第29話 馬謖と作者は、巴蛮に怯える6
「確かに彼は、優秀である・・・が、人を信用せず実行力がない。彼に軍の指揮権を与えてはならない。」
劉備に「優秀である」と評されたその男は、考えた。
諸葛亮は、自分を斬るしかないであろうと・・・
このたびの街亭における敗戦。
責任は、司令官である自分にあるというのは、仕方がない。
決断し、責任を取るのが、司令官である。
ただし、それを言うならば、諸葛亮の責任の方が重い。
何故なら、「陳某は、巴西の名族で、彼のアドバイスを参考にするように」と、彼に伝えたのは、諸葛亮その人であるのだから。
しかし、この男は、知っている。
諸葛亮が、自分を愛し、大事に育ててきたことを。
ここで、彼を斬らねば、敗軍の責任者を罰する際に、諸葛亮の贔屓によって、これが許された・・・と解釈されかねない。
少なくとも、そう指摘する人物は、出てくるはずである。
斬りたいか、斬りたくないかと言えば、おそらく斬りたくないはずである。
しかし、結論は、「斬る」しかないだろう。
それならば・・・
彼は、荊州襄陽郡宜城県の出身である。
そうして、そこは、もはや蜀漢が影響力を及ぼすことが出来ぬ地域である。
もちろん、諸葛亮の手も届かない。
蟄居を命じられ、軟禁されている屋敷の中、彼は、妻子郎党を連れ、益州・蜀の地を離れる決断を下した。
◆ ◆ ◆ 諸葛亮の北伐と、司馬懿の肥大 ◆ ◆ ◆
そもそも、漢王朝を再興して、後漢王朝を建てた初代の光武帝・劉秀が、兗州の陳留郡生まれの地方豪族であったというのもある。
後漢における地方行政は、その地域の名のある著氏豪族たちに大きく依存していた。
例を挙げると、姜維を輩出した姜氏は、天水の四姓と呼ばれる名家の筆頭である。
彼の父は、その地の人事を掌る功曹であり、羌族との戦争で、郡太守を守って戦死する働きを見せていることが知られる。
第一次北伐。
諸葛亮の西への奇襲は、天水、南安、安定という三郡を離反させ、これを蜀漢勢力へと引き込んだ。
この三郡の叛曹魏に見られる地方統制の脆さは、時勢によってうつろう地方豪族たちの表裏比興な姿勢の証拠でもある。
諸葛亮は、この領域を維持することで、周囲に力を見せつけ、モザイク様に混在するこれら集団の支持を得つつ、最終的に完全な蜀漢の支配領域とする必要があった。
しかし、街亭の敗戦が、これを打ち砕いた。
以降、これらの地は、蜀漢に寄ったり、曹魏に寄ったり・・・
それぞれの地方豪族たちの判断に委ねられることとなる。
これは、曹魏にとって利であり、蜀漢にとって不利である。
中華の大半を占める曹魏の力が強いことは、誰もが分かっているのだ。
これに対抗し得る強い力を保持していることを周囲に誇示する必要がある蜀漢と違い、曹魏は、一挙総取りを狙わず、じわじわとその影響力を浸透するだけでよい。
地方制圧は、揺れ動く地方豪族と、中央とのせめぎあいの中で行われ、曹魏軍の都督は、地域社会と中央とをつなぐ働きをした。
そういった意味で、対蜀漢戦争を指揮した司馬懿という都督が、その後の曹魏帝国の中で存在感を増し、大きくなっていくのは必然であった。
さて、蜀漢である。
5回にわたった諸葛亮の北伐は、失敗に終わったと言える。
唯一、成功の可能性があった第一回目の奇襲の戦果を維持できず、この西部領域は、一部を除きほぼ曹魏の支配領域となったからだ。
よって、諸葛亮の北伐を鏡面にうつして見るならば、曹魏が西の辺境を領有していく過程とも見えるし、司馬懿の持つ力が肥大していく過程であったと見ることもできる。
◆ ◆ ◆ 司馬懿の凄みと、力の限界 ◆ ◆ ◆
地方制圧は、揺れ動く地方豪族と、中央とのせめぎあいの中で行われた。
司馬懿の軍歴は、曹魏の地方制圧の歴史である。
例えば、荊州方面において、彼は、荊州・豫州都督として4年間駐屯し、曹魏の南西部域を守る役目に就いている。
軍功としても、都督就任前のものを含めると、襄陽に侵攻した諸葛瑾・張覇らを破り、張覇を斬ったことが知られており、また、上庸新城への急襲により、謀反を計画した孟達を斬り、反乱を未然に防いでいる。
そうして、対北伐、対諸葛亮の仕事として、関中方面では、雍州・涼州都督の任につき、8年間過ごした。
極めつけの大遠征は、西暦238年の遼東・公孫淵の反乱だろう。
司馬懿は、これの征討を命じられた。
ここで、彼は、南蛮制圧の際、馬謖の放った言葉を思い出させる仕事をする。
「南夷を皆殺しにすれば、後禍を除くことは可能ですが、これを早急に成す事は、まず不可能。」
司馬懿は、早急に後禍を除くことに成功した。
戦乱からの避難民が大量に暮らす遼東は、いつまた反曹魏の温床になるかわからない。
この地域は、船による交通が発達しており、気まぐれでロマンティックで謀略好きの孫権による魔の手が南の海から伸びてくることが、予想されるのだ。
よって、司馬懿は、公孫淵配下の高官たち数千人を殺害し、遼東の一般人においては、年齢15歳以上の男子を皆殺しにする決定を下した。
彼にとっても「用兵の道は、心を攻める事が上策」ではあったが、反乱鎮圧のための大軍を送るに遠すぎるこの地は、物理的にしばらく反乱を起こすことが出来ないようにする方が、コストが安いと考えたのだ。
曹魏軍の都督は、地域社会と中央とをつなぐ働きをした。
司馬懿自身が河内郡出身の名家豪族であるため、その周辺地域には、もともと固い地盤を持っている。
そして、曹魏の西部域、南西部域、北部域においては、軍を率い、揺れ動く地方豪族に対して力を示して、これを掌握した。
だが、南東部域だけは、遠征で大きな戦果を得られなかった。
西暦251年には、孫呉に対する攻撃を行うも、これは荊州方面がメインであり、かつ、孫権が自ら司馬懿を迎え撃ったため、彼は、城を落とすことができず撃退されている。
司馬懿の死の前後で、この曹魏の南東部域にあたる揚州にて叛乱が、相次いだ。
曹魏帝国後期、司馬氏が権力を奪取して専制が進むにつれて、軍事的な最前線、寿春の司令官が、3度にわたり司馬氏に対して反乱を起こした寿春三叛が、それである。
歴代の揚州都督は、曹休から満寵と受け継がれ、満寵より王淩・・・そして、毌丘倹、諸葛誕と続く。
西暦251年の王淩の乱。
西暦255年の毌丘倹・文欽の乱。
西暦257年の諸葛誕の乱。
曹魏軍の都督は、地域社会と中央とをつなぐ働きをした。
つまり、王淩、毌丘倹、諸葛誕は、他地域でそれを行った司馬懿と同様に、この地域で、揺れ動く地方豪族を掌握する仕事を行っていたのだ。
司馬懿の凄みは、軍権をもって地方遠征することで、各地の地方豪族を確実に掌握した上で、都の洛陽においては、曹爽らとの間で行われた中央の権力闘争に勝利していること。
そして、その力の限界は、他の都督が地方豪族の心を握っていた地域では、その威光が通用しなかったこと。
司馬師、司馬昭と続くこの司馬政権の流れの中で、彼らは、この揚州掌握にかなりの時間をかけざるを得なかった。
とにかく、ここは、父・司馬懿の力が、及んでいないのだ。
反乱が寿春に集中したのも、この地域と益州・蜀の地くらいしか、司馬氏に反抗する場所がなかったためである。
このため、司馬炎が、寿春のその向こう側・・・孫呉帝国を滅ぼすためにも、やはり長く時間が掛かった。
西暦280年3月、孫皓の降伏をもって、晋は、ようやく孫呉征伐を完了。
長かった三国時代は終焉し、中華は、100年ぶりに統一されることとなった。
◆ ◆ ◆ 北伐の意味と、馬謖の望郷 ◆ ◆ ◆
荊州を、呂蒙に奪われる。
劉備も、諸葛亮も、関羽が引き起こしたこの失態によって、窮地に追い込まれた。
荊州は、劉備政権を支えていた多くの漢人にとって出身地で故郷である。
伊籍、馬良、劉巴、楊儀、蔣琬、費禕、高翔、魏延、黄忠・・・
彼らが、劉備政権の政事・軍事における統治機構の多くを形成しているのである。
他所からの移住であるため、やや例外的存在にはなるが、諸葛亮にとっても、これは、妻の故郷であった。
劉備が荊州で得た人材や兵員は、益州・蜀に一族郎党を全て移住させたわけではない。
荊州に、そのまま居住させてあるのだ。
曹操との漢中争奪戦で疲弊しているにもかかわらず、劉備が無理にでも、荊州奪還の戦を仕掛けたのは、これが、彼らの故地奪還の意味もあったためで、任侠の人・劉備がこれを行わないという選択肢は、存在しない。
そして、夷陵の敗戦は、荊州人が、故郷や人質となった一族郎党を取り戻すことを諦めざるを得なくなるのと同義であった。
実は、後漢帝国は、後漢ではなく、蜀漢帝国は、蜀漢ではない。
前漢と後漢、漢と蜀漢などという呼称は、人が区別するために便宜上そう呼んでいるというだけで、「すべて連続した『漢帝国』である」というのが、建前である。
そして漢帝国として、討伐すべき対象は、逆賊の曹魏だ。
だから、我々は、北伐をしなければならない。
出師の表で諸葛亮が述べ定義した「劉備の恩に報いるために、中原に進出し、簒奪によって打ち立てられた逆賊たる曹魏王朝を破り、益州の辺境に押し込められた漢王朝を復興させる」という蜀漢の国是は、荊州奪還を否定するものであり、この国が目指す優先度を東方より北方とするものであった。
諸葛亮は、これを国是と定義することで、荊州人の故地への想いを封印させようとした。
いや、無理にでも、その声を封印させた。
そうして、街亭の敗戦の責を問われることにより、この封印が解け、国是という建前をかなぐり捨てることが出来た時、馬謖が荊州を目指そうと考えたのは、ごくごく自然なこと。
蟄居を命じられて軟禁されている屋敷を抜け出すと、馬謖は、ただ故郷荊州の地を目指した。
その日のうちに知らせは、届いた。
丞相府の机に向かう諸葛亮の手元には、「馬謖脱走も、捕縛」と書かれた1枚の報告書があった。
窓からは、冷たくなった秋風が吹きこむ。
机の上、強く握りしめられたその紙片は、蜀漢の最高権力者・諸葛亮の心の内と同様に、ゆらゆらと揺れ動いているように見えた。