72,黙り込む彼としばらく会えなくなったこととこぼれた涙
ギクシャクしながら診察室を出ると、待っていてくれた管理人さんが長椅子から立ち上がった。
「ケガの具合はどうでしたか?」
田村さんというその人は、高級マンションの管理人なので、いつもスーツを着て、上品な雰囲気の年配の紳士だけれど、とても気さくな人だ。ケガの状態を話すと、彼が言った。
「おうちの方に連絡したほうがいいんじゃないですか?」
「あっ、そう、ですね」
今の今まで考えていなかったけれど、この体でマンションで一人で過ごすのは厳しいだろう。彼が言う。
「私からしてもいいですが、ご両親がびっくりなさるといけないから」
たしかに、いきなりマンションの管理人から電話がかかってきたら、何事かと驚くことだろう。それよりは、僕がかけたほうが。
「じゃあ、会計を済ませたら母に電話します」
母と相談の結果、しばらく実家で暮らすことに決まり、母が車でマンションに迎えに来ることになった。僕は田村さんと、いったんタクシーでマンションに戻る。
マンションに着くと、おぼつかない足取りの僕を見て、田村さんが部屋まで付き添うと言ってくれたけれど、固辞して一人で部屋に戻った。足も腕も痛いけれど、一人で歩けないことはない。
そろりそろりと歩いて、自分の部屋まで行ってベッドに腰かける。
「いてて……」
膝を曲げるのが辛い。さっそく、スマホから彼にメッセージを送る。
―― さっきはごめん。ちょっとケガしちゃって、病院に行ってきた。
送信すると、間もなく彼から電話がかかってきた。
「大丈夫? すごく気になったけど、『また後で連絡する』って言っていたから待ってたんだ」
「遅くなってごめん。今どこ?」
「部屋だよ」
「カフェには行ったの?」
「ううん。また今度、晴臣くんと一緒に行きたいと思って」
そこは、初めて行くお店だったのだ。
「ごめん……」
「いいよ。それより、何があったの?」
僕は、一連の出来事を説明した。
「そうか……それは大変だったね。痛いだろ?」
「うん。でも、僕がおっちょこちょいだから、みんなに迷惑かけちゃって」
そのこともショックだ。冷静になって考えてみれば、あんなにあわてなくても、彼に少し遅れると連絡を入れればよかったのだ。
「しかたないよ。あっ、じゃあ、もうすぐお母さんが来るの?」
「うん」
「そうか……」
それきり、彼は黙り込んだ。
「仁さん?」
「ああ、ごめん。君のそばにいたいけど、実家に帰ったほうが安心だもんね。僕だって、ずっとそばにはいられないし」
「あ……僕も、仁さんに会いたかった」
僕が不注意だったばっかりに、しばらく彼と会えなくなってしまった。落ち込んでいると、彼が言った。
「でも、たくさんメッセージ送るし、電話もするよ」
「うん」
「早くよくなるように、無理しないで、体を大切にして」
彼の優しい言葉に涙がこみ上げる。
「ありがとう」
スマホをにぎりしめていると、早くもインターフォンが鳴った。母だ。
「あっ、もう来たみたい」
「じゃあ、また後で。お大事にね」
電話が切れた。僕は、こぼれた涙をぬぐってから、苦労して立ち上がる。
「まあ……! 痛いでしょう? 大理石の床なんて、きれいだけど危ないわよね」
心配そうに僕の体を見回しながら、母が言った。
「骨折は腕だけなのね?」
「骨折じゃなくて、ひびが入っただけだよ」
「とにかく、着替えや身の回りのものを持って、冷蔵庫の中のものも、持って行けるものは持って行って、処分するものはして。勝義さんにも知らせておいたほうがいいわね。
ああ、あなたは座っていなさい。お母さんがやるから」
ちょっと前に、立派になったと言ってもらったばかりなのに、もう迷惑をかけている。情けないけれど、腕や足がズキズキと傷む。
食後に飲む鎮痛剤と抗生物質を処方されているので、後で飲むことにしよう。そう言えば、もう3時が近いけれど、お昼ご飯を食べていない。




