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第30話 馬謖と作者は、巴蛮に怯える7

「五刑」とは、古代中国の体系化された刑罰のことである。


一、「墨」(いれずみ)、「黥」(げい)とも呼ばれる


二、「劓」(ぎ・はなそぎ)、耳などをそぐ場合も見られる


三、「剕」(ひ・あしきり)、「刖」(げつ)又は「臏」(ひん)とも呼ばれる


四、「宮」(きゅう)(去勢)、「腐」(ふ)又は「椓」(たく)とも呼ばれる


五、「大辟」(死刑)、「殺」(さつ)とも呼ばれる


 ◆ ◆ ◆ 黥布 ◆ ◆ ◆


秦末から前漢初期にかけての武将である英布の通称は、黥布である。


刺青の「黥」の字が、姓の「英」と韻を踏むことからつけられたものであり、言い直せば「顔に刺青の入った布という名の男」である。


つまり、彼は、「墨の刑罰」を受けたわけだ。


余談ではあるが、銭湯で、タトゥ入浴禁止が言われるのは、刺青が、江戸時代まで犯罪者を一般人と区別する刑罰であったことに由来する。


 ◆ ◆ ◆ 戚夫人 ◆ ◆ ◆


秦末から前漢初期に生きた高祖・劉邦の側室に、戚夫人がいる。


劉邦に寵愛されたことと、息子の後継者争いの恨みがあったため、戚夫人は、正妻・呂后に憎まれた。


このため、劉邦が死去すると、皇太后となった呂后の攻撃が始まる。


まず、戚夫人を捕らえ女官を入れる牢獄に監禁し、囚人服を着せ、丸坊主にした後、強制労働をさせた。


そして、彼女の両手両足を切断した後、目や耳や喉を潰し、排便を豚餌として与える施設に放り込み、夫人を「人豚」と呼ばせた。


つまり、「劓と剕の刑罰」を受け、結果「大辟」となったわけだ。


 ◆ ◆ ◆ 司馬遷 ◆ ◆ ◆


去勢刑は、男性を対象とした刑罰で、死刑に次ぐ酷刑として位置付けられた。


李陵の禍により、武帝を批判したと讒言された司馬遷が、受けた刑罰が「宮刑」である。


司馬遷は、太初暦の制定や、通史『史記』執筆の業績で知られている。


 ◆ ◆ ◆ 髡刑は、剃髪刑 ◆ ◆ ◆


髡刑は、「墨の刑罰」の変種と考えてよい。


髪を、通常とは、明らかに異なる形で剃り、罪人と分かるようにする処罰だ。


入墨刑と同じで、犯罪者を一般人と区別し、犯罪予防に役立たせる刑であるが、犯罪者を不吉な外貌、異形にし、人に差別させることを目的とした村八分の刑罰でもある。


陳某は、この刑罰を受けた。


馬謖が、死刑であったことを考えれば、あまりに軽い。


ここから考えると、おそらく逃亡さえしなければ、馬謖も斬られることは、無かったであろうと考えられる。


なお、髡刑を受けた陳某は、成都よりやや離れた地方に流され、その家族は、周囲より差別をうけ、村八分の扱いで暮らすこととなった。


 ◆ ◆ ◆ 曹叡の張郃、諸葛亮の王平 ◆ ◆ ◆


馬謖の副将として「王平」が派遣された理由。


それは、略陽の街泉亭付近に居住していた「賨人」「巴蛮」「板楯蛮」「板楯蛮」「巴氐」・・・どの呼び名でもよいが、彼の出身部族を蜀漢に取り込むためであった。


後漢における地方行政は、その地域の名のある著氏豪族たちに大きく依存していたのであるから、陳某も、巴西の有力氏族として同様の任務を帯びていたと思われる。


曹叡が、宗室の筆頭格である「曹真」を反転攻勢のための司令官として使わず、「張郃」を派遣したのは、これと同様の意味を持つ。


かつての曹操の漢中攻略に伴って行われた周辺地域の慰撫は、張郃の役目であった。


この時、漢中や巴西周辺の異民族は、張郃の麾下に入った。


そして、張郃や楊阜によって、漢中や巴西、武都の住民は、略陽の街泉亭付近に移住させられている。


略陽に住む異民族にとって、張郃は、以前の庇護者であり、それは、蜀漢軍・副将の王平にとっても同じ・・・


張郃は、以前の上司であった。


馬謖は、「心を攻める事が上策」であることを頭では、理解していた。


「仁愛と寛容さを以って、蛮族の心を帰服させる」ことが、略陽の街泉亭付近の慰撫と平定に不可欠であることも、知っていた。


益州南部の反乱制圧の際に、異民族の慰撫については、諸葛亮と一緒に実地研修さえしたのだから当然のことである。


誤算は、陳某にあった。


いくら「心を攻める事が上策」で「仁愛と寛容さを以って、蛮族の心を帰服させる」つもりがあっても、それを相手に伝えることが出来なければ、意味がない。


漢族であった陳某は、同じ巴西出身という縁があるにもかかわらず、略陽に住む異民族も、その同族である副将・王平も、これを信用することができなかった。


馬謖は、この陳某の目を通して、略陽に住む異民族を見た。


そして、王平を見た。


相手から、信頼を寄せられたいと思うならば、相手を信用しなければならない。


少なくともそう見えるように振舞わなければならない。


「あれは、口だけだ。」


白帝城で臨終を迎えた際、劉備がわざわざこの男について語ったのは、自身や馬良の行動を物差しに馬謖の能力を計る諸葛亮では、「口だけ」の意味を本当の意味で理解できていないと考えたからである。


馬謖は、陳某の進言に従った。


勢いをもって下り相手を攻撃するだけの一時的な拠点ならば問題なかったが、彼は、水を断たれる恐れを顧みず、南山を拠点とし続けた。


馬謖の様子は、「三国志」蜀書には『(王)平連規諫(馬)謖、謖不能用』『舉措煩擾』とあり、「華陽国志」でも『舉動失宜』と書かれてある。


完全に取り乱し、王平が彼をいさめる声など、聞く耳を持たなかったということだ。


陳某の進言により、馬謖は、ここまで追い込まれることとなった。


馬謖や陳某にとって、張郃麾下の王平は、敵である。


献策を聞くどころか、関ケ原の小早川秀秋に大谷吉継が立ちふさがって相対したように、彼に対し備えをしなければ、あっさりと首を取られかねない。


略陽の街泉亭周辺に住む異民族は、敵である。


たとえ、水の手を断たれる恐れがあろうとも、すでに、完全包囲をされ、圧倒的に不利な状態。


少しでも高い場所・・・周辺状況を把握しやすく、どの方向から攻撃を受けても、優位に立てる南山を拠点としたことは、不可解な選択ではなく、むしろ、合理を突き詰めた結果であった。


 ◆ ◆ ◆ 諸葛亮の凄みと力の限界 ◆ ◆ ◆


諸葛亮は、嘆く。


西の辺境。


この地域は、占拠さえできれば、漢中や蜀と同様、関所を閉じて容易に守ることができる場所であり、相手の中央正規軍と決戦せずに蜀が取れる数少ない領域でもある。


そして、机上の計算では、曹魏の人材で大軍の指揮が可能な司令官は、出払っているはずであり、格落ちの人物が、総司令官となる予定であった。


いくら大軍でも、地方雑軍は寄せ集めであり、さらに頭が格落ちならば、烏合の衆でしかない。


その予定が狂った。


地方雑軍を相手に勝負するはずが、明帝・曹叡の長安親征で、曹魏の中央正規軍が、やって来た。


しかも、皇帝自身が動くという1手で、総司令官の役目を果たす人物が必要とされ無くなったのだ。


諸葛亮は、さらに嘆く。


西の地を押さえるため用意した王平と陳某という切り札が、反攻司令官・張郃という1手を打たれたことで、機能不全の無効な手札とされただけでなく、馬謖という有能なはずの駒が、役に立たない無駄駒となってしまった。


彼の北伐は、緒戦に辺境のオセロ盤面を一気にひっくり返したところまでは予定通りだったが、最終的に馬謖の敗戦という結果で、砂上の楼閣が一瞬で崩れた。


今後、この地域は、1個ずつオセロの石をひっくり返し、その色を蜀漢側へと変える作業が必要となり、相手も同じ作業をすることを思えば、彼の戦略は、この第一次北伐をもって達成の目が消えたも同然に見える。


これが、諸葛亮の力の限界であった。


「曹魏は、人材が豊富」


「自身と同じ水準で考える能力がある人間が、何人も存在する」


「皇帝・曹叡自身が、これを考えたかもしれない」


今後の北伐が、国を維持するためのパフォーマンスにならざるを得ないであろうことを考えると、諸葛亮が嘆くことは、当然である。


むしろ、その先に絶望しか見えない中で、蜀漢帝国を前に向かせて、強大な曹魏に対して第5次まで北伐をやりきりつつ、国を破綻させなかったことこそ、諸葛亮の凄みなのかもしれない。


 ◆ ◆ ◆ 六十五篇の史書を撰述 ◆ ◆ ◆


 陳壽字承祚 巴西安漢人也・・・


 壽父為馬謖參軍 謖為諸葛亮所誅


 壽父亦坐被髠 諸葛瞻又輕壽   『晋書』列伝五二


この男は、巴西にルーツを持つ漢人であった。


この男の父は、馬謖の参軍として従軍していたため、諸葛亮に髡刑で裁かれ、蟄居した。


父が罪人であったため、男の家族は、地域住民から、差別を受けながら生活をしていた。


若くして学を好んだが、育ってきた環境が環境であったため、コミュ障の気があった。


同郡の誼から譙周に師事し、才を認められるも、その性質から若い頃は、日の目を見ることが無かった。


表情が乏しく、コミュニケーションが苦手、特定の事柄に強いこだわりを持ち、一人での作業を好んだことから、あるいは、自閉スペクトラム症状に似た気質を持っていたのかもしれない。


その後、蜀に仕えて観閣令史となった。


宦官の黄皓が威権を壟断し、宮廷の高官は、皆へつらったが、彼だけは屈服せず、譴責されて降格の憂き目をみた。


まさに、コミュ障であった。


そうこうするうちに、男の父が、馬謖と諸葛亮、異民族への怨言や呪詛の言葉を遺して世を去った。


父の喪に服すうちに、男自身も病に倒れる。


下女を雇い、丸薬を作らせて服用した。


喪中に薬を飲むことは、「服喪中に我が身を労わるのは、もっての外」とされる当時の儒教の考えと、相反するものであり、世間一般には受け入れられない。


薬を服用するにしても、見つからないように行わなければならなかったのだ。


よって、彼は、「空気を読めない症候群」の持ち主ともいえる。


こうして、弔問客は、父の喪に服すべき時期に、彼が女を囲ったと噂する。


この悪評のため、蜀が平定された後、しばらくは、晋が彼を採用することはなかった。


ただ、師匠であった故・譙周の縁で、司空の張華と知己であり、これに贔屓されたことで、平陽相に任命され、さらに執筆作が認められたため、著作郎の役職に任命される。


この頃に、六十五篇にもなる史書を撰述した。


その水準は、同様のモノを書いていた夏侯湛が、男の史書を見て、自分の著作を破り捨て執筆を辞めるほどのものであった。


人々は、彼に叙述の才能があり、良史の才があると称えた。


男の名は、陳寿。字は承祚。


「陳寿」の記したこの史書を『三国志』という。


 ◆ ◆ ◆ 作者は、巴蛮の呪いに、筆を曲げる ◆ ◆ ◆


『三国志』は、後漢末の混乱期から西晋による中国統一までを扱っており、このうち「魏志」の「烏丸鮮卑東夷伝」では、邪馬台国について記述される。


日本では、この部分を「魏志倭人伝」と通称することもあり、『三国志』は、中国の史書の中では、日本人にその内容を最も知られている書物であると言ってよい。


この史書を書き記す上で、彼は、どうしても受け入れられない事柄があった。


自信の知る事実を正しく書くかどうか、迷いながら筆をとったのである。


それは、父が残した怨言や呪詛の言葉に縛られた行動であったのかもしれない。


諸葛亮伝。


彼は、これに「将略に優れず、臨機応変に敵に対応する才能がなかった」と記載した。


その子・諸葛瞻については、「書こそ巧みだが、名声が実態を上回る」と記した。


王平は、「性格が偏狭で疑い深く、軽はずみな人柄であった」と書くことにした。


そして、馬謖である。


そんな発言があったかどうかは、定かではない。


劉備の臨終の言葉として、「言葉が、実質を上回る。大切な事業には、決して関わらせてはならない。諸葛亮は、察してほしい」と遺させた。


これは、死の間際、本当に口に出すほどの問題だったのだろうか?


「こいつは、口だけだから、使うな!わかるよね?諸葛亮君」という言葉で、結果的に、馬謖と諸葛亮の両者を貶める文となった。


馬謖については、思うところがあったのだろう。


その死についても、書き方が複雑になった。


諸葛亮伝においては、「馬謖を戮して、以て衆に謝す」と、泣いて馬謖を斬る記載となった。


馬謖伝においては、「馬謖、獄に下されて物故す。」と、獄中死させた。


向朗伝においては、「馬謖、逃亡し、向朗、情報を知れども知らせず。」と、獄中より脱走したように記載した。


後に大罪を犯した李厳へ諸葛亮のとった対応をみると、「獄中死」か「脱走後に斬首された」可能性が高いとみられるが、陳寿が「泣いて馬謖を斬る」記載をあえて一番注目度が高いであろう諸葛亮伝に書いたことは、街亭の敗戦の罪を馬謖だけに負わせ、その「泣いて馬謖を斬った」インパクトで、父の罪を覆い隠そうとしたと、後世において囁かれることがあっても、仕方がないのかもしれない。


街亭において巴蛮に怯えた父が、馬謖と蜀漢の道を誤らせた。


その結果が、「三国志」の作者「陳寿」の筆を、大きく曲げることに繋がった。


こう考えると、街亭における敗戦は、単に諸葛亮がその後行う北伐が失敗に終わる未来を決定づける「歴史上の分水嶺」であったという以上に、大きな意味を持つものであったのかもしれない。

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