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第23話 劉禅は、天命を譲る2

【投稿予約ミスがありました】

 お昼休みに、画面を覗いてみたところ

 真夜中に、第24話途中まで書いたものを

 誤って投稿していることに、気づきました

【こちらが、第23話の「差し替え版」になります】

五丈原に、秋風が舞う。


劉備の子・劉禅は、英傑ではない。


英傑ではないが故に、その生を全うするだろう。


我が子、諸葛瞻も、英傑ではない。


英傑ではないが故に、その生を全うできないであろう。


自分の死後、最も弱い蜀漢は、最も強い国に飲み込まれる。


劉禅は、見た目以上に器用で、人の意見をよく聞く。


自国を飲み込んだ相手の腹の中で、幸せに暮らすであろう。


しかし、我が子は、才が無いにも関わらず、その性質が、自分に似すぎている。


つまり、不器用なのだ。


不器用ならば不器用なりに、生き延びることを考えられれば、良いのだが・・・


冷たい空気を帯びた風が、ふわりと頬を撫でる。


差し込んだ中秋の月光に包まれ、諸葛亮は、静かに目を閉じた。


 ◆ ◆ ◆ 諸葛瞻と姜維 ◆ ◆ ◆


西暦261年、諸葛瞻は、衛将軍となった。


彼は、丞相・諸葛亮の息子で、劉禅の娘を正妻に迎えている。


そうして、彼の仕事は、外征を続けようと考える姜維をおさえることであった。


しかし、姜維は、歴戦の60歳、諸葛瞻といえば抜擢されたばかりの35歳である。


どこの誰とは名指ししない、仮の話をするとするならば、43歳の新次郎(仮名)に78歳のドナルド(仮名)をコントロールしろといっても、難しいであろうと思われるのと同様、諸葛瞻とって姜維の制御は、難題であった。


それでも、諸葛瞻は、劉禅に近い宦官の黄皓や、同僚で先輩の董厥らに協力を求め、姜維の排斥を試みた。


このころ、姜維は、北伐を行っていない。


諸葛亮に、蔣琬がいたように、姜維には、陳祗がいた。


陳祗が兵站を担当し、李厳のような輩を排除していたのである。


しかし、そのバックアッパーで北伐派の同志だった陳祗が亡くなったことが大きかった。


姜維自身、これまでに敗北しすぎているため、目に見えて人望が陰りはじめ、信頼して兵站を任せられる人物が見つからず、大軍を動かせなくなっていたのだ。


そんな時期に、丞相・諸葛亮の息子で、劉禅の娘婿が、自分の排斥を始めた。


危険である。


費禕が、どこかの降将に、何故か理由は分からないが、刺殺された時と同じことが、自分の身に起こらないとも限らない。


姜維は、脅威を感じて、本拠地に逃げ込んだ。


西部である。


涼州天水出身の姜維は、異民族の羌や氐を慰撫し、涼州方面から陰平郡や隴方面の地域を制圧していた。


ここなら、諸葛瞻の魔の手も伸びない。


こうして、姜維は、万を超える軍兵を率いたまま、成都からは、遠く離れ、漢中からも距離のある沓中と呼ばれる地へと逃れることとなった。


しかし、これが、蜀漢滅亡の分水嶺となる


 ◆ ◆ ◆ 劉禅と譙周 ◆ ◆ ◆


西暦263年、姜維は、魏の侵攻が近いと見て、劉禅に漢中増援軍を派遣するよう上表した。


諸葛瞻や宦官の黄皓は、姜維が自分の兵隊を増やすために、また小細工を始めたと思い、これを握りつぶした。


姜維のこれまでのずるい行状が、祟ったのである。


また、魏の司馬昭が、船を大量に建造し、表向きは呉を討伐するように見せかけて偽装工作をしたことも、この決定を後押ししたのだろう。


黄皓も、諸葛瞻も、魏の侵攻先は、孫呉であり、蜀漢ではないと考えたのだ。


こうして、劉禅には、黄皓から過小に修正された報告がなされ、群臣には、上表の事実すら知らされることがなかった。


しかし、その年の9月、総司令官を鍾会とし、魏の大軍が、漢中へ向かい侵攻して来た。


従来の漢中の防衛法は、魏延が定めた「重門の計」と呼ばれる「諸陣営を交錯させる守備方法」であったが、姜維によって諸陣営は撤去され、「漢城と楽城に兵を集めて守り、益州より援軍が来た段階で、相手を追撃し、殲滅する」というコストを削減した防衛法へと変更されている。


この変更自体は、そこまで事態を悪化させることではない。


問題は、姜維の援軍要請の上表が、無視されていたことであった。


漢城と楽城に、魏の兵隊が群がったころ、ようやく劉禅は、援軍を派遣する。


遅すぎた。


それでも、魏延の「重門の計」が健在であったならば、防ぎえたかもしれないが、援軍頼みの漢中は、実にあっさりと陥落する。


姜維も、間に合わなかった。


こちらに関しては、駐屯地である沓中が、あまりに遠い。


途中、魏軍の別動隊を率いる鄧艾に足止めを受けるという障害もあった上、僻地である沓中から、関城を経て、陽平関と通過し、漢中へと向かうルート自体、急な侵攻に対しては、そもそも無理があったのだ。


「これでは、どうしようもないっ。」


姜維は、漢中を諦め、天然の要害・剣閣に籠った。


剣閣を抜くことは、大軍をもってしても難しい。


魏軍の総司令官の鍾会は、立往生を余儀なくされる。


しかし、67歳の老人が、標高2400メートルの四川の山岳地を命がけの行軍で駆け抜けたことで、事態は一変する。


別動隊3万を率いる老将・鄧艾が、山越えで、要害を飛び越え、江油の地にあらわれたのだ。


諸葛瞻は、まごまごした。


どうしていいか分からなかった。


「ひとまず、安全な場所で、軍容を立て直そう。」


彼は、江油も、涪城も捨て、後ろに退く選択をした。


こうして、鄧艾は、ただで江油と涪城を得ることとなる。


対する諸葛瞻は、成都手前の、最終防衛ライン綿竹に陣を構えた。


最期は、律儀で不器用なその性質を天下にさらす。


彼は、降服勧告の使者を斬り、鄧艾の猛攻の前に大敗、戦死することとなった。


しかし、蜀漢で戦意があったのは、姜維と諸葛瞻だけだったようだ。


鄧艾は、成都に対しても、諸葛瞻に行ったのと同様に、降伏勧告の使者を送った。


これを受け、劉禅は、臣下にたずねる。


「南方へ逃れるか、降伏するか、それとも、孫呉に亡命するか。」


光禄大夫・譙周が言う。


「南蛮の地は、昔、課税されていなかったが、諸葛亮が制圧したのちは、重税を課している上、人狩りをしている。恨みを持たれている可能性はあれ、恩は与えていない。孫呉と曹魏では、大きさが違う。この度、曹魏は、益州の地を得て、さらに大きくなった。孫呉へ向かい臣下の礼をとり、それから後に孫呉が攻め滅ぼされれば、どちらにしろ曹魏に臣下の礼をとることになる。どうせ臣下となるなら、頭を下げるのは、1回で良い。」


劉禅は、この譙周の予言のような言葉に、納得する。


深くうなずいて、降伏を決めた。


西暦263年9月の侵攻開始から、たった3か月後のことであった。


 ◆ ◆ ◆ 譙周と董扶 ◆ ◆ ◆


費禕の死後、姜維は何度も大規模北伐を行い、益州の民は疲弊した。


譙周は、その無謀さを諌めるため、北伐派・陳祗との激しい論戦をもとに『仇国論』を書いた。


北伐は、国に仇する!という論だ。


劉禅は、彼の見識を深く信頼し、譙周自身は、政治に関わろうとしなかったにもかかわらず、何か問題が起こるたびに助言を求めた。


この譙周の才能は、若いころから認められており、誠実で飾り気はなく頭脳明晰といわれたが、不意の質問に上手く答えるような機転はなかったといわれるので、鄧芝に似たタイプだったのだろう。


あるいは、益州には、このようなタイプの才人が、多かったのかもしれない。


家は貧しかったが、勉強熱心で「六経」を精細に研究し、天文にも明るかった。


楊戯でさえ、無名時代のこの若者に対し「我らは、譙周に及ばぬ」と高く評価した。


さて、誰かに「譙周という人間は?」と問われれば、「いわば、綿竹の董扶である。」と答えたい。


綿竹の董扶は、益州に劉焉を招き入れ、また、劉璋の首を劉備のモノと挿げ替えている。


董扶にとって大切なのは、益州の安定であって、領袖ではなかった。


譙周も同じである。


彼にとって大切なのは、益州の安定であって、劉禅ではない。


これまで、この蜀漢の2代目皇帝は、うまくバランスをとってきた。


劉禅が、北伐派を抑え、益州が疲弊せぬよう安定を図っていることを、譙周は、評価している。


しかし、費禕が死んでから、これが崩れた。


皇帝が、北伐派の姜維を抑えるために用意した駒、宦官の黄皓は、むしろ、益州を疲弊させる施策をすすめた。


次に起用した諸葛瞻は、姜維の排斥には成功するものの、兵権を完全に掌握できていないため、漢中や益州本体の防衛力を低下させた。


すでに、成都には、鄧艾の降伏勧告の使者が来た。


譙周も、董扶と同じように、劉禅の首を、この司馬昭の部下のモノに挿げ替える決断をした。


すべては、益州の混乱を治め、安定を図るためであった。


 ◆ ◆ ◆ ノストラダムスと譙周 ◆ ◆ ◆


譙周は、ノストラダムスに似ている。


ノストラダムスは、ルネサンス期のフランス人。


大昔、日本でも流行した予言者でもあり、詩の形で未来について語ったという。


もっとも有名な詩をひとつあげると、これだろう。


1999年と7か月

空から恐怖の大王が来る

アンゴルモアの大王を蘇らせ

マルスの前後に支配するために


私は、寡聞のため、25年ほど前に来日すると言われていた恐怖の大王や、アンゴルモアの大王については、存じ上げない。


しかし、日本でも、江戸期の1800年代に大和国山辺郡に和歌で予言する女性が現れて、その地で流行を起こしたという記録があるそうなので、どこの国でもそのような話は、転がっているのだろう。


そういえば、最後の予言という話も、知られている。


ノストラダムスは、予兆詩で、自身が「ベッドと長椅子との間で死ぬ」ことを予言していた。


その上で、1556年7月1日の夜、彼は、秘書シャヴィニーにこう告げる。


「夜明けに生きている私の姿を見ることはないだろう。」


翌朝のこと。


彼は、予言通り、ベッドと長椅子の間で倒れているのを発見されることになった。


さて、譙周である。


それは、西暦270年のこと。


弟子で陳寿とい名の「うだつのあがらない中年男」が、休暇前の挨拶に譙周の元を訪れた。


「その昔、孔子は72歳で世を去った。私は70歳を過ぎている。次の年を迎えることはない。おそらく、私は、長い旅路に出かけているはずだ。君とは、二度と会うことはない。精進するがよい。」


そんな風に言われた「うだつのあがらないその中年男」は、師匠のその言葉について深く考えず頭を下げ、故郷へと帰った。


譙周は、その年の秋、皇帝・司馬炎により散騎常侍に任命されたが、重病のため拝命することができず、冬に死去した。


自身の予言通り、次の年を迎えることはなかった。


中年男は、後年、ちょっとした本を書く。


あなたが、その書物の頁をめくり、譙周について書かれた評を眺めてみたならば、「彼は、未来を予測する術を得ていた」と書かれているのを見ることができるはずだ。


 ◆ ◆ ◆ 劉禅は、皮肉を嘆じる ◆ ◆ ◆


それは、洛陽の都。


宴席で蜀の音楽が演奏され、蜀錦をまとった美女が、優雅な舞を踊る。


蜀の旧臣は、思わず涙し、袖で顔を覆った。


しかし、劉禅は、笑って美女の舞に手を叩いた。


司馬昭は、それを見て言う。


「貴人に情なし。アレでは、諸葛亮ですら補佐できぬし、姜維では、尚更無理だろう。」


それを聞いた側近の賈充は、さらに悪趣味ないたずらをしかける。


「いかかです?この琴の音と舞は、蜀への想いが溢れるでしょう。」


劉禅に、いじわるな質問をしたのだ。


「いえ、それどころか、都は、楽しいので、成都を思い出すことなど、一切ありません。」


蜀の旧主は、ケロっとした顔で、賈充を気にもせず、舞女に手を振る。


これには、列席していた将たちさえも唖然とさせられ、開いた口を閉じられなかった。


「さすがに、これは、マズいっ。」


傍に居た蜀の旧臣・郤正は、立ち上がり、そっと劉禅に耳打ちして教えた。


あのような時は「父や支えてくれた家臣の墓も蜀にありますので、故国を思って涙せぬ日はありません」・・・そう答えるべきであると。


これを盗み聞いた司馬昭は、再度、賈充と同じことを質問してみた。


劉禅は、「父や支えてくれた家臣の墓も蜀にありますので、故国を思って涙せぬ日はありません」と迷わず答えた。


「それは、郤正殿の考えですね?」


すかさず、司馬昭にそう言われ、劉禅は驚いた様子で、「よくご存じですねっ!」と答える。


もはや、音楽も、舞も一切見ようとせず、このやり取りを盗み見ていた宴席の諸将は、皆、一斉に大笑いした。


そうして、この話は、あっという間に都中に広がる。


「これでは、漢の再興など不可能だ。劉備の「備」は「備える」。劉禅の「禅」は「ゆずる」。すなわち、劉備は、司馬家のために、益州の地を準備し、これを劉禅がゆずったのである。」


人々は、このように噂した。


しかし、話は、これで終わらない。


都の噂を耳にした、劉禅である。


「あそこで私が、涙など流したら、蜀への想いを持つことが露呈し、謀反の疑いをかけられるかもしれない。雷が落ちれば、素直に驚いて箸を落とし、楽しい歌や舞には、笑って手を叩く。それでこそ、我が身が安泰になるというものを・・・郤正も、罪なことをする。いらぬ入れ知恵を司馬昭の大きな耳に届かせたせいで、私ばかりか、父まで民の皮肉の対象になってしまったわ。」


屋敷の奥、誰もいない部屋の中で、そう嘆いて涙したといわれる。

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