ──リリアの影が、地面に複数の像を落とす。
空が、落ちる。
木々が逆巻き、音が泡立つ。
「神よ、記せ。悪魔よ、祓え」
「この呪詛の詩に名を刻みし時──」
(……俺は、もう戻れねぇ)
「我が力と記憶は──永劫の螺旋に帰順せん」
《※内部ログ出力:LILIA》
《詠唱進行度:99%──最終認証完了》
そして──リリアは、天に向かって手を伸ばす。
その仕草は祈りにも似ていた。
けれどその瞳には、何も映していなかった。
「……この術式が使えるのは、あと一度だけ──」
「……それまでに、“この世界”を終わらせる」
その声は、あまりにも凛として、美しく。
記録と記憶を“渡り歩く者”の、遠い断層から響くようだった。
「《千魂葬陣・アレマサ》──いけー!!」
──ゴグンッ!!
音ではない、“世界の軋み”が、耳の奥を軋ませる。
十本の黒き腕が、リリアの背から咲くように現れる。
一本が空間に触れた瞬間──風が、音が、重力が、崩壊した。
地面が“裏返り”、草は根から蒸発する。
木々は内部からひび割れ、枝葉ごと粉塵になって空に昇る。
何かが爆ぜたわけでもないのに、衝撃が全身を内側から殴りつけてくる。
それは破壊ではなかった。
“存在”という記述そのものが、順番に消去されていく感覚。
“記録の泡”がそこかしこに浮かび、
剥がれた記憶が、まるで古いテープのように擦り切れて溶けていく。
──草が、風が、空が、モンスターたちが。
──それに触れた瞬間、“すべてが”元の形を保てなくなる。
座標が落ち、時間がずれ、空間が折れ曲がる。
破壊ではない、“崩壊”だった。
腕がひと振りするたび、森が順番にこの世から削除されていく。
逆転する時。崩れ落ちる座標。
かつてあったものの全てが、“泥の記録”に還されていく。
──そして、世界が、静止した。
森の中心に、ぽっかりと空いたクレーター。
そこにあったものは──すべて、記録ごと消滅していた。
空は、まだうっすらと歪んだままだ。
音も、風も、色も──まるで“描き忘れられた世界”のようだった。
その静寂の中、焼け焦げた匂いに混じって、どこか懐かしい金属とオゾンの匂いが漂う。
(……昔、俺がゲームで勝利した後に見た光景と、同じ……)
最後に──ひとつだけ、黒い羽根が空に舞い上がる。
それは、誰のものでもない魂の残滓。
音もなく、光の屑に溶けていった。
そして、リリアは──静かに目を閉じた。
「……ふーん……けっこう気持ちいいじゃん、これ……♡」
リリアの中の颯太のかすれた呟きが、どこか快楽の残滓を含んでいた。
その声は、かつての颯太よりも、わずかに細く、やわらかかった。
(……ちょっとやりすぎたかもな……ま、いっか♡)
その微笑は、あまりにも無敵だった。
そして──
その余韻の中、リリアの足元には、ぬいぐるみ勇者の影が、静かに揺れていた。
……だが、その影に“もう一つ”の線が重なっていることに、リリアは、まだ気づいていなかった。
空間が歪んだまま静止したクレーターの縁。
そこに、確かに──視線があった。
誰かの視線が、背後から肌を刺す。
振り返るより早く、森の奥……いや、もう森ではない“削除領域の向こう”から、微かな笑い声が響いた。
乾いているのに、どこか艶を帯びた声。
男とも女とも判別できないその響きが、記憶をかき乱し、胸の奥にざらりとした既視感を呼び起こす。
次の瞬間、その姿は音もなく掻き消えた。
残ったのは、胸に焼きついた視線の残像と、虚無に落ちる黒い羽根だけ。
──そしてリリアは、それに気づくこともなく、静かに息を吐き、歩き出した。
———♡
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
もし少しでも楽しんでいただけたら、ブックマーク・いいね・評価をしていただけると励みになります。次回作への大きな力になりますので、どうぞよろしくお願いします。