第7話 龐統は、スパイ!?1
司隷扶風郡の出身の男が、劉備の耳元に口を寄せる。
「お斬りなさい。彼ら兄弟は、裏切りも視野に、陰謀を企んでおります。」
稀代の策士は、劉備にこのようにささやいた。
◆ ◆ ◆ 世捨て人、龐徳公の甥 ◆ ◆ ◆
荊州南郡襄陽県の名士で、人物鑑定の大家・・・この地の人は、龐徳公を「世捨て人」と呼んだ。
彼は、「賢人が、天寿を全うできぬことが多いのは、安易に虎穴に近づくためだ」として、荊州の実質的な支配者、劉表の仕官の誘いも断り、隠士として暮らす道を選んだ。
しかしながら、居住地の荊州の劉表陣営の士と交わることはもちろん、その子・龐山民が、呉の孫権に仕える諸葛瑾の妹を妻としていたため、孫権陣営の士大夫とも、よく交流を持ったと言われている。
さて、その龐徳公が、諸葛瑾にある男を推挙したのが、西暦206年頃であったと言われている。
口下手で、身なりも冴えないその男を、預けられた諸葛瑾は、たらい回しではないが、これもまた、違う人物に「私の親類です」と推挙し、仕官させることに成功した。
周瑜、字は公瑾。
揚州廬江に割拠する亡き孫策の盟友で、孫権陣営では、陣営内の人物として扱うものの、半ば独立したような形で、廬江の地を治めていた。
冴えないその男は、周瑜の麾下に、居場所を見つけたのである。
ややさぼり癖は散見されたものの、郡府の人事を担当する功曹史を任じられ、この仕事を要所だけは押さえて、要領よくこなしたため、次第に周瑜に信頼されるようになっていく。
◆ ◆ ◆ 赤壁と荊州争奪 ◆ ◆ ◆
西暦208年9月、曹操が荊州に侵攻し、劉琮を降伏させた。
これは、曹操勢力と、孫権勢力の間にあった中立地帯が無くなったことを意味し、さらに、悪いことには、曹操は、劉琮の父・劉表の整備した荊州水軍も、ほぼ無傷で手中にいれている。
このままいけば、両者の激突は、不可避。
「どうだ?お前なら、降伏するか?」
この時、鄱陽の地にあった周瑜は、手早く旅支度を整えながら、未だ冴えないその男に尋ねた。
「張昭殿のように、降伏で幸福な未来が見える人も居られるでしょうが・・・北の人間は、舟遊びが苦手でしょう。多くが陸に上がりたがると思います。そうなれば、船の上は、もともとは、亡き劉表の手下ばかりですな。その上、本年は、コウモリが異常発生しておりますれば、この地の水に慣れぬ曹操軍は、疫病にも悩まされることになります。」
「なるほど。そなたの頭の中は、私と似通っているということだ。はははは。」
周瑜による、男への最高の褒め言葉であった。
さて、傷寒論という書物がある。
コレは、後漢末期から三国時代に、長沙太守でもあった張仲景が編纂したと言われる漢方のバイブル教本の1つ。
そうして、大青龍湯、麻黄湯、桂枝湯あるいは、葛根湯・・・これらは、傷寒論に収載される今も使われている漢方薬の名前であるが、この地方で生まれたものともいわれる。
それは、なぜか?
コウモリなどの野生動物を食用とする習慣があり、動物との共生が当たり前に行われているこの地方で、傷寒の病と呼ばれる重度で新型の風邪症状が、たびたび流行していたためだ。
周瑜も、冴えないその男も、船戦に慣れぬ北方の兵卒と、新参の荊州水軍の連合は、一体化した動きが難しい上、さらなる相手側の悪条件として、この年のコウモリの大量発生具合から、疫病が蔓延する可能性が高い・・・
特に、これらの病に対して既往歴がなく、抗体免疫が確立されていない北方の兵の多くに、感染症が流行すると考えたのだ。
つまり、かなりの確率で、兵力差を逆転した勝利を得ることができる!
2人の意見は、一致したのであった。
旅支度を終えた周瑜は、急いで孫権の元に向かった。
反戦派の張昭らを抑え、曹操との戦いの準備をするためだ。
「曹操を破ったら、長江上流は、私たちのものです。」
周瑜は、曹操軍が抱える数々の不利と、自軍の利を、降伏派の群臣に説いた。
はたして、周瑜は、赤壁の水上で曹操軍を迎撃させた。
周瑜の予測通り、曹操軍は、その軍中に疫病を抱えており、一度の交戦で曹操軍は敗退。
曹操は、軍をまとめ、長江北岸に引き揚げることとなったのだ。
周瑜は、進撃をやめなかった。
武将・甘寧を夷陵に進撃させ、江陵を守る曹操軍の司令官・曹仁と徐晃の部隊を分断する。
そうして、孤軍となった曹仁を、激戦の末、敗退させた。
こうして、周瑜は、南郡太守および都亭侯に任じられ、江陵に軍を駐屯させた。
北部の一部地域を除いた荊州一帯を、ほぼ手中に収めたのである。
そうして、周瑜の南郡太守にあわせ、冴えない男も、南郡の郡府の人事を担当する功曹史として働くこととなった。
簡単に言うと、出世だ。
◆ ◆ ◆ 大空を舞う鳳へ ◆ ◆ ◆
周瑜は、荊州の長江南岸の地を劉備に貸し与え、劉備は、近隣の公安に軍府を置いた。
放浪してきた居候の劉備勢力も、軍を養わねばならぬであろうことからの、温情措置である。
しかし、劉備はこれでは、士を養うのに足りないと、呉の京城に赴き、直接、孫権に荊州の数郡を借りることを頼み込んだ。
周瑜は、反対の手紙を書き、孫権に忠告した。
「劉備は、虎狼である。」と・・・
しかし、お人好し孫権は、劉備の申し出を了承する。
この時から、周瑜陣営の歯車が狂い始めた。
赤壁の戦いで勝ち、荊州を手に入れたことで安堵した孫権と、さらなる戦果を求める周瑜との意思が、少しずつ、かみ合わなくなってきたのだ。
その時が、やって来た。
大きな音を立てるように、最大で、最後の歯車がずれたのだ。
それは、遠征先の巴丘。
劉璋の支配が動揺していた益州を占領し、益州は、孫瑜に任せた上で、関中の馬超と同盟を結び長安を突かせ、自らは、荊州の襄陽から、樊城、宛、洛陽と、曹操の支配する中原を攻めるという計画を準備中に、総司令官である周瑜が、倒れたのだ。
江陵攻めの際に受けた矢傷の痕が、化膿したのが原因であった。
抗生物質ペニシリンが、スコットランドの細菌学者フレミングによって発見されたのは、1928年。
それまでは、自らの免疫力で細菌に打ち勝つことだけが、感染症を乗り越えるための唯一の方法である。
そうして、周瑜は、細菌に打ち勝つことはできなかった。
化膿した傷は、悪化を続け、体は、敗血症の症状を発し始めたのだ。
息は荒く、体温が35度より低下し、全身は、shaking chillと呼ばれる震えを発し始める。
血圧は下がり、意識が混濁する。
播種性血管内凝固症状が起きていたのかもしれない。
体のところどころの傷から、出血が止まらなくなったり、内出血が見られるようになった。
であるからして、それは、奇跡と呼ぶべきであった。
そう・・・死の間際の周瑜が、カッと目を開け、弱々しいしいが力強い声で、最期の言葉を残したのである。
横たわる総司令官の枕元に控える、あの冴えない男に対して・・・
「龐統よ。私の命は、すでに尽きているようなものだ。この後は、諸葛瑾の指示に従え。孫家麾下の中で、大局に立ってものを考えることができるのは、彼と魯粛のみだと言ってよい。諸葛瑾の言を聞けば、いずれそなたは、地を這う雛鳥より大空を舞う鳳へと昇り詰めるだろう。」
その後、彼の意識は、再び混濁し、二度とその目を開けてみせることはなかった。
周瑜の最期の言葉・・・
それは、叔父の龐徳公より「鳳雛」と呼ばれた男が、空を舞うために必要なアドバイスであった。
◆ ◆ ◆ 鳳凰の覚醒 ◆ ◆ ◆
周瑜の死により、この冴えない男『龐統』は、大きく変わった。
さぼり癖や『放蕩』癖、あるいは、要所だけを押さえて細部に手を抜く癖が、全く見られなくなったのだ。
それは、親友である呉の臣・陸績、顧邵、全琮らが、「別人を見るようである」と評したほどであった。
そうして、彼は、最後まで自分を気遣ってくれた周瑜の棺を担ぎ、遺骸を送ったのち、江東へと向かう。
自身の才能を愛し、可愛がってくれた周瑜の指示通り、諸葛瑾の指示を仰ぐために。
そして、諸葛瑾によって下された密命は、龐統ですら驚く壮大な謀であった。