プロローグ: 三センチ段差に詰む、伝説の勇者
俺にとって世界は、ただのゲームだった。
それ以上でも、それ以下でもない。
……はずだった。
犬飼颯太、二十代半ば。元・医学生。今はただのニート。
朝は冷えたコンビニ弁当、昼からは布団に沈み、天井のヒビを数える。
BGMは古いPCファンの唸りと、カタカタ響くキーボード。
現実での俺は、ただ呼吸しているだけの存在だった。
父は大病院の副院長。磨かれた靴で出勤する背中は、眩しすぎた。
対して俺は、布団から出る気すらない。
親戚の陰口も聞こえている――「名門の坊ちゃんも落ちぶれたらしいぞ」。
……でも気にしない。現実で何を失っても、モニターの向こうで俺は“勇者”だったから。
唯一の居場所は、《エデン・フォース・オンライン》。
数百万のプレイヤーが駆け回る、超巨大VRMMORPG。
石畳の王都、鐘楼の音、空を舞う竜。
触れれば応えるUI、錯覚するほどの触覚フィードバック。
その世界は、現実よりも現実だった。
そして俺のキャラクター――リリア・ノクターン。
ピンクのショートボブに、大きな瞳。
胸元も**“ちゃんと強化済み”**。
走れば踵の金具が鳴り、笑えば頬に光が差す。
女キャラを選んだのはただの趣味じゃない。“理想の自分”を形にしたら、自然と彼女になったんだ。
ログインすれば、俺はリリアだった。
仲間を救い、村を守り、無茶をして笑う。
勝利のファンファーレ、仲間とのハイタッチ。
気づけばリリアは、アバターじゃなく――俺自身のもう一人の姿になっていた。
やがてレベルは999。
魔王を討ち、国家を統一し、神話すら塗り替えた。
ギルドチャットは祝福で溢れ、ランキング最上段に名が刻まれる。
俺にとって、それは確かに“エンディング”だった。
……はずなのに。
その直後。リリアは消えた。
データごと。履歴ごと。最初から存在しなかったみたいに。
サポートから返ってきたのは冷たいテンプレ回答だけ。
残ったのは、心臓を抜かれたみたいな虚無。
暗闇に沈んで――そして、光が差した。
目を開けた俺の前に広がるのは、《エデン・フォース・オンライン》。
草の匂い、鎧の擦れる音、市場のざわめき。
夢中で駆け抜けた世界が、現実として肌に触れていた。
だが――違う。
魔王を討った“最強の勇者リリア”はもういない。
その誇りを握りしめているはずの俺が――
見下ろした自分の姿は。
……犬。しかも、もふもふのぬいぐるみ。
「……は?」
足は三センチの段差すら登れず、腕は“ぱたぱた”揺れるだけ。
世界最強勇者、突然のログアウトバグ。目覚めたら――観賞用インテリアでした。




