第27話 馬謖と作者は、巴蛮に怯える4
諸葛亮は、出師表をあらわし、漢中の沔陽県に駐屯した。
彼はまず、曹魏の支配する長安に向けて北上。
その上で、宿将の趙雲をおとりに使い、郿県を攻めると喧伝。
曹真が、そちらへと向かった隙を突いて、西の天水郡の祁山へと進出した。
中原を押さえにいくならば、東に向かうはず・・・
それが、辺境の西へと行軍したのだから、曹真の対応を責めるのは、酷というもの。
しかし、曹魏にとって、状況は、良くない方向へ進む。
不意を衝かれ、天水に加えて、南安・安定の計三郡が、蜀漢側へとに寝返る。
曹魏は、長安と河西回廊とを分断される事態となった。
ここで、魏の明帝・曹叡は、英断を下す。
親征である。
自ら、軍を率い、長安に駐屯。
曹真に関中方面の押さえを任せ、諸葛亮の本隊に対しては、別働の領土奪回軍を向かわせた。
命令を受けた部隊が、足を進めるのは、涼州の漢陽郡略陽県。
天水郡の東部に位置する略陽の街泉亭は、要衝である。
この地が破られ、相手の自由にされた場合、蜀漢軍は、東西2方面から攻め立てられるという危険に、常に脅かされることになるからだ。
そうして、この時、曹魏軍の迎撃と、略陽防衛の先陣を諸葛亮より命じられた司令官こそ、あの馬謖であった。
◆ ◆ ◆ 諸葛亮は、遺命を破る ◆ ◆ ◆
「馬謖よ。そちに、二人の特別な武将を付ける。」
「特別な武将でございますか?」
略陽防衛の先陣の命を授けるため、馬謖を呼び出した諸葛亮は、こう切り出した。
「ひとりは、参軍・陳某。もう一人は、副将・王平である。」
かつて曹操が、漢中を放棄して撤退した際、西接する武都周辺は、益州・蜀との境に置かれることとなった。
これを危うんだ曹丕は、楊阜に命じ、武都周辺の人間を、京兆や扶風、あるいは、天水の略陽へと移住させた。
この時、異民族・漢族あわせて一万戸が、移住策に従うこととなる。
また、略陽には、他にも移された集団があった。
張魯が曹操へと降った際の、漢中・巴西周辺に住む「巴蛮」「板楯蛮」「賨人」の集団である。
司令官・馬謖に付けられる2人の武将・・・
陳氏は、後漢時代に陳禅を輩出した巴西の著姓。
王平もまた巴西の人で、いわゆる「賨人」であり、「巴蛮」であり、「板楯蛮」。
つまりは、彼は、異民族である。
諸葛亮は、馬謖に告げた。
「略陽は、民を強制移住させた場所なのだ。よって、陳某、王平は、この地域の民をよく知っておる。王平には、蛮族の民を慰撫させ、帰順を促すようにさせよ。参軍の陳某には、漢族を慰撫させる。分かるな?陳某は、巴西の名族でもある。彼のアドバイスは、参考になるであろう。」
2人の武将に、この地域の住民、特に数が多い異民族を、蜀漢陣営へと帰順させることを企図しており、これを馬謖に監督させる。
先の南蛮制圧で、「理論、良し!実践、良し!」は、既に確認している。
馬謖は、益州南部の反乱において「用兵の道は、心を攻める事を上策とする」ことを実践し、蛮夷に力を示すと、「仁愛と寛容さを以って、蛮族の心を帰服させること」に成功した。
今回は、馬謖を司令官とし、王平という同族をつかって「賨人」「巴蛮」「板楯蛮」の民を慰撫させ帰順させるのだ。
諸葛亮は、歴戦の魏延や呉懿に任せるべきという周囲の反対を聞かず、馬謖をして先陣とし、軍の指揮を任せる命令を下した。
これは、異民族慰撫というこの1点において、歴戦の魏延や呉懿は、直近の実績が薄く、馬謖には、直近の実績・・・南蛮夷の人心を安らげ、これを帰順させたという事実があったための抜擢であった。
決して、贔屓ではない。
亡き義兄弟の馬良の弟であるからという理由でもない。
情ではなく、理をもって、決定した万全の策であった。
「おそらく、曹魏軍は、歴戦の曹真が、司令官として反撃に出て来る。曹真を防ぐことは、魏延や呉懿でも可能だ。だが、蛮族の民を帰順させること。曹真を防ぐこと。この2つを両立させることができるのは、馬謖、お主だ。頼んだぞ。」
こうして、諸葛亮は、馬謖を選んだ。
「馬謖に、軍の指揮だけは、任せてはならない!」
劉備は、遺言で言い含めている。
しかし、陳某、王平という2将を配置し、そして、馬謖の「理論、良し!実践、良し!」を確認した今なら、この遺命は、守らずとも良い。
彼は、そう考えたのかもしれない。
ただ、諸葛亮に判断ミスがあったとすれば、その一点は、北伐に対する反転攻勢として、魏の明帝・曹叡が、自ら、軍を率い、長安まで親征してきたという事実。
これによって、曹魏中央正規軍が長安に駐屯することとなり、しかも、相手が皇帝の名にかけて、万が一にも負けるわけにはいかなくなったこと。
これは、蜀漢にとっての悪条件である。
そして、もう一点。
蜀漢軍の本隊を迎撃するため、曹叡が、指名した司令官が、曹真ではなく、張郃であったという事実。
これも、じつに大きな問題であった。
◆ ◆ ◆ いざ、街亭へ ◆ ◆ ◆
天水郡と雍州の境にある列柳城。
ここが、蜀漢軍にとってひとつの拠点となった。
蜀将・高翔は、ここに拠り、部隊をバックアップすることとなる。
なぜなら、馬謖が、城には籠もらぬという判断をしたためだ。
これまでの過程を見ても、地域の諸集団は、おおむね蜀漢側になびいている。
ならば、野戦が有利。
副将の王平に別働隊を委ね、先に進ませる。
相手と矛を交えるであろう略陽の地は、巴西の異民族が、多く移住した地である。
王平にこれらを懐柔させながら、部隊に組み込ませ、ゆっくりと進ませ合流させる。
その間に、馬謖は、南山を頼みに陣を敷き相手を待ち受ける。
敵が現れた瞬間、勢いよく南山よりくだる馬謖本隊が、曹魏の反攻部隊を叩き潰すのである。
◆ ◆ ◆ 諸葛亮の北伐 ◆ ◆ ◆
諸葛亮は、この北伐に至る過程で、魏延の案をたびたび退けた。
それは、魏延の案が、全て長安を短期のうちに突くものであったからだ。
諸葛亮にとって、長安を突くことは、曹魏の中央正規軍とぶつかることを意味する。
曹魏の中央正規軍と、地方雑軍は、全く別物だ。
新城・・・以前の上庸の地において、裏切りを約束した孟達が、司馬懿に囲まれた際、諸葛亮は、まともな援軍すら出さなかった。
これは、宛城に駐屯する司馬懿が率いる軍が、荊州と豫州の2州を管轄する中央正規軍を主力とすることが理由。
これとぶつかって、勝つことは、難しい。
それを避けながら、負けない態勢を作るには、どうすればよいか?
諸葛亮は、必死で考えたのだ。
昔、馬超が、冀城にて曹操陣営の韋康を攻め殺した際、周囲の郡県は、馬超側へと雪崩をうって傾いた。
これは、郡県を支える漢族や、各郡の領域内に潜む異民族集団が、強い自立性をもっていたことが原因である。
彼らは、「曹操は、頼りにならず、逆に、羌族の血を引く馬超は、羌胡化で台頭した頼りがいのある涼州軍閥の雄である」と認識したのである。
反対に、楊阜が、鹵城で馬超に反旗を翻したのも、個々の集団が強い自立性を持つことの証拠で、楊阜の天水楊氏は、四姓の姜氏と通婚関係にあり、馬超側につかなかった一部の姜氏が、この地域に台頭しようとする馬超を叩く決断をして、楊阜側についたということである。
このように、天水四姓にしても、1枚岩ではない。
例えば、天水四姓の有力豪族である姜維は、今回の北伐の緒戦で、蜀漢に帰順した将来有望な将軍である。
彼らは、遥か遠くの許都や洛陽とのコネクションすら保持していた。
確かに、関中や隴西の諸勢力は、中原の混乱から遠く離れた地で、自立をしている。
しかし、次の時代は、どうなるかを考え、自集団は、どのように身を振るべきかも、真剣に考えている。
その過程で、馬超は、中原の曹操政権と徹底的に対決し、楊阜は、ゆるやかな融合をはかった。
地域では、当然、漢末以前から居住していた郡県の「民」や「蛮夷」は存在し、その上で、「巴蛮」「板楯蛮」「巴氐」といったよそからの移民政策が、行われている。
彼らは、この時代、この地域で、混在していったのである。
こうして、隴西の地には、かつて存在したユーゴスラビアのように、モザイク状の自主管理社会集団が形成されていった。
諸葛亮が考える第一次北伐においては、その現実的な手段として、点在するこれらの諸集団ひとつひとつを引き入れ、蜀漢の勢力圏を作った後、長安を含む関中を得て、仮に曹魏の中央正規軍と対決しても、簡単に崩れない形を作ることが第一歩目なのである。
そうして、諸葛亮の目論見は、ひとまず成功する。
相手にとって寝耳に水となる諸葛亮の西への奇襲は、天水、南安、安定という三郡の叛曹魏という成果を得た。
ただし、この三郡を一時的に手にしただけでは、その意味は、無に等しい。
先の南蛮制圧と同じである。
「力」と「仁愛」と「寛容」さを以って、辺境の民と蛮族の心を帰服させること。
すなわち、諸葛亮は、この領域を維持することで力を見せつけ、混在するモザイク集団の支持を得つづける必要があるのだ。
◆ ◆ ◆ 事件は、常に現場で ◆ ◆ ◆
蜀漢軍、先陣の司令官、馬謖。
孫子、呉子、六韜、司馬法、尉繚子・・・
彼は、あらゆる兵法書を読み、これを議論した。
兵法書は、戦争を考える上での、最高の参考書である。
しかし、実際の戦争は、兵法書に書いてある通りには、進まない。
事件は、机上で起きるのではなく、常に現場で起きているのだ。
曹操は、それをよく知っており、自ら筆を執って孫子の兵法書のバージョンアップ版を書き記した。
省略されている部分を補い、現場に生きた総指揮官であるからこそ分かる注釈を新たに加え、古い書物を、孟徳自ら新書として改訂したのだ。
第一次北伐。
街亭の戦いにおいて、蜀漢の総指揮官・諸葛亮は、この現実を思い知らされることとなる。