表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

29/41

第24話 馬謖と作者は、巴蛮に怯える1

【投稿予約ミスがありました】

 真夜中に、勢いで第24話途中まで書いたものを

 午前に、第23話として予約していました

 話は、第24話途中までになっているのですが

 本日は、2話連続投稿といたします

【前話-第23話は「差し替え」となっております】

西、孫権との同盟は、盤石。


南部の反乱を平定し後顧の憂いを除いた。


益州西は、外交で、おさえてある。


さらに、益州南は、軍事力にて、おさえた。


その次は・・・


こうして、北伐の準備を整えた諸葛亮は、後主・劉禅に「出師の表」を奉り、羽扇を握りしめ、総指揮官として漢中に駐屯する。


打倒・曹魏。


諸葛亮による北伐が、今、幕を開けることとなった。


 ◆ ◆ ◆ 魏帝・曹叡は、長安に親征する ◆ ◆ ◆


西暦228年春、諸葛亮は、まず斜谷から郿を奪うと大きく周知した。


陽動である。


この陽動作戦、おとりでありながら、趙雲・鄧芝を箕谷に布陣させるなど、念のいったもの。


総指揮官・諸葛亮は、軍の本隊を率い、西より天水郡の祁山を攻めた。


これにより、天水、南安、安定の三郡は、早々に陥落。


南安の部族に至っては、蜀軍を引き連れ、隴西まで進出するありさま。


魏は、長安と河西回廊とが分断されることとなる。


劉備の死後、蜀漢は、北方への軍事行動を起こしていなかったため、魏の宮廷は、孫呉だけを意識し、長安方面の備えが薄く、その隙を諸葛亮に突かれたのだ。


蜀漢軍により、三郡を奪われた魏帝・曹叡は、決断を下した。


まずは、その能力に不安がある長安の守将・夏侯楙を更迭。


そして、ぐるりと周囲を見渡す。


総司令官になり得る人物で、遊ばせている人材はない。


司馬懿は、宛城に駐屯し、荊州と豫州の2州を任され、南部を守る役に就いている。


曹休は、揚州方面軍の総指揮を執っている。


陳羣は、文官であり、このような軍の指揮を執らせるには、不適切。


しかし、諸葛亮が三郡を降したことで、魏宮廷も、その民も、恐慌を起こしている。


これを鎮めるには、それなりの重みをもった司令官を任命しなければならない。


紀元前202年、燕王・臧荼が、漢帝国に反乱を起こした。


紀元前201年、韓王・姫信が、漢帝国に反乱を起こした。


紀元前196年、淮南王・英布が、漢帝国に反乱を起こした。


全ての反乱で、討伐に向かった人物。


それは、漢帝国初代皇帝・劉邦。


曹叡は、これに倣う。


親征し、長安にその軍を駐屯させたのだ。


先年に帝位についたばかりの魏帝親征である。


負けるわけにはいかない。


宗室の筆頭格である曹真には、長安西の諸郡を守らせる。


これ以上、蜀漢軍による侵略地域を広げないためだ。


そして、祁山方面の諸葛亮本隊に対しては、曹操時代から夏侯淵とともにこの方面を担当した歴戦の将・張郃を派遣し反攻に出た。


こうして、曹叡は、万全の策を講じることに成功した。


曹操、曹丕、曹叡と、優れた君主が3代続くことなど、そうそうあるものではない。


蜀漢軍と、諸葛亮にとって不幸であったことは、親征を決意したこの曹操の孫が、曹操や曹丕に劣らぬ英俊であったという巡り合わせであろう。


 ◆ ◆ ◆ 理論、良し!実践、良し! ◆ ◆ ◆


彼は、赤壁後、劉備の荊州支配の際、兄・馬良と共に従事に任じられた。


入蜀にも随行。


益州平定後は、綿竹や成都の県令、あるいは、越巂太守を歴任した。


この入蜀と、県令、太守を務めた際の働きによって、劉備は、彼の才能を見極めたという。


兄に似て、並外れた才能の持ち主であった。


政略・軍略を論じることを好み、その才は、特に諸葛亮に愛された。


あるいは、諸葛亮は、義兄弟であったその兄・馬良の面影を、この才子の中に見ていたのかもしれない。


秀でた彼の才能を愛したのか、義兄弟の想い出を懐かしんだのか・・・


諸葛亮は、劉備の死後、彼を参軍に任命し、昼夜を問わず傍に置き、親しく政策を語り合う。


益州南部、建寧郡の豪族の雍闓らが、南夷の孟獲を誘って蜀漢に謀反を起こした際も、そうであった。


この時、この才子が提案した策こそ、有名な「七縦七擒の軍略」である。


「君とは、長年、帷幕にて策を練ってきた。さて、私に、良計を授けてくれ。」


ニヤリと笑った諸葛亮は、彼をテストするように、益州南部の反乱を平定するための方針を尋ねる。


諸葛亮の試験問題を、この才子は、やすやすと解き答える。


「益州南部は、その道が遠く険しいことから、制圧するに至らず、蛮夷は、漢帝国に服従しようとしませんでした。この度、我々が、軍の力を用いてそれを鎮圧しても、引き上げと同時に、反乱の種が芽を見せるだけでございます。丞相閣下は、曹魏の賊軍を討つおつもりがございます。今後、北へ軍兵を向けた際、益州の兵力減少を南夷が知れば、反乱の芽は、花を咲かせます。南夷を皆殺しにすれば、後禍を除くことは可能ですが、これを早急に成す事は、まず不可能。用兵の道は、心を攻める事を上策とします。丞相閣下は、仁愛と寛容さを以って、蛮族の心を帰服させることをお望みと考えます。『捕えても殺さず、生かし使う。』これこそが、益州南部の反乱を平定する際の方針となりましょう。」


満点の答えであった。


諸葛亮は、軍配をこの男に与え、益州南部平定の指揮を執らせた。


指示は、全て、この男が出す。


諸葛亮は、口を挟まず、後ろでただ見るだけ。


先の問答が、机上の試験だとすれば、今度は、実地試験である。


才子は、この実践においても、満点の答えを出した。


益州南部は、治まり、蜀漢に降る。


また、心を帰服させると言ったこの男の政策により、南部の人心は安定し、再度の反乱を起こす気配は、全くと言っていいほど無い。


理論、良し!実践、良し!


ましてや、この男、亡き義兄弟・馬良の弟である。


これを、使わぬ手はない。


諸葛亮は、歴戦の魏延や呉懿ではなく、この馬氏五常の末子を、敵将・張郃に当てることにした。


その名は、馬謖。字は幼常。


こうして、涼州防衛の先陣を命じられた馬謖は、天水郡の東部に位置する要地、略陽県の街泉亭付近の山の頂に陣を敷くこととなる。


西暦228年、春のことであった。


 ◆ ◆ ◆ 名将・楊阜と、涼州賊・馬超 ◆ ◆ ◆


楊阜、字は義山。


涼州漢陽郡の人である。


その始まりは、馬超であった。


「潼関の戦い」で曹操に敗れた馬超は、西方に逃れた。


しかし、その名声は、彼の母方の羌族をはじめとした蛮夷に鳴り響いている。


楊阜は、長安に親征している曹操に対し、馬超に対する警戒を進言した。


だが、同時期に、蘇伯らの反乱があったため、曹操は、軍をそちらに向ける必要があった。


西の果てに、兵を厚く置くわけには、いかなかったのだ。


結果、馬超は、隴への侵攻を開始し、冀城を除く諸県は、陥落した。


楊阜は、総司令官・韋康とともに、冀城にこもった。


ただ、抵抗むなしく、待てど暮らせど、曹操の援軍は、来ない。


各地の反乱と、都でのクーデター未遂、そして、曹丕・曹植とその側近たちによる後継者争い。


年老いた魏王・曹操は、いわゆる自身の終活で、手一杯であったのだ。


総司令官・韋康は、こらえきれずに降伏しようとしたところを馬超に斬られ、楊阜は、かろうじて逃れたものの、その弟・楊岳は、捕らえられ、人質とされた。


しかし、楊阜は、くじけなかった。


そう、鹵城において、打倒馬超の兵を挙げたのだ。


馬超は、直ちに楊阜を攻撃しようと鹵城へ向かう動きを見せる。


その隙をつき、友軍の梁寛らが、空いた冀城を襲撃した。


こうして、楊阜らは、冀城を奪い返した上、弟の救出にも成功する。


ただ、犠牲も多かった。


人質となっていた楊阜の一族の多くは殺され、楊阜自身も、重傷を負うことになる。


とはいえ、少し遅すぎる夏侯淵や張郃らの援軍の力で、はびこった賊は、撃退できた。


賊軍大将の馬超も、漢中方面に敗走した。


さて、乱の平定された冀城である。


楊阜は、今度は逆に、馬超の残した妻子一族を、恨みのまま全て処刑したという。


 ◆ ◆ ◆ 劉備の漢中攻めと、楊阜の移住策 ◆ ◆ ◆


その後、曹操は、張魯を攻めた。


張魯は、あっさりと降り、漢中の地は、曹操陣営の支配下に入る。


この時、楊阜は、名目上の益州刺史となった後、武都太守に任命された。


なぜなら、益州は、劉備の持ち物となっており、足を踏み入れることすらできないからだ。


こうして、楊阜が、武都に落ち着いたと思った瞬間、始まったのが、劉備の漢中攻め。


守将・夏侯淵の失態により、曹魏は、漢中を失うこととなった。


こうなると、宙に浮くのが、楊阜の治める武都周辺地域。


この場所、劉備の漢中とは近いが、曹魏の勢力圏とは遠い。


つまり、ポツンと孤立することとなったのだ。


以前、曹操は、漢中を陥落させた際に、張郃を南下させている。


張郃に、巴西・巴東を降させ、その地方の住民を、長安北方面に強制移住させたのだ。


ひとたび戦乱が起これば、人が、益州側へと流出する可能性のある地域。


つまりは、劉備陣営にその地の人間がなだれ込む・・・これを、防ぐためであった。


魏帝・曹丕も、父の移住策に倣う。


楊阜に武都周辺の人間を、京兆や扶風、あるいは、天水へと移住させるよう命じたのだ。


この時、異民族・漢族あわせて一万戸が、楊阜の移住策に従うこととなる。


戸籍登録人口が、680万人と言われる時代の一万戸である。


楊阜の統治が、この地域の人たちの信頼を、どれほど勝ち得ていたかが良く分かる話だろう。


彼が、武都に赴任すること十数年、悪事を行う人は無く、この地で反乱が起こることもなかった。


皇帝・曹叡の代になると、彼は、中央に召されて昇進する。


楊阜は、曹叡に対し、彼の華美な服装、大規模宮殿造営などに対し、何度も諫言を行なった。


もちろん、毎回、曹叡がこれを聞き入れたわけではないが、楊阜の忠義を心から信頼する皇帝は、彼を罰することは、一切、無かったと言う。


そうして、彼は、都にて老衰で死すこととなった。


さて、ここで、ポイントとなるのは、曹操や曹丕によって命じられた、張郃や楊阜による移住策である。


天水郡の東部に位置する要地、略陽県の街泉亭付近。


張郃の移住策によって、天水郡の略陽県に巴西より移住した人間、特に、巴西の名士や巴蛮の七姓夷王・朴胡の一族とその郎党、あるいは、楊阜の移住策によって、天水郡の略陽県に武都周辺より移住した一万戸の異民族や漢族。


もう、お分かりだろう。


この北伐の命運を握る「張郃vs馬謖」の戦いは、移住策によって移り住んだ人々が、住む地域で行われたのである。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ