第3話 曹操は、要らない1
西暦208年。
曹操陣営では、本格的な南征が始まり、先発部隊が勝利の報告を届けてきたころであった。
大将率いる本部隊が出立するための最後の準備にバタバタとしたこの時期。
曹操は、宮廷で上段にある椅子に座り、益州蜀に割拠する地方政権の長である劉璋の使者を迎え入れていた。
目の前に立つのは、先刻、曹操自ら書き上げた兵法書を記憶し、暗唱した小男。
彼は、現在、主君である劉璋より預かった書簡を、その高い声で読み上げている。
その声を聞き流しながら、曹操は、自分の威厳を保つためには、使者の小男をどのようにこらしめることが有効か・・・群臣の自分に対する忠誠を下げぬための、その手段を考えていた。
「この小才子、どうしてくれようかの?・・・つっ!」
曹操は、こめかみの付近に、すぅと手をやった。
年のせいか、このところすでに答えの見えているようなつまらない事柄について考えを巡らせると、脈を打つような痛みをおぼえる。
目立たぬようにトントントンと、人差し指でこめかみを軽く叩く。
「あぁ、そういえば、あの男のことを考えている時も、ワシは、このようにこめかみを叩いていたような気がする。」
そんなことを考えながら、曹操は、英明の誉れ高きと称されたあの男のことを思い出した。
◆ ◆ ◆ 孟徳麾下の英俊 ◆ ◆ ◆
男は、幼くして才の片鱗を見せていたことが、知られている。
特に有名なのは、彼が10歳の頃のエピソードだ。
中国の後漢時代の官僚、李膺。
李膺は、鮮卑討伐で目覚ましい活躍を見せ、河南の尹・・・内外の不法を弾劾・奏聞する職に任ぜられていた。
李膺は、みだりに士や客と接触することなく、当代で優れたことが広く知られている英賢や、古くからの知り合いの家柄でなければ、面会を謝絶するよう我が身をいましめており、仮に一見さんが、その屋敷を訪ねても、門番によって排除され、ホイホイと面会などすることはできない。
当時10歳の子供は、この李膺という男に興味を持った。
子供は、まず、彼の屋敷の門番に「私の先祖は、李君の先祖と親しかったのです」と伝え、屋敷の奥へと進むことに成功する。
知り合いたちと歓談中であった李膺は、おかしな子供が来たということを聞き興味を持った。
彼は、座の真ん中に子供を座らせ、これと面会すると、「お客人のご先祖様は、いつどのように、私の先祖と付き合ったのですかな?」と礼をもって丁寧に尋ねた。
子供は、胸を張り「私の先祖は、『孔子』です。あなたの先祖の李・老君・・・『老子』と徳を同じくし、師友の間柄でした」と堂々とした態度で答える。
李膺は、感心して、ほぉっと唸り、同座する人々も、一人を除き嘆息しないものはいなかったという。
しかし、同席していた河南の地の高官・陳煒は、少々違った。
この人物は、河南の名家出身ではあるものの、同座していた中では、一段人物が劣ったと言われている。
彼は、ひとつ、この賢しげな子供をからかってやろうと、口をはさんできたのだ。
陳煒は言う。
「早熟で芳しい神童は、大人になっては、ただの人といいますな。」
子供は、その声に応えて言った。
「なるほど、あなたは、果たして、神童だったのでしょう。」
この言を聞いた李膺は、大いに笑って告げた。
「貴君は、長じれば、必ずや偉大な器となるだろう。」
ああ、確かに、器は、大きかったのかもしれない。
しかし、いびつで、大きさが中途半端な容器ほど、普段使いに困るものは無い。
曹操は、この男のよく回る舌に、たびたび苦い思いをさせられた。
◆ ◆ ◆ 海中より盃中に溺死する者多し ◆ ◆ ◆
ある年、曹操の支配地域において、米不足が発生した。
いや、米不足というよりは、穀糧不足という方が、正確であろう。
流通の問題ではない。
需要に対して、作物の供給が、圧倒的に足りないのだ。
曹操は、禁酒令を発することを決断した。
酒を造る余った穀物があるのであれば、食料として供出させるべきなのは、当然である。
しかし、その建前上の理由をもって、あの男は、問題を引き起こそうとしたのだ。
海で溺れて死ぬ者より、杯の中の酒に溺れる者の方が多い
これが、国を亡ぼす遠因となるため、酒造りを禁止する
曹操は、禁酒令の理由をこのように布告したのである。
穀糧が足りないための布告であることは、皆、理解している。
しかし、領地を支配する政権が、食を満足に供給できないというのは、体裁が悪い。
というよりも、「衣食を満足に与えることができない政権など、存在する意味がない」と、軍にも民にも見放され、敵対する他の群雄からも舐められ、ついには、滅びることになりかねない。
それがための建前・・・皆が理解していたというのは、そういうことである。
しかし、空気を読まず、これに異を唱えたのが、この男であった。
曹操へ書簡を送りつけ、酒の功徳を訴え、飲酒を擁護したのだ。
酒の成す功徳は、長い月日が、証明しております
古代の先人は、天帝・・・天の神をまつり、
国を救うために、酒を用いない日は、ございませんでした
天は、酒旗の星の輝きを、地上に降ろし、
地は、酒を湧出する酒泉の郡を連ねて、
人は、酒の旨みと徳行を世に広く知らせるのです
いにしえの神聖堯帝が、千鐘の酒を飲まなければ、
聖徳を成し、太平の世を打ち立てることは、なかったでしょう
聖人徳を持った孔子も、百觚の酒を飲まなければ、
本物の聖人となることは、なかったでしょう
漢帝国の初代皇帝・劉邦の部下である樊噲が、
鴻門の会合で、主君を救う際に、
項羽から与えられた、生の豚の肩肉を飲み込み、
一鐘の酒を一気に呑み干すことがなければ、
項羽の怒りを治めることは、できなかったでしょう
趙国の雑役が、酒一盃をひくことがなければ、
趙王・武臣を助けることは、できなかったでしょう
漢帝国の初代皇帝・劉邦が泗水の亭長として
酈山に刑徒を送る際のミスで、逃散する際に、
酒に酔って、白帝の子である白蛇を斬らねば、
赤帝の子が、漢帝国を築くことは、できなかったでしょう
漢帝国の第6代、景帝が酔って側室の唐姫を寵愛せねば、
光武帝、劉秀の先祖である長沙定王・劉発は生まれず、
当然、後漢も、生まれることはなかったでしょう
また、文帝や景帝に仕えた直諫の士・袁盎は、甥の袁种に
忠告された通り、呉王に『反逆をおこなわないように』
とだけ言って、日々酒を飲んで、仕事をしなかったために
呉王の愛妾を寝取った罪で処刑される運命を、免れました
漢帝国の丞相・于定国は、
廷尉時代、酒を飲んでいる方が、込み入った案件を正しく裁いたため、
民は、「冤罪を心配することがなくなった」と彼を称えました
楚漢戦争期の儒者、酈生は、酒徒であることを認めながらも、
漢帝国の初代皇帝・劉邦をよく助け、
その建国に著しい功績を残したのに対し、
春秋戦国時代の楚の屈原は、酒粕も食わず
薄酒も飲まなかったのに、懐王に疎んじられ、
絶望から入水自殺し、楚は、秦に滅ぼされました
これら事象から、酒が、必ずしも政治に悪影響を及ぼすとは、言えません
また、曹操閣下のおっしゃられた、夏王朝や殷王朝において、
過度の乱れた飲酒のために災いが発生し、
民心の腐敗もおこり、王朝が亡びたのだというのは、
その教誨の通りだと、私も考えております
しかし、徐国の偃王は仁義を行って亡んでしまったからと、
今、仁や義といった善行を、絶やしたりはしておりませんし、
燕王である噲が、謙虚に譲って、社稷を失ったといえども
謙遜することを、禁じる法は、どこにもありませんし、
魯の国が儒の教えによって損なわれたからといって、
現在の、儒教の学問を、棄てさせたりはしておりませんし、
夏王朝や商王朝が、悪女によって、天下を失ったからといって
男女の婚姻を、断たせたりすることは、ありません
にもかかわらず、曹操閣下は、酒についてだけ、
急いで、それを禁止する法令を布告いたしました
理由は、亡国の戒めということですが、そうではないでしょう
私は、閣下が、
『ただただ、穀物を惜しんで法令を布告した』
そう考えています
言わずもがなの最後の一文。
ズキンズキンと脈打つこめかみを押さえた曹操は、送られてきた男の手紙を、大きな音を立てて破り捨てることとなったのである。