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第5話 楊修は、臆病者1

「このチキンがっ!」


ある商家で護衛として働く体の大きな男が、ひとりの少年に言葉を投げつけた。


しかし、少年は、ふんっと、これを鼻で笑い、取り合わない。


殴り合いなど、下層の人間がやることであり、それを望むこの男と自分は、違う世界に生きている。


たとえ、チキンと呼ばれようとも、それは、君子として当然の行動だ。


少年は、むしろ臆病者であることを誇りに感じていた。


さて、その7日後のこと。


大男は、失職した。


男が護衛として働いていた商家の扱う肉に、人肉が混じっているという告発があり、真偽は分からずとも、商売にならなくなったためだ。


司隷弘農郡華陰県。


少年・・・『楊修』は、その地の名家の子息である。


四世太尉、4代に渡り、漢帝国の官職のトップである三公を輩出した名門中の名門家の御曹司。


彼は、直接的な力を使った闘争を徹底して避ける。


そうして、頭脳を使った力の行使に、仄暗い喜びを感じるのであった。


 ◆ ◆ ◆ 益州から来た男 ◆ ◆ ◆


唖然として開いた口を閉じることができない。


兵法書の要点をまとめるように言った楊修に対して、この小男は、得意げに全てを文章そのままに読み上げ始めたのだ。


試験において、文章の要点をまとめる設問で、全文を写し取って得意げに披露するバカが、どこの世界にいるであろうか?


時間は少々必要であったが、もちろん、彼は、落ち着きを取り戻した。


しかし、唖然とした表情だけは、わざと取り続ける。


このバカを使えば、明日のつまらない典礼が、実に面白いエンターテインメント・・・ショータイムとなることに気づいたのだ。


詩を吟じるように暗唱を終えた小男に、盛大な拍手を浴びせて称賛する。


得意げな顔。


バカもおだてれば、木に登るというが、こいつなら、峨眉山のその西方にあるといわれる神仙たちの世界・・・古代の伝説上の崑崙山でも、登らせることができるのではあるまいか?


楊修の手によって盃につがれた酒を、一気にくっとあおる小男の天狗の鼻は、伸びに伸びて見えた。


あと、ひと押しっ。


楊修は、小男に対し、漢帝国の丞相・曹操への推挙を提案する。


明日の式典の際に、あなたを推薦いたしますぞ・・・と。


益州から来たその小男は、喜色を必死で隠そうとしているのだろうが、しかし、全く隠せていない。


よだれがたれそうになっている唇をなめる舌・・・


そのまぬけな面を不愉快に感じながらも、楊修は、小男への賛辞をやめない。


そうして、明日の曹操との対面の際、今と同じ兵法書の暗唱パフォーマンスを、小男が演じるといった段取りを了承させるのであった。


 ◆ ◆ ◆ 孟徳の新書 ◆ ◆ ◆


益州の小男が、曹操の目前で膝をつき、頭を下げる。


なぜか懐に手を入れて、緊張した面持ちだ。


ここだっ。


タイミングを逃してはならない。


予定を変え、楊修は、初手で益州の小男を紹介がてらに、褒め上げた。


「丞相、蜀の劉璋殿の使者、張松殿にございます。大変優れた人物で、兵法に通じており、なんと、あの『孫家兵法新書』についても、通読されており、一言一句たがわず読み上げることさえできまする。」


予想通り、曹操は、身を乗り出してきた。


「ほう、それは面白い。よろしければ、拝聴させていただきたい。」


益州の小男は、耳に響くかん高い声で、昨日と同じように暗唱を始めた。


笑いを押し殺すのに苦労する。


悦に入って諳んじる小男の顔は、昨日の天狗鼻の顔そのもの。


そうして、ようやく最後の一語を吐き出した小男は、得意げに頭を下げた。


手を叩いて称賛する群臣。


楊修も、手が腫れんばかりに拍手した。


笑いをこらえるため、顔を下に傾けて・・・


しかし、ここからが、本番のエンターテインメントショーである。


「いえいえ、この程度のことっ・・・こちらの書は、蜀の古い書物の文章を、まったくそのまま書き写したとしか思えぬものです。益州では、子供でも諳んじることができるものでございますれば、誇るほどではございませぬ。」


そう、益州の小男は、プライドが高い。


褒め言葉をただありがたく受け取ることが、出来ないのだ。


一瞬ではあるが、曹操の顔が歪むのが見えた。


よしっ、成功だ。


さて、ここからどう転がるかは、曹操次第である。


しかし、どう転んでも、笑える展開になるであろうことは、間違いない。


そこからの会見は、予定の通りで、段取りの通り。


楊修は、昨晩、小男とした約束などなかったかのように、うつむき下を向いたままである。


彼は、推挙の言葉など発することもなく、曹操が、いつ動くか、どう動くか・・・ドキドキと高鳴る胸を押さえて時を過した。


事態が動いたのは、この会見が、何事もなく終わろうとしていたまさにその時であった。


おもむろに、曹操が、口を開く。


「さて、張松よ。兵法書は、見事な朗読であったな。褒美だ。ちょっとした秘密を教えてしんぜよう。ふむ、先ほど諳んじた内容、終わりの1文より、最初の位置にある文字を順番に取って読み上げてみるがよい。」


この言葉に、楊修は、あっと、声を出しそうになった。


やられた。


このようないたずらを仕込んでいたとは・・・


あの兵法書を暗記することなど、楊修にとって、たいしたことではない。


また、その要点を抜き出すことなども、片手間で出来ることである。


そのうえ、文中に隠された意味が無いか、確認さえしていたのだ。


しかし、その楊修ですら気づかぬ、思いもよらぬ隠し玉を、曹操は、この書に仕込んでいたのである。


『孟徳、新たに、これを書す・・・』


文末より、先頭文字を逆順に一文字ずつ切り取ってみたならば、ひとつの文章が出来あがる。


子供のいたずらのようなものではあるが、なるほど、確かにこのような場面においては、有効。


楊修は、この場を取り繕うため、言葉を発した。


「丞相、実は、昨日のことでございますが、張松殿に、この『孫家兵法新書』の写しを読む機会を差し上げた次第にございます。おそらく、その際に、益州の田舎では見ることのできないこの素晴らしい書物を必死で暗記されたのではなかろうかと思われます。」


「はっはっはっ、なるほど。それは、おもしろい。蜀のような蛮地では、新たな知識を得るのも難しいからの。速読と暗記の能だけは、素晴らしい人材が、生まれるのじゃな。ははははっ。」


曹操が、そう高らかに笑うと、周りの群臣も、追随するかのように、笑い声をあげる。


もちろん、楊修も、笑っている。


下手な疑いをもたれぬよう、腹を抱えて笑う様子を見せたのだ。


「ここは、丞相に1本とられた。譲っておこう。しかし、次の遊びでは・・・」


楊修は、曹操の様子を眺めながら、そのようにそっと小さくひとりごちた。


 ◆ ◆ ◆ 飲むヨーグルト ◆ ◆ ◆


楊修のいたずらは、これだけではない。


河北の袁家を滅ぼした際、曹操は、余勢をかって、北の烏丸の征伐に乗り出した。


そこで獲得したのが、羊の乳を使った酥であった。


酥とは、今でいう「飲むヨーグルト」である。


曹操は、持ち帰ったこのヨーグルトを容器に入れ、小さな1つのスプーンと『一合酥』と書いた木片とともに、広間の中心のテーブルの上に置くと、何も言わずに、立ち去った。


楊修は、目を輝かせた。


 『一合酥』・・・すなわち、『1人1口、ヨーグルトを呑め』

      ※「一合」という文字を分解すると、「一人一口」


この謎かけに、いち早く気づいたのである。


さっと、テーブルに近づくと、曹操が置いた小さなスプーンを取り上げて、自らの懐に隠して立ち去ってしまった。


何が起こったか分からずに、ざわつく広間。


そして、しばらくしてその場に戻ってきた楊修。


手に持っていたのは、スプーンの何倍の大きさか?


「ひしゃく」といってよいくらいの大きな「おたま」であった。


つかつかと、テーブルに近づく楊修は、ぐいと、左手をのばすと、ヨーグルトの容器をつかんで持ち上げた。


そのまま、容器を傾け、おたまにヨーグルトを流し込む。


なんということだろう。


容器の中のヨーグルトは、一滴残らず全て、おたまの中に入ってしまったのである。


 ごくごくごく


おたまに直接口を付け、楊修は、一息でヨーグルトを呑み干してしまった。


そう、木片に書かれた通り一気に『一口』である。


その後、曹操が、様子を見に戻った際、テーブルの上に残されていたのは、空っぽになった「容器」と、「木片」、そして、楊修が持ち込んだ「おたま」だけであったという。


綱渡りのような楊修のいたずら。


まさに、「いらんことしぃ」の面目躍如であった。

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