第6話 楊修は、臆病者2
さて、話を続けよう。
◆ ◆ ◆ 漢中曹劉争奪戦 ◆ ◆ ◆
西暦211年、曹操は、漢中を占拠していた張魯を討つため、長安より鍾繇を派遣する。
すると、この動きに反応した馬超・韓遂ら、関中・涼州など西方の諸将が反乱を起こした。
長安の軍を動かすことで、疑心暗鬼を生じた関中・涼州など西方の諸将が蜂起する。
実は、これは、曹操の想定の内であった。
待ってましたとばかりに、曹操自ら軍を率いてこれを撃破。
そうして、後の対応を名将・夏侯淵に任せ、自分は、鄴ぎょうへ凱旋した。
確実に勝てるであろう西方の諸将ら相手に親征を行うことで、赤壁の戦いで落ちた威光を回復させたのである。
その後も、馬超・韓遂らは反乱を続けるが、夏侯淵の手によって214年には、関中・涼州の制圧は完了する。
翌215年には、漢中の張魯も降伏し、この地の守将には、そのまま夏侯淵が置かれた。
こうして、曹操による華北の統一が完成したのであった。
しかし、この間、南方の歴史も動いている。
劉備が、孫権よりだまし取った荊州の地から出兵したのだ。
そうして、これもまた益州の劉璋をだまし、最終的に、劉璋を力攻めして自勢力に併合。
これが、214年のこと。
つまり、この時、劉備勢力と曹操勢力が、蜀道と漢中を境に相対する状況が出来たのだ。
そして、さらに4年後のことであった。
満を持して劉備が軍を率いて、北上。
益州からの、漢中侵攻であった。
もちろん、曹操も、自ら漢中に近い長安の都までは、兵を進めている。
しかし、それでも、ほんの少し南方への対応が遅かった。
魏王就任に、後継者争い、朝廷での伏完による反乱未遂など、「たかだか」劉備程度を相手にするには、このころの曹操は、あまりに忙しすぎたのである。
そして、長安に駐留する曹操軍に、衝撃が走った。
なんと、定軍山の戦いにて、漢中の守将・夏侯淵が、劉備軍に敗れて敗死してしまったとの情報が入ったのである。
漢中は、劉備軍の手に落ちた。
この地は、蜀への入り口であり、蜀から見れば、中原への入り口でもある。
ここを劉備に奪われたままにしておくのは、かなりキツい。
曹操軍が、益州へ攻め入ることが出来なくなるどころか、逆に、古都・長安に劉備軍が侵入するための足掛かりにされかねないのだ。
曹操は、夏侯淵の仇を討つとばかりに、長安から斜谷を抜け、漢中奪還のため、陽平に到着する。
しかし、陽平の地を守る劉備軍を攻撃しても、この要害を盾に抵抗。
サザエのように固く引き籠って顔も出さず、どうやら、簡単にここを攻め落とすことができるとは、思えない。
曹操軍は、要衝・陽平の地、そして漢中を前に、停滞を余儀なくされた。
◆ ◆ ◆ 隴を失い、蜀も望めず ◆ ◆ ◆
この戦い、もちろん楊修も従軍している。
しかし、派手な戦いに参加するかというと、それはない。
そもそも、楊修自身が、戦ごとを望まないのだ。
その麾下の実力もたかがしれているといったところ。
それがゆえに、楊修は、情報収集に力を入れていた。
「閣下には、お会いできたか。」
「はっ。報告に参りましたところ、面会が叶いました。」
曹操の陣へと伝令として送った男が、楊修の陣に戻ってくる。
伝令を出したものの、たいした報告などはない。
面会は、叶わない可能性が高かったが、運よく目通りできたようだ。
「それで、様子は、どうであった?」
曹操の様子。
楊修にとって、劉備軍の動向よりも、そちらの方が、重要であった。
というのも、現在64歳・・・高齢になった曹操の命など、いつ果てるか分からない。
息子である曹丕と曹植の後継者争いが、佳境に入ってきているのだ。
「いかがでしょう?ややボケてきているのではありますまいか?」
「閣下が、呆ける?はて、そのような兆候が、みられたか?」
頭脳明晰でシャープな判断を下す曹操に、ボケるという言葉は、似合わない。
そもそも、そのような状態をイメージすることすら難しい。
「はっ、私が、陣幕内に入りますと、そこで、閣下は、お食事をされておられました。」
「ほう、ずいぶんと早い時刻の食事よな。」
「閣下は、鶏のスープを食べておられました。その場で、報告を致したのですが・・・」
「ふむ。」
「私の報告する声が、耳に入っておられるのかおられぬのか・・・なにやら、鶏肉を箸でもてあそびながら、鶏肋・・・鶏肋とつぶやくばかりで・・・閣下が、あのようにボケられたのでは・・・今回の戦、殿、どうなりましょうぞ。」
「これは・・・なるほど。いやはや、参った。閣下は、呆けたりしておらぬ。」
そう、残念ながらというべきか・・・
曹操は、ボケていない。
もし、生きながらボケてくれれば、後継者争いがなかなか面白くなるのであるが、いまだ頭脳明晰といったところか・・・
楊修は、椅子から腰をあげた。
「殿っ?」
「それほど急がぬでもよいが、撤退の準備を始めよ。おそらく、我々は、長安へ引き返すこととなる。」
「よろしいのですか?」
「あぁ、これは、閣下よりの【メッセージ】よ。おそらく、われわれが、どう動くか見ておられる。」
こうして、楊修は、ゆっくりと撤退の準備を始めた。
彼は、言った。
「これは、曹操のメッセージである」と。
鶏の肋骨についている筋肉は、旨味を多く含んでおり、肉としてたいへん美味ではある。
しかし、鶏肋から、うまい出汁ならば、煮出すことはできても、そこに僅かしかついていない肉では、仮に、がぶりとむしゃぶりついたところで、腹を満たすことはできない。
鶏の肋骨の肉は、惜しいが、むしゃぶりつくほどではない。
すなわち、漢中は惜しいが、今が、撤退の潮時である。ということだ。
曹操が、ここから、漢中・・・ましてや益州を狙うといった【冒険に出る】ことは、まずないであろう。
それどころか、多少、ボケたふりをして、麾下の武将が、どのような動きをして、メッセージをどう判断するか・・・その冷徹な目で観察しているのではなかろうか?
おそらく、楊修の伝令が、曹操に面会できたのは、偶然ではない。
早すぎる食事・・・
おそらく、これから後の時刻に、だれかが伝令を遣わしても、曹操は、食事をしている。
そうしながら、「鶏肋・・・」とつぶやく。
伝令が帰った後の、それぞれの武将の動きを、じぃぃっと観察するのだ。
油断はできぬが、じつに面白い。
楊修は、ふっと、笑みをこぼした。
知恵比べは、望むところである。
はたして、西暦219年5月、楊修の読み通り曹操軍は、漢中から撤退した。
◆ ◆ ◆ 楊修は、チキン ◆ ◆ ◆
物語的にも、作者としても、ここから楊修と『曹操』の知恵比べといきたいところである。
しかし、『そうそう』うまくいかないのが、歴史というものである。
撤退の数か月後、楊修は、斬られた。
楊修が曹植に対し、答教という問答集を用いて、曹操が喜ぶ模範回答を予め教えたり、みだりに曹植やその取り巻きと連絡を取り合ったことが罪とされたのだ。
享年45。 少し肌寒くなった秋のことであった。
曹操は、自らの命数が、あと少しであることを自覚しており、後継者争いの憂いを断つため、曹植の頭脳として動く楊修に罪を被せて、処刑する機会を窺っていたといわれ、また、楊修の母が、袁術の父・・・袁逢の姉であったため、汝南袁氏の血筋の縁から、汝南勢力が曹植と結びつくことを恐れたとも言われている。
つまりは、曹植のブレーンとなり得る頭脳を持ち、そして、四世太尉・・・4代に渡り、漢帝国の官職のトップである三公を輩出した弘農楊氏の血筋、同じく四世三公の汝南袁氏の血筋、この名家中の名家であったことが、彼の罪であったということであろう。
しかし、コレは、果たしてどうであっただろう?
コレとは、もちろん、楊修を斬った曹操の判断の評価である。
汝南勢力と曹植の結びつきを防ぎ、後継者争いに終止符を打つ先の先を読んだ英断であったと考えるか?
あるいは、寿春三叛と呼ばれる「王淩の乱」、「毌丘倹・文欽の乱」、「諸葛誕の乱」。
これら、魏帝国後期の反乱は、汝南に隣接する寿春にて起きているのであるが・・・
寿春三叛の時点では、寿命で死亡している可能性が高いが、楊修や孔融が多少なりとも長く生き、そして、その影響力を行使していた未来の先に、寿春三叛と、弘農楊氏や汝南袁氏の残存する力、あるいは、北海グループの力がうまく融合し、皇帝である曹氏一族の命脈が保たれ、司馬一族による簒奪が成らなかった世界があったと考えるか?
楊修や孔融の処刑は、天下分け目とは、とても言えない小さな出来事であるが、もしかすると、歴史の道筋を分ける【分水嶺】であったかもしれない。
さて、楊修の死後の話である。
魏の中心地、鄴ぎょうの都では、ある風説が取り沙汰された。
それは、漢中攻めの際の、曹操の言葉であった。
鶏肋・・・鶏肋・・・
そう・・・人々は、「曹操のつぶやいた『鶏肋』とは、楊修のことである」と【噂】したのである。
すなわち、斬るには、惜しいが、肉は、わずかしかついていないので、むしゃぶりついて食べたところで、腹は満たせない。
そんな人物こそ、楊修であると・・・
泉下の客となった楊修が、これを聞いたであれば、どうであろう。
わなわなと身を震わせ、怒り狂ったか?
あるいは、少年の頃、チキン・・・臆病者と呼ばれた時と同じく、ふんっと、鼻で笑ったであろうか?
もしかすると、あの護衛の大男にしたように、冥府より手を伸ばし、噂した人々になにやら仕返しを考えたかもしれない。
しかしながら、新たなる出来事に「楊修は、鶏肋」という噂は、かき消される・・・というよりかは、吹き飛ばされた。
誰かの手が、冥府より伸びてきたかどうかは分からぬが、楊修の死を追うかのように、翌年の正月に魏王・曹操が病死したのだ。
享年66。
後継は、息子の曹丕。
冷徹でリアリストであったその後継者は、漢より禅譲を受け、魏帝国を建国する。
新皇帝によって、曹操は、武帝と諡号された。
それは、楊修が、処刑されたちょうど1年後の秋のことであった。