鳥籠
その女性は、この国の王子の妻になるためにやって来た。
よく言えば政略結婚。本当のことを口にして良いのなら『人質』だった。
両国の小競り合いを納める為の、王族同士の婚姻。
国民に対する触れは綺麗ごとを並べてはいるが、蓋を開ければそれは陰湿なものだった。離宮に閉じ込め、相手の国からの従者は一人も許さずに、単身嫁いできた姫君。命の保証すらも危うい中で、どれだけの恐怖と戦っているのだろうか?
「お前を離宮付とし、王子妃専属騎士に命ずる」
それは突然だった。いつものように訓練を終え配置に着く準備をしていたら、上官から呼び出しを受けた。あれよ、あれよという間に王子の前に跪き、直々に命じられてしまった。
「ありがたき幸せ。この命にかけ、必ずや妃殿下をお守りいたします」
騎士として頭を下げ任を受ければ、王子が剣の切っ先を肩にあて儀式は終了した。本来であれば王子妃専属騎士への任命は華々しくも大々的に行われるはずなのだが。今、任を受けたのは、騎士隊練習場の一角。
さして腕に覚えがあるわけでもない男に与えられたのは奇跡でもなんでもなく、ただの捨て駒に丁度いいからだろう。
可もなく不可もない子爵家の三男が、大抜擢だと周りは囃し立てる。その裏には自分でなくて良かったとの思いがあるのが見て取れた。
辞令は今すぐにとのこと。異例中の異例が続くものだ。
「王子妃殿下の専属護衛の任を受けました。これよりは妃殿下にこの命、お預けいたします」
「そうですか。よろしくお願いします」
透き通るような綺麗な声だと思った。
この国に着くなり離宮に押し込められ、挙式も大神殿でひっそりと行われたと聞く。国民への挨拶は大神殿のバルコニーから手を振るのみで、主要な貴族への挨拶も無かったとか。
声を発する機会すら与えられず、息を殺すように過ごしている。
こんなはずでは無いと思っていることだろうに。
自分の任務は妃殿下のそばを離れず、その身をお守りすること。
妃殿下が眠りにつくと、毎日その日の出来事を上官に報告をする。
だが、上官に報告することなどなかった。
毎日が同じことの繰り返し。基本的に私室を出ることはなかった。
この国の歴史本を読んだり、農産品や産業に関するものを目にしていた。図鑑も好んで見ているようだった。
そして、貴族令嬢らしく刺繍をするのが好きなようで、数少ない侍女たちにも分け与えていた。
「人質」のための侍女になる人間もまた、訳アリか捨て駒に丁度良い者を人選しているのだろう。その侍女ですら必要な時に顔を出すだけで、常にその身のそばについて甲斐甲斐しく面倒をみるわけではない。
基本、その女性の側にいるのは、騎士である自分のみのことが多かった。
「あなたも大変ですね。こんな意味の無い者のお守を任されて」
ある日のこと、刺繍を差していたその女性に突然声をかけられた。
自分の立ち位置は基本、内ドアの前。つかず離れずの距離を保っている。
「妃殿下をお守りできること、光栄に思っております」
心にもないことを口にすれば、その女性は「そうですか。ありがとう」と答えた。騎士でありながら訓練すらも許されず、日々この部屋に張り付いている。
体がキツイわけでは無いが、この立場の危うさに心は折れそうだった。
「私は、王族とは言っても側妃の娘です。母は五番目の側妃で出身が伯爵家と低く、立場はとても弱いものでした。
父である国王からの寵愛をうけているわけでもなく、子は私一人。
此度の縁談も他の王女たちは皆、実家を頼りに急ぎ身を固めていたようなのです。結局、適齢期で残ったのは私くらいのものでした。
元より、国が決めた縁談を断ることなど、私にはできるはずもないのですが」
ぽつり、ぽつりと話し始めたその女性の話は、どの国にでもよくあるような貴族社会のそれだった。
見目はとても美しい女性ではあったが、その身を守るだけの後ろ盾がないばかりにこんな目にあっているのかと思うと、少しばかり同情のような気持ちが沸いてくる。
「たまには庭に出て、外の空気でも吸ったらいかがですか?」
私室にこもりっきりのその女性への同情心から、そんなことを口にしてみた。
「そうですね。でも、皆さんの手を煩わせることになりますから」
「私たちへの気遣いは必要ありません。我々は妃殿下のためにあるのですから」
自分の一言で、その女性は毎日庭園に出るようになった。
庭師はいるが、たまに通い手入れをするだけで、花も木々も全てが綺麗な訳ではなかった。それでも外の空気を吸い、土の上を歩くのは気分を明るくするらしい。表情も緩やかになり、時折笑顔も見せるようになっていった。
少しずつ言葉を交わすうちに、心を開いてくれるようになったのだろう。
敵国である母国のことも話すようになっていった。
五番目の側妃の娘が政に携わるはずもなく、話すことといっても身近な話がほとんどだ。好きな菓子や演劇の演目、好きな読み物の話や、得意だと言う刺繍の話などを取り留めも無く話して聞かせてくれた。
「ここに来てから、誰かに話を聞いてもらえるのが嬉しいの」
そう言って微笑むその女性の頬は、上気したように赤らんでいた。
十七歳と聞いているが、少しばかり幼さの残るその面影は、その女性の儚さを強く映していた。その横顔を見つめるのは任務のためなのだと、そう自分に言い聞かせ律する日々を送る。
この離宮に入ってから、一度として王子が姿を現したことはない。
茶会も夜会も頻繁に行われているにもかかわらず、その女性へ声がかかることはなかった。
わずかではあるが、妃としての予算はあるらしい。だが、この離宮から出ることがなければ、煌びやかなドレスも、輝く宝石も無用の長物なのかもしれない。
気が付けば、彼女は母国から嫁入り道具として持ち込んだ品を少しずつ侍女たちに分け与えていた。
「今の私が持っていても役には立たないもの。本当に大事な物は取ってあるから大丈夫よ」
そう言うその女性は、装飾の少ない落ち着いたドレスを着ることが多かった。
日々、少ない数のドレスを交互に着ているようだった。
そんな姿に心を許したのだろうか。数少ない侍女たちの態度も次第に軟化していき、気が付けば一緒に並んで座り茶を飲むようになっていた。
そして時には一緒に刺繍をしたり、自分のドレスを解き街着のような物に縫い直しをしたりと、とても一国の王女には見えない光景が広がるようになる。
しかし、とても楽しそうに笑うその横顔を見るに、心から良かったと思えるまでに、自分も絆されているようだ。
「あの女は何の文句も言わぬのか?」
ある日のこと。国王夫妻と、夫である王子に問われ正直に答える。
「侍女とも上手くいっているようで、日々、淡々と穏やかにお過ごしでございます」
「茶会や夜会にも出ずに、何の楽しみがあって生きているのかしら」
「与えた、わずかばかりの予算にも手を付けていないとか?」
「あの国は小国で貧しい。金の使い方を知らないのでしょう」
「「「あははははは」」」
大声で笑う、この国一番の親子の姿を見て、途端に嫌気が差して来る。
下品にすら映ったその姿は、忠誠心を削ぐのに十分だった。
その晩のこと。王子が初めて離宮に顔を出した。
今さら何のつもりだと思いつつ、本来これがあるべき姿なのだと、そう自分に言い聞かせる。
一緒にそばに居る侍女たちですら、不安そうな顔を隠せていない。
突然の来訪にも喜んだふりをしなければならないなんて。
何故、今なのか?
このまま放っておいてくれればよかったのに。
何もなくとも、穏やかで少しばかりの笑顔さえあれば、その女性は幸せそうなのにと。
無理に笑った顔を最後に、部屋の扉は閉められた。
今夜だけは私室の扉前に立つのは自分ではない。
そこに立つことを許されるのは、王子専属の騎士たちだ。
選ばれし精鋭なる騎士が付く役職。
捨て駒になり得る自分とは、雲泥の差。
なぜ突然なのかと聞けば、
「相手国から夜伽の有無の確認があったようだ。次代を継ぐ子は、あの妃の子でなければならぬと。そういう契約だと言ってきたらしい」
なるほど、既成事実を作るためのことなのかと。そう思ったら無性に腹立たしく思えてきた。
今までその存在を無きものとし、見ないふりを続けてきたくせに、今更……。
夜更けにもならない時間に、閉じられた扉が開かれた。
身支度を整えながら、気だるそうに歩く王子を視界に入れぬよう俯きがちに礼をする。
「いかがでしたか?」
「ふん。面白味の欠片もなかったわ」
一国の王子が、妻にした者への言葉とは思えない。
ならばなぜ来たのか? 家臣とともに笑い話にするためにあの女性はいるのではないのに。
震える指先を握りこめ、怒りを抑えなければならない自分が恨めしい。
王子らを見送り、すぐさまあの女性の私室へと向かう。
「妃殿下!」
慌ただしく動きまわる侍女に紛れて私室の中に入ろうとした時、
「見ないで!!」
奥にある寝室から大きな声が飛んできた。
普段の穏やかで、落ち着いたその女性からは想像も出来ないほどの声量。
奥の寝室の様子は見えない。
「妃殿下は少し興奮されていらっしゃいます。今夜は私たちがお傍につきますのでご安心を」
侍女が持ち出すシーツに目がいき「それは?」と問えば、「破瓜の後がついたこれを、かの国に渡すそうです。妃殿下を正式な形で迎えたという証拠になるのでしょう」と、苦々しい声で答えが返ってきた。
これが王族の使命なのだ。あの女性に、一かけらの自尊心も許されないのだ。
そう思うと、何も出来ない無力な自分が許せない思いでいっぱいになる。
本来、これが当たり前の姿なのだ。今までが異常だったのだと、そう思おうとするのに、理解はしているのに、心はそれを許してはくれなかった。
それから、王子は二度とこの離宮に足を運ぶことはなかった。
一体あれはなんだったのかと問いかけたくもなる。
しばらくは落ち着かない様子だったが、日を重ねるうちにその女性は落ち着きを取り戻し侍女たちとは今までのように接するようになっていった。
そして、あの夜から変わったこと……。
その女性の寝室から、毎夜毎夜漏れ聞こえる声が、自分を悩ませる。
息を殺し、声を抑えるように泣く声色は、一晩中続く時もある。
泣き疲れ、心を疲弊させ、気を失うように眠りにつくのだろう。突然、鳴き声が止まることもあった。
朝方まで続くその声を聴きながら、自分の心も疲弊していくのがわかる。
せめて夜は眠ってほしい。未来を奪われ囲われて、逃げ場のないこの狭い世界で、せめて眠りの中くらい自由になってほしい。そう願うのに、それすらもかなえられないその女性があまりに不憫で、せつなくて、苦しくなる。
「妃殿下。私はずっとここにおります。二度とこの部屋に、望まぬ者を寄せ付けません。この命にかえても」
ある夜のこと。あまりにつらく、思わず声をかけてしまった。
返事はなかった。当たり前だ。それでいい。
ただ、知って欲しかった。苦しみを知っている人間がいることを。
昼間は侍女たちも周りにいて、窓の外から差し込む日差しや外界の音で気がまぎれるのだろう。少しばかり安心したように、気が緩んだような表情をされる。
そして、薄っすらと日差しを浴びながら、まどろみの中うたた寝をすることがある。それでも体は休んでも、心は休まらないのだろう。
時折、ビクンと跳ねるように膝に置かれた手が動くことがある。
そして、その女性の頬をつたう物が……。
何も考えられなかった。本当に頭よりも体が先に動いてしまっていた。
その女性の頬をつたう雫と、ビクリと動く指先が視界に入り、気が付いたら彼女の手を握りしめていた。
両手で包んだ彼女の手は小さく、もろく感じた。冷たくなった手を温めるように包み込み「大丈夫です。大丈夫です」とささやく。
「ああ……。瞳の色が綺麗」
瞼を薄く開いたその瞳は、碧く揺らめいていた。
互いの視線が絡み合うと、彼女は安心したように再び瞼を閉じた。
この瞳の色を見て綺麗だと、彼女は確かにそう言った。
この瞳を確かに見て、自分を認識してくれた。
ただの護衛騎士ではなく、誰でもない、この瞳を見てくれたのだ。
その晩、彼女の寝室から泣き声は聞こえてはこなかった。
たった一度きり。誰も知らない手のぬくもりを。繋がりを。
毎晩聞こえてくる泣き声を耳にしながら、もう一度、その手を握り安心してほしい。そばにいると知ってほしい。叶わぬ想いを募らせるのだった。
あってはならないことなのだ。あれは本来、君主を裏切る行為だ。
それでも、彼女がこの手を求めるのなら、いつでも、どんな時でも、細くたおやかなその手を握る覚悟は、すでにあるというのに。
彼女が心から安堵し、眠ってほしいと、こころのそこからねがうのに……。
彼女の心を、笑顔を、揺れる瞳を守ることだけが思考を埋め尽くし、彼女や侍女たちの動きに気を留めることが出来なかった。
いや、気が付いているのに、気が付かないふりをすることが、彼女の意思なのだと。それこそが、今自分が与えられる最大限のものだと信じて疑わなかった。
突然だった。
いつものように寝室にこもり、今夜こそもう一度声をかけよう。この手を求めてくれるなら、全てを捨てる覚悟で彼女の手を取ろう。そう思っていた夜。
侍女が裏口から連れてきた者は、異国の人間だった。
「妃殿下がお望みです」
扉の前で見守る自分に投げ捨てるように告げる言葉はもはや、自分の意を必要とはしていないそれだった。
とっさに腰元の剣を握る。
もう一人の侍女が目の前を遮るように立ちはだかる。
「妃殿下は、ここにいても幸せにはなれません。いらないのなら、元に戻せばいいんです。邪魔はしないでください」
「何を言っているんだ。こんなことが知れたら国同士の問題になる。お前らだって、ただでは済まないんだぞ」
「私たちはどうなってもかまいません。元々、まともな家族もいない私たちです。家が、家族がどうなっても構わない。私たちは妃殿下についていきます。
ここにいて家族だと。姉妹のようだと言ってくれた妃殿下を信じます」
本心は怖いに決まっている。震える指先に力を入れ、必死に抑えるように両手を広げる侍女は、自分の姿だ。
彼女の幸せがここにないことなど、知っている。
毎夜泣き明かす彼女の濡れた瞳を見ることが、どれほどにつらいことか。
もう許されて良いと何度思い、解放してやりたいと願ったことか。
かの国から迎えが来たのなら、それが幸せなのは確かで、明らかだ。
「あの方が幸せになるのなら、私に否は無い」
隠していた本心が口から告げられると、侍女は安心したようにほほ笑んだ。
元々、この国に未練など無いのだ。彼女が無事に国境を超えるまで、護衛を兼ねてそのそばを離れない。そう心に決め、寝室に足を踏み入れて……。
そこには彼女と異国の男が互いを労わるように、身体を寄せ合い、抱きしめ合っていた。
その姿はどう見ても姫と護衛の姿ではない。
愛し合う恋人同士の姿にしか映らなかった。
入口のそばで立ち尽くす自分に気が付くと、その女性は言った。
「今までありがとう。感謝してもしきれないわ。今まで支えてくれたこと、一生忘れません」
「街はずれには我が国の味方が待機している。後はこちらに任せて、君たちの存在は姫と一緒に我が国が責任をもって守ることを約束しよう。
荷物はいらない。さあ、早く行こう」
言い放つと異国の男はその女性の手を取り、足早に目の前を過ぎて行った。
「騎士様も一緒に行きましょう」
侍女の一人が自分に声をかける。
「!!」
目の前には、声を上げることも間に合わず、背中から血しぶきを上げながら倒れ込む侍女。
「な、なにを?」
もう一人の侍女が彼女を支えるように座り込む。
その姿を見下ろしながら、右手の剣を握り直し、もう一度それを振り上げた。
速足で部屋を出ると、その女性と異国の男はすでに裏口近くまで来ていた。
遅い侍女を気にしながら振り返るその女性の驚いた顔を眺めながら、その手を握る人間の背に剣を振り下ろした。
そして、血濡れたその切っ先を、深く、深く突き刺した。
「アンドリュー、アンドリュー!! お願い目を開けて、アンドリュー!!」
油断していたのだろう。咄嗟のこととはいえ、何の抵抗もなく切り捨てられるほど腕が無いとは思えない。
この離宮で日々の鍛錬すらもしてこなかった、捨て駒に切り殺されるような人間ではないはずだ。
「なぜ? なぜこんなことを。あなたは私の味方だと思っていたのに。
あなたのことは本当に信頼していたのに。どうして……」
愛する男の亡骸に縋りつき、泣き濡れるその女性は敵をみるような目で自分を見つめ言い放った。
「あなたはこの国の騎士。信用などするのではなかった。私が愚かだったわ。
アンドリューのいない世界など、私には無意味。
あなたも、この国も……、この世の全てを恨みます」
そう言って、その女性は異国の男の腰にある短剣を自分の首に当て、思い切り横に引き抜いた。
赤い鮮血がその女性の首を伝い、ドレスを染めていく。
異国の男の亡骸の上に、重なるように横たえたその躰は、どこまでも美しく気高かった。
異国の男と同じ瞳の色を持つ男がただ一人残され、握る剣を離すことが出来ぬほどに身体が強張っていた。
そして、その心のうちを鎮められずにいた。
その女性は、愛する男の上に体を重ねたまま眠っている。
その顔は穏やかで安らぎを感じてさえいるようだった。
血濡れたその頬も、唇も、全てが美しかった。
これでもう、毎夜泣き続けることはないのだろう。
泣き疲れ、気を失うように朝方眠りにつくこともない。
朝になり、瞼を腫らすこともない。
寝息も立てず、深く、安らかに眠ることが出来るのだ。
ドアの前で鳴き声に震え、夜を明かすことも、もう無い。
「あなたは間違っている。
私はこの国の騎士である前に、ひとりの男だ」
男の声が、その女性に届くことは……もうない。