第26話 馬謖と作者は、巴蛮に怯える3
劉備も、その父親も、祖父も、幽州安楽県の生まれである。
その縁である。
司馬昭によって、劉禅は、先祖代々の土地である幽州の安楽県において、「安楽公」に封じられた。
彼は、長男の劉璿を、鍾会と姜維が反乱を起こした際に殺害されていたため、後継者を六男の劉恂とした。
西暦271年、劉禅は、65歳で死去した。
安楽公の名にふさわしい大往生であった。
劉禅は、司馬炎によって、思公と諡号された。
五胡十六国時代の前趙の皇帝・劉淵は、異民族・匈奴と漢氏とは、兄弟の義を結んだとし、自らを漢帝国のみならず、蜀漢の後継者とも称した。
そのため、劉禅は、この前趙初代皇帝により、「孝懐皇帝」と諡号され、追尊されたという。
さて、劉禅より安楽公を継いだ劉恂である。
この人物、道義を失う振る舞いを度々行い、旧蜀臣の何攀に諫言され続けたと言われる。
これを見ると、その子・劉恂は、劉禅に比べて、大きく劣っていたのだろう。
その劉恂も、司馬炎の死後に起こった八王の乱に巻き込まれ、一族皆殺しにされた。
このため、劉禅の直系子孫は断絶した。
劉備の血筋としては、劉禅の弟で甘陵王・劉永系の劉玄だけが生き延びて、蜀の地に成立する「成漢帝国」を頼ることとなったことが知られている。
◆ ◆ ◆ 成漢帝国の祖 ◆ ◆ ◆
男は、略陽郡に割拠する巴氐族の有力者の家系であり、司馬炎の晋帝国に従属していた。
しかし、西暦291年、八王の乱・・・司馬一族による周辺異民族を巻き込んだ争いが始まる。
董卓、呂布、李傕による都・長安の混乱が起こった時と、同じであった。
関中一帯は動乱に陥り、これに、飢饉が重なった。
男は、故郷を離れ、流民と共に蜀へ移動する。
それは、西暦196年に司隷扶風郡より益州・蜀の地へと向かった、法正や孟達が歩んだものと、同じ過程、同じ道のりである。
彼は、道の途上、剣閣に至った。
蜀の険阻な地を見下ろすと、はるか険しい崖。
その底は暗く、もはや最下の地を視認することはできない。
「ふぅ・・・」
ため息をひとつ。
そして、つぶやく。
「劉禅は、このような堅牢の地を擁しながら、人の前で面縛し、鄧艾の元へと向かったのか!?」
その昔、劉禅は、益州閥の譙周の進言に従って降伏を決めた。
この時、降伏のしきたりに従って、自らの身を縛りあげ、棺を担いだ姿で、魏軍の鄧艾の前に跪いて降伏を乞うたのだ。
これは、秦朝の第2代皇帝の胡亥が、劉邦の元へ向かった時と、同じスタイルで、この時代、皇帝が降伏する際の儀式であると考えてよい。
日本でも、天正18年の奥州葛西大崎一揆において、一揆を煽動した伊達政宗が、黄金の十字架の磔柱を担ぎ白装束で、秀吉の元へ赴き、鶺鴒花押の針の目の弁明で、かろうじて死を免れるといった講談など、この故事が元になった話が多くある。
つまり、男は、「これだけの要害をもって、国を保つことが出来なかった劉禅は、なんと暗愚な君主であろうか?」とあきれて、嘆じたわけだ。
彼の名を、李特という。
略陽郡臨渭県出身の「巴蛮」と呼ばれる異民族の出身だ。
その後、彼は、移住した益州・蜀の地で決起する。
これが、成漢帝国建国の第一歩であった。
後に、その子が帝位に即くと、李特は、景皇帝と諡号され、廟号を始祖とされた。
◆ ◆ ◆ 賽人の墓 ◆ ◆ ◆
2020年3月10日。
四川省文物考古研究院は、中国南西部の異民族「賨人」の貴人が埋葬された、船棺墓を発見したと発表した。
墓からは、竜文玉佩、蜻蜓眼瑠璃珠、編鐘、金剣格柳葉形剣などといった、精巧な礼服の装飾具、古代とんぼ玉、青銅打楽器、装飾用武具などが出土したわけだ。
遺跡は、賨国の都で、古代巴文化の範囲に含まれる。
現在、この墓は、格式の高い埋葬品から、被葬者の身分が非常に高いと考えられ、古代少数異民族の貴人のものと考えられている。
◆ ◆ ◆ 劉邦の先鋒 ◆ ◆ ◆
成漢帝国の祖、李特。
その祖先は、巴西郡宕渠県を本貫とする少数民族の「賨人」である。
「巴人」とも、呼ばれる。
秦の始皇帝がこれを支配体制に組み込んだ時には、低い税率が設定され、一人四十銭を納めた。
巴人は、この賦税を賨「そう」と呼び、そこから「賨人」と呼ばるようになる。
一族は、力が強く勇猛果敢、神霊を人の体に乗り移らせて祈祷を行う鬼巫を好んだという。
項羽によって、劉邦が漢中へと左遷され、漢王となると、この勇猛な「賨人」を募った。
その後の項羽との戦いは、五年間も続いた。
劉邦の連戦連敗であった。
敗れる度に、兵士や食糧は、蕭何によって補われた。
蕭何が、劉邦に送り続けた兵士。
その中心こそ、勇猛な「賨人」であった。
彼らは、劉邦の先鋒を務め続けた。
劉邦は、中華統一後、蕭何とともに「賨人」の功績をたたえた。
このため、彼らに対する賦税は、免除され、地名は、巴郡と改められた。
「賨人」たちは、これを喜び、劉家への忠誠を厚くし、この後の劉邦の親征においても、喜んで先鋒を務めたという。
さて、董卓後、天下が大乱すると、巴西の宕渠から漢中の楊車坂に移るものもあらわれ、通行者を襲ったので、みな苦しめられた。
人は、これを「楊車巴蛮」と呼んだ。
その後、張魯が漢中に割拠するようになると、張魯はここに、鬼道をもって百姓を教導し、宗教集団・五斗米道を築く。
鬼巫を好んだ「賨人」もまた、多くが彼の教えを敬信し、巴西の宕渠を離れて漢中へと移住する者も出た。
魏の曹操が、漢中を平定すると、成漢帝国の祖・李特の曾祖父が、杜濩・朴胡・袁約・楊車・李黒らといった部族の有力者と共に五百余家を従えてこれに帰順。
曹操は、この曾祖父を将軍とし、張郃に彼らをまとめさせた。
その後、張郃の移住策により、移動した「賨人」は、天水郡略陽県に住まうようになった。
この時、彼らは自らの呼称を改めて「巴氐人」、あるいは「巴人」と称するようになる。
ただし、漢族は、この異民族を蔑称である「巴蛮」「板楯蛮」と呼んだという。
◆ ◆ ◆ 何平 字は、子均 ◆ ◆ ◆
何平。字は、子均。
益州巴西郡の人で、「巴蛮」「板楯蛮」の出とされる。
長らく軍旅にあり、文字を理解せず、知る漢字は、十字ほど。
このため、文官を常に傍に侍らせる。
ただし、文官に、口述筆記させた文は、理に適ったものであった。
さらに、「史記」や「漢書」といった史書を、人に読んでもらうことで耳で覚え、その大略を掴んだ。
論じては、これらの要旨を捉えており、また、法律を忠実に履行し、戯言を口にせず、一日中、机の前に座ることを苦にしないため、まるで文官の様だとも言われるほどであった。
漢中や巴西郡が曹操に帰順した際、張魯に帰順していた異民族指導者であった彼は、張郃の麾下に入った。
この時、何平は、洛陽に赴き、校尉の位を与えられる。
その後に起こった漢中攻防戦の際に、劉備軍へ降ることとなり、彼は、牙門将・裨将軍に任命された。
彼は、以降、劉備の蜀漢に仕えることとなった。
なお、この男は、もともと母方の何氏に養育されていたため、何平と名乗っていたが、いつのころからか、父親の王姓へ戻っている。
そのため、後の歴史書などには、「王平」と記される場合が多い。
この王平である。
諸葛亮の北伐にも従軍し、多くの戦功を挙げた。
特に王平の名を高めたのは「街亭の戦い」であり、諸葛亮より、司令官・馬謖の副官を命じられたことが知られている。
◆ ◆ ◆ 巴郡漢族の名士、陳某 ◆ ◆ ◆
陳家は、巴西の著姓である。
そして、後漢時代には、著名人の陳禅を輩出している。
よって、陳某は、自身を巴郡における漢族の名士であると自負していた。
この男、漢族の名士との自負から、異民族を蔑視した。
すなわち、益州巴西郡の「巴蛮」「板楯蛮」と呼ばれた、同郷の異民族を蛮族とさげすんでいたのだ。
古代の「日本」に元々住んでいたのは、野球のホームベースみたいな顔をした手足の長い南方系の人だといわれる。
その後、モンゴル系というか大陸系の人が、朝鮮半島を下って日本まで辿り着き、移り住んだ。
この人たちは、九州に移り住んだ後、主に近畿で現地の人と結びつき繁栄し、大豪族となった。
よって、生まれてきた子供が蒙古斑を持つ人が、日本人に多い。
近畿の大豪族の子孫たちが、「私は、古来からの日本人だっ」と、胸を張っても、その家に生まれてきたお子様のお顔が、「目が一重だったり、朝■龍(仮名)に似ている」ならば、後から来た渡来系の遺伝子が強い家系である可能性が高く、古代の「日本」に元々住んでいた人たちの特徴とは、異なる。
では、逆に、「目が二重で、ホームベースみたいな形の顔で手足が長い」なら、古来からの日本人なのか?というと、今度は、赤ちゃんのおしりに蒙古斑があったりする。
結局は、血が混ざっているので、どちらも、古来からの日本人の可能性があるし、古来からの日本人では無いともいえる。
また、北からは、ロシアあたりから北海道や東北へと船などで移動した人たちも知られている。
こうなってくると、古来からの日本人という言葉の定義すら怪しいものになる。
そして、三国志時代の中国も、すでに混ざっている。
祖先が後漢初期の名将・馬援という漢族の名士、「馬騰」の母は、羌族である。
混血であることが、きちんと記録に残っているのだ。
なので、馬騰の子である「馬超」は、羌族の支援を受けて、曹操に攻めかかった。
さらに、三国志最強武将と称えられる呂布は、并州五原郡九原県の出なので、モンゴル系と言える。
また、演義にて「碧眼児」と呼ばれたのは、「孫権」だ。
目が青かったかどうかは、定かではないが、西晋時代の「江表伝」に「孫権は、顎は角張り唇は大きく、目は、通常と違い、煌々と輝いた」とされる。
また、後漢時代の「献帝春秋」には、魏の張遼が「呉軍に見える紫髭で、馬と弓に長けたあの将軍は誰だ?」と、孫権のことを尋ねたという記録もある。
「目の色が黒でなく、紫髭である」ことから、康国人、あるいは、石国人あたり・・・要するに、ウズベキスタン地域の血を引いているのであろうと想像される。
三国志の皇帝の一人は、異民族であったともいえるのだ。
ウズベキスタン地域の血といえば、「白い目で視る」の語源もそうであろう。
阮籍。字は嗣宗。
有名な竹林の七賢の中でも、指導者といえる人である。
最高権力者・司馬昭に、贔屓されていたことが知られ、政争に関与せず、酒浸りの生活をする道を選んだ。
変わり者で、無職のアル中とも言えなくもないが、司馬昭は、そんな阮籍を「至慎」・・・「慎み深い人だ」と評した。
彼は、礼法を重視した儒家のような気に入らない人物に対しては、白目を剥いて対応し、気に入った人物に対しては、通常の「青眼」で対応した。
このことから、気に入らない人物を冷遇することを、「白眼視」というようになった。
ここでの白目に、意味は、ない。
しかし、この「青眼」は、彼が、西方ウズベキスタン系の血をひいているであろうことを意味する。
漢族の名士も、皇帝も、すでに、異民族の血をひいているのである。
にもかかわらず、漢族至上主義が続く。
■疆■イグルでは・・・(あまりに長文のため、中略)・・・
漢族至上主義は、演義の諸葛亮にすら、こう言わせる。
「文字を10しか知らぬ、異民族の王平ですら、山上に陣する愚を理解していた」
「異民族ですら、分かっていた」は、「漢族なのに、分かっていなかった」と同義である。
あからさまな差別。
純血なんて、幻想であるにもかかわらず・・・
まるで、ハリーポッターだ。
あぁ、やっと話を、元に戻すことができる。
そう、陳某である。
漢族至上主義者のこの男は、「街亭の戦い」において、諸葛亮より、司令官・馬謖の軍師役・・・参軍を命じられたことが知られている。
この決定、深く考えられたもので、決して間違っていると言える決定ではない。
しかし、結果論ではあるが、諸葛亮による北伐において、これが、最大の痛恨事を生み出す原因となってしまうのであった。