蛇足 徳の話1
今回、「徳」の話を多く書いた気がする。
きっと、野球の話がしたかったんだろう。
あそこの閑話から、1話あたりの文字数が増えた。
話の収拾がつかなくなってきたのも、あれを書き始めてからだったなぁ・・・
◆ ◆ ◆ 儒教 ◆ ◆ ◆
仁・義・礼・智・信・孝・悌・忠・・・
これらは、儒教・徳教的な「徳」である。
えーと・・・親の喪に服す時に、薬を飲んだら、「孝」に反するという教えが、儒教で・・・
ではないが、実務をこなす際に、邪魔になる理屈がまかり通ることが、しばしば見られる。
曹操の求める才能は実務をこなす力で、浮華の徒は要らなかったため、孔子20世の子孫の孔融は、、赤壁直前、曹操によって妻子共々処刑された。
建安七子の一人で孔子の子孫、指折りの文化人で名士、儒教、徳教の象徴を斬ったことで、曹操には、「徳」が欠けていると、大きな批判が集まった。
◆ ◆ ◆ 道教 ◆ ◆ ◆
道教の「徳」は、「道」の万物自然を生み育てる働きを意味する。
宮中で保身を図るために、都合が良い学問でもあったため、特に三国志の時代、積極的に政治に関わることを基本とする儒教よりも、世俗から身を引くための道教・老荘思想が、流行した。
キリスト教の歴史は、平和ではなく戦争の歴史とは、よく言われるが、道教と戦乱も、切っても切り離せない関係だ。
于吉、孫策、太平道、黄巾の乱、張純の乱、馬相の乱、白波賊、黒山賊、青州兵、五斗米道、漢中・・・
むしろ、後漢・三国志時代、戦乱の主役は、道教であったと言ってよいかもしれない。
◆ ◆ ◆ 法家 ◆ ◆ ◆
法家の「徳」は、恩賞必罰、徳の統治を意味する。
対になるのは、刑である。
諸葛亮や陳羣は、分類すると法家の人である。
彼らは、蜀漢や曹魏の法制度を整えた。
法家の「徳」に従うなら、「斬らないとみんなに言い訳できないから、泣いて馬謖を斬る」のではなく、法に照らし合わせて適正な量刑の刑罰を執行することこそ「徳治」であると言えるので、あのエピソードは、人の情に訴えるための挿話だったと考えるべきだと思うが、「法の行使も、手段の1つ」でしかないと考えると、「泣いて馬謖を斬って、皆に謝る」ことが、民心を惹きつけ、諸葛亮による国家統治をやりやすくする行動であるならば、法家の「徳」に従ったとも言えなくもない。
どこかの国の裏金問題も、「法に照らし合わせて適正な量刑の刑罰」としての「徳治」か、「法の行使も、手段の1つ」で国家統治をやりやすくする「手段」として法家の「徳」に従うかの間で揺れ動き、方向性のブレを見せたことが、民心を惹きつけられなかった原因と言えるのかもしれない。
◆ ◆ ◆ 日野いずる君 ◆ ◆ ◆
誰???
「日野いずる」って、誰よ?
変換で、1番にそう出たんだから仕方がない。
さて、西暦280年のことだ。
三国を100年振りに統一したのは、司馬炎によって建てられた王朝・晋であった。
そこから10年で、初代皇帝は、世を去った。
さらに10年すると、中華統一の夢は、脆くも崩れ去った。
八王の乱である。
20年間の泡沫夢は、はじけ、中華は、再び分裂の道を歩む。
300年・・・次の統一までには、300年弱の時間が必要だった。
西暦589年、52万の圧倒的兵力でもって、建康を陥落させた隋は、陳を滅ぼす。
八王の乱以来、長き動乱の時代が終結し、ついに中華は統一された。
うん。いい結びっ
ここで終っていいと思うけれども・・・
その隋帝国の2代・煬帝に、隣国から国書が届く。
「日出づる処の天子、書を、日没する処の天子に致す。つつがなきや、うんぬん」
煬帝は、家臣の鴻臚卿に「無礼千万、このような蕃夷の書は、今後、見せるな!」と激怒する。
これは、推古天皇や摂政の厩戸皇子という人の、「聖徳」が足りなかったから、相手を怒らせたというわけではない。
「聖徳」の問題ではないなら、何が問題か?
それは、「天子の気?そんなの知らねぇよっ。」とぼそりとつぶやいた董扶を思い出してもらえば分かる。
天子は、天に1人だけ。
そして、霊帝が、その人である。
他に天子の気配など、あるわけがない。
その通り。
天子は、天に煬帝のみ。
「日出づる処の天子」って、誰よ?
天子を名乗るとは、どういうつもりだっ!という怒りであったのだ。
まぁ、「自分のみ帝で他とは違う」って考え方をする人も、相手を「日没する処の天子」呼ばわりする手紙を送った摂政の皇子も、「聖徳」なんか持ってな・・・いえ、なんでもありません。
どちらの方も、きっと「聖徳」の持ち主のはず!
ただ、仮に大智度論の「日出処是東方、日没処是西方」の引用だとしても、「日没する処の天子」って手紙に書くのは・・・ねぇ。