第25話 馬謖と作者は、巴蛮に怯える2
皇帝となった沛県出身の元亭長は、言った。
「楚との戦いは、五年間も続いた。連戦連敗であった。軍を失い、兵を失い、逃れることも多々あった。その五年間、この男は、関中と咸陽を守った。失った軍兵を補充した。時には、数万の衆を連れて敗残の我が元へ馳せ参じた。兵士や食糧の不足は、関中より、この男が送り続けた人と糧米で補われ続けた。これは一時の功でない。万世続く功績である。天下統一のこの際に、戦功第一は、この男である。」
◆ ◆ ◆ 人物鑑定士・劉邦 ◆ ◆ ◆
彼は、劉家の男(邦)で、末っ子(季)だ。
父の名も、母の名も、伝わっておらず、ただ、偉大なお父さん(太公)、おばあさん(媼)と呼ぶしかない。
元は、沛県の兵を置く宿舎の亭長であったが、始皇帝の作った帝国を倒す反秦連合に参加した。
この時、秦帝国の都・咸陽・・・のちの長安を陥落させ、関中を支配下に入れる。
その後、項羽によって、漢中および益州へと左遷されるも、最終的に項羽を討ち、漢帝国を興した。
劉邦、字は、季。
父は、劉太公。母は、劉媼。
廟号は、太祖、諡号は、高皇帝。
このため、漢帝国の高祖と呼ばれている。
彼が、群臣の薦めを受け、皇帝に即位したのは、紀元前202年のことである。
論功行賞では、戦功第一の曹参を皆が称える中、劉邦は、それを退けて蕭何を筆頭とした。
常敗の将・劉邦は、敗れるたびに蕭何が送り続けた軍兵と軍事物資がなければ、自身は、項羽と継戦するどころか、滅びるしかなかったことを理解していたのである。
天下平定後の酒宴。
劉邦は、「自身が項羽を破り、中華統一を成し遂げたのは、なぜかわかるか?」と群臣に問うた。
王陵は、進み出て答える。
「それは、徳にございます。陛下は、仁愛で人を慈しみます。項羽は、全てが自分の功績で、恩賞を惜しみます。陛下は、微々たる功にも報い、領地を与えて天下に利益を与えます。」
劉邦は、笑って首を振った。
「お前は、分かっておらぬ。わしは、張良のように策を巡らすことはできぬ。蕭何のように民を慰撫し兵を補うこともできぬ。韓信のように軍を自在に動かすこともできぬ。しかし、この張良・蕭何・韓信の3人を手足として働かせることが出来た。だが、項羽は、軍師・范増のたった一人すら、使う事が出来ていない。これが、わしが項羽に勝ち、中華統一を成しえた最大の理由だ。」
この漢帝国の初代皇帝は、人を見極め、人を使うことに長けたことが、自身を勝利に導いたと誇ったのだ。
王陵は、自身の答えを恥じて、頭を下げることとなった。
さて、晩年、相次ぐ反乱に親征を繰り返した劉邦は、この時の矢傷が元で病を悪くした。
劉邦は、自らの死期を悟った。
この時、枕元に呼ばれた呂雉は、漢帝国の高祖・劉邦の妻。
つまり皇后である。
呂后は、劉邦に問う。
「あなたの死後、どうすればよいか?」
「丞相・蕭何に任せておけばよい。その次は曹参が良かろう」
心配性の呂后は、続ける。
「その次は?」
「その次は、王陵であろうが・・・あれは、愚直すぎる。謀を得意とする陳平を補佐とすると良い。だが、陳平は、頭が切れすぎて危うい。全てを任せては、ならない。最終的に、この劉家の社稷を守り切るのは、必ずや周勃である。」
呂后は、さらに、続けた。
「その次は?」と・・・
死を目前にした皇帝は、笑った。
「一体、いつまで生きるつもりだ?その次の時代、お前は、わしと同じ場所にいる。もう関係ない話だ。」
このように語ったという。
その後、太子の劉盈が即位した。
2代目、恵帝である。
しかし、その権限は、全て呂后が握った。
先に述べた通り、皇帝の母は、過度の心配性である。
しかも、猜疑心が強く、その性質は、残忍であった。
丞相・蕭何や、王陵は、愚直に、我慢強くこれを支えた。
蕭何の後を受けた曹参は、劉邦と蕭何が定めたあらゆる事柄を変更しなかった。
役人の中から質朴で重厚な人柄の人物を選び、才気あふれる人物が居れば、これを遠ざけた。
「蕭何は、法を作り、透明度を高く整えた。曹参は、これを遵守し改変せず。清浄な政治に、民は安らかで一つとなる。」
このように称えられるように、曹参の治世において、乱が起こることはなかったし、丞相府で、事件が起きることもなかった。
謀を得意とする陳平は、呂后が今後に不安を抱いていることを見抜き、彼女の一族を要職につけ、これを精神安定剤として利用した。
周勃は、才能は、凡庸であったが、意志の硬さで忍耐を示した。
やがて、呂后は、舞台を去った。
次の時代が来て、呂后は、劉邦と同じ場所へと向かったのだ。
しかし、要職に就いていた彼女の一族は、専横を極め、劉氏から呂氏へと漢帝国簒奪を狙う。
周勃は、動いた。
彼は、陳平と協力し、呂氏一族を粛清。
恵帝の異母弟の代王・劉恒を皇帝として擁立する。
はたして、周勃によって、劉氏の社稷は守られた。
これを見ると、劉邦の人物眼の確かさと、人を用いることの巧みさは、項羽に比べて、大きく勝っていたのは、確かと言えるだろう。
◆ ◆ ◆ 人物鑑定士・劉備1 ◆ ◆ ◆
西暦228年。
諸葛亮は、北伐を開始した。
魏延は、諸葛亮に提案した。
「自分が10000の兵を指揮し、別動隊を率いて、潼関で落ち合うのはどうか?」と。
劉邦は、韓信と兵を分けた。
魏延も、韓信のように別軍を自在に動かし、曹魏を側面からおびやかすことを考えたのだ。
諸葛亮は、魏延の作戦を否決した。
これにくじけず、魏延は、さらに、諸葛亮に提案した。
長安の守将・夏侯楙は、曹家の縁者というだけで、臆病で無策な人物である。
「精鋭5000を預けてもらえれば、単独で長安を急襲し、これを落としてみせる」と。
諸葛亮は、この作戦にも首を横に振った。
第一次北伐は、諸葛亮の曹魏への奇襲ともいえる。
皇帝・曹叡は、老将・張郃をもって反攻を企図した。
諸将、皆が、魏延が兵を率い、この歴戦の名将にあたると考えた。
しかし、諸葛亮は、馬謖を抜擢して大軍の指揮を任せた。
翻って、西暦219年。
漢中王に即位した劉備は成都に帰還する際、漢中に守将を配置した。
人々は、義兄弟で歴戦の張飛が起用されるであろうと考え、張飛自身もその準備をしていた。
予想に反して、劉備は、魏延を漢中督および漢中太守に抜擢した。
集まる群臣の真ん中に立ち、魏延は、言った。
「賊将・曹操が、兵を挙げ攻め込むならば、これを防いで、その首を取ってみせます。しかし、曹操配下の将軍が来る場合は、違います。この将軍を降し、兵もろとも、わが軍に併合して見せまする。」
劉備や群臣は、その勇と智に感心した。
魏延は、漢中を良く守った。
魏延が定めた「重門の計」と呼ばれる「諸陣営を交錯させ、守りを固める戦法」は、魏延の死後も、漢中を守り続けた。
姜維によって諸陣営が撤去され、「漢城と楽城に兵を集めて守り、益州より援軍が来た段階で、相手を追撃し、殲滅する」というコスト削減が行われるまで、曹魏は、漢中の手前で、その攻略を頓挫せざるを得なかったのだ。
曹操が任じた、夏侯淵は、漢中を守り切ることが出来なかった。
劉備が任じた、魏延は、死後も、漢中を守り続けた。
これを見ると、劉備の人物眼の確かさと、人を用いることの巧みさは、先祖の劉邦譲りといってもよいであろう。
◆ ◆ ◆ 人物鑑定士・劉備2 ◆ ◆ ◆
劉備の入蜀時の話である。
劉備が益州の支配に成功すると、元の蜀郡太守であった許靖は、左将軍長史に任じられた。
余談であるが、許靖の兄の外孫が、陳祗。
陳祗は、費禕亡き後の、蜀の国政トップで、姜維の北伐を事実上、サポートしたと言われる。
ただ、譙周との論戦では、北伐に関して、譙周に協調する意見も出しているため、実際は、北伐に賛成していたかどうか、少々怪しい。
まぁ、それはともかくとして、許靖である。
劉備が、劉璋を攻めて成都を包囲した際には、許靖は、これを見捨て成都を脱出しようとした。
かれは、捕縛され、見苦しく振舞ったため、劉備に疎まれた。
虚名だけ、口だけで、実質がない人間であるため、要職にも、就けたくないと考えたのだ。
お気に入りの法正が、その虚名も名声の内であると、登用を勧めなければ、切り捨てた可能性すらあった。
つまり、左将軍長史への任用は、法正の考えを採用したものであった。
劉備の人材活用は、実務優先なのだ。
西暦223年、劉備は丞相・諸葛亮を枕元に呼び寄せた。
自身の死を悟り、遺言を伝えるためである。
「馬謖の頭が良いことは分かる。ただ、口は、良いが、賢人を信用できず、佞奸の愚人が話す言葉に惑わされる。後で取り返しがつく行政であるならば、まだ良い。ただ、軍の指揮だけは、任せてはならない。」
馬謖は、劉備の入蜀・・・益州攻めにも、随行した。
益州平定後は、綿竹や成都の県令、あるいは、越巂太守を歴任させ、劉備は、このどちらをも観察した。
益州攻めの際の、軍指揮官としての働き。
県令や太守としての、行政官としての働き。
この2つの働きを観察し、劉備は、彼の才能を見極めた。
馬謖の言葉は、大きく美しい花を咲かせるが、その実を、食べることが出来ない場合が多い。
彼の人材活用は、実務優先である。
「軍の指揮だけは、任せてはならない!」
劉備は、遺言できつく言い含めた。
その言葉を聞いた丞相・諸葛亮は、厳かにうなずいた。
諸葛亮による第一次北伐。
彼が、選んだのは、魏延でもなく、呉懿でもなく、趙雲でもなかった。
涼州防衛の先陣を命じられた将軍は、馬謖。
これを見ると、劉備の人物眼の確かさと、人を用いることの巧みさは、諸葛亮に比べて、大きく勝っていたのは、確かと言えるだろう。