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第22話 劉禅は、天命を譲る1

馬上少年過 世平白髪多 残躯天所赦


伊達政宗は、白髪が多くなったことを嘆いたというが、荊州へと逃れた人物は、髀肉を嘆じたという。


ある宴席で、劉備が席を外した。


不審に思った劉表は、その後を追う。


浮かない顔で、夜空の星を見上げる劉備。


「いかがなされた?」


「あぁ、これは・・・私は、若い頃から馬に乗って過ごしました。ところがどうでしょう?この地では、椅子に座ってばかりで、走ることすらまれです。股の肉は、落ちました。馬に乗らないためについた贅肉が、歩くたびに、ぶよぶよと揺れます。私は、年老いた・・・しかし、何の功業も挙げられていない。いま、星を見て、それがなんとも悲しくなったのです。」


つまり、戦場がなく、馬に乗らず、股・・・髀の部分にぜい肉がついたということ。


ただし、文知政治を行い、荊州より戦を無くしたと自負する劉表は、この言葉を聞いて大変不快に思ったようだ。


「この男、荊州の平和よりも、戦を望むのか」と・・・


 ◆ ◆ ◆ 劉禅に、五寸釘を打つ ◆ ◆ ◆


馬商の張世平は、兵を挙げた劉備に、資金提供をした。


劉備の盧植門下時代は、「読書を楽しまず」、音楽、駆馬、派手な服装を好んだというが、その資金も、この馬商から出ていたのではなかろうか。


劉備は、劉表に言う。


「私は、若い頃から馬に乗って過ごしました。」


その駆馬のために用意された名馬などは、馬商が出した最たるものであったであろう。


西暦223年、その子・劉禅が、父の崩御に伴い、17歳で皇帝に即位した。


劉禅は、父とは違い、馬とは縁遠い生活であっただろうと思われる。


宮廷にこもり、諸葛亮に政務を任せて、国を守った。


その退位は、西暦263年であるから「40年間」の治世である。


劉備3年、曹丕6年、曹叡13年、孫権23年、霊帝21年、少帝4か月、献帝31年、司馬炎24年。


劉備の子は、この時代に生きたどの皇帝と比べても、より長く帝位を保った。


諸葛亮、蔣琬、費禕、董允といった臣下に思い切って政治を任せ、君臨すれども統治せずを貫いたのだ。


といっても、ただ、ぼーっと見ていたわけではない。


その時々で、彼は、選択を迫られた。


まずは、諸葛亮と、李厳である。


国是であるとはいえ、大国魏を攻める北伐は、益州を疲弊させる。


蜀を1とすると、魏は10の力。


1が、10を攻めるのである。


国を破綻させずに、北伐を維持し続けた諸葛亮は、見事であったというほかない。


ただ、「なんで、1が10を攻める必要があるの?」という声がなかったわけではない。


筆頭は、李厳であった。


北伐を行うことが、国力を弱め、滅亡への道を進むと考えた彼は、食糧輸送をサボタージュすることで、退却をうながすことを続けた。


第1次北伐、第2次北伐、第3次北伐・・・すべてうまくいった。


皇帝・劉禅の内諾を得て、要求量より少ない補給を続けたのだ。


結果、諸葛亮は、戦を続けることが出来ず、退却した。


馬脚を現したのは、第4次北伐であった。


諸葛亮が、証拠を押さえたのだ。


そのきっかけは、単純なミス。


事情を知らない彼の部下が、「食料は足りているのに、なぜ諸葛亮は、退却したのだろうか?」と、本当のことを、ポロリと漏らしてしまったのだ。


皇帝・劉禅の前で、この部下と、出征前後の李厳の書簡が提示される。


かたや「食料は足りている」、かたや「食糧不足、悪天候での不作、撤退が適当」・・・


大きな矛盾である。


内諾を得ていたとはいえ、皇帝・劉禅に、罪を着せるわけにはいかない。


李厳は、おとなしく罪をかぶった。


ニヤリと笑った諸葛亮は、彼を庶民に落とし、流罪とする。


李厳は、諸葛亮と共に劉備によって後事を託された最重臣のひとり。


この事件によって、一番の政敵を倒すことに成功した諸葛亮は、政治と軍事を一手に握ることに成功するとともに、皇帝・劉禅に対して、釘を刺すことに成功した。


すなわち、「ただ、後を継いだだけの無能が、北伐の妨害、私の邪魔をするな!」と・・・


 ◆ ◆ ◆ 泣いて魏延を斬る ◆ ◆ ◆


諸葛亮が、五丈原に没する。


この時、皇帝・劉禅の元に、2通の手紙が届いた。


「楊戯、謀反する!」


「魏延、謀反する!」


片方は、魏延からの書簡で、もう一方は、楊戯からのモノ。


劉禅は、どちらかと言えば、旧李厳派の引きこもり政策を好んでいる。


うまい具合に、蔣琬、費禕、董允といった臣下も「魏延が、謀反と考えてよい」と言った。


もちろん、忠臣であることは、知っている。


魏延が、劉備に心服し、その子をいかに支えようかと心を尽くしていることを、劉禅は、知っていたのだ。


しかし、魏延は、北伐派である。


諸葛亮の遺志を継ごうとしている。


2択の答えを出すのは、難しくなかった。


劉禅は、泣いて魏延を斬ることで、自身の帝国の安定を図った。


 ◆ ◆ ◆ 楊戯と姜維と文字化け ◆ ◆ ◆


楊戯は、北伐をあまり好まぬが、積極的には反対しないという中間派閥。


しかし、北伐に力を注ぐ姜維については、これを嫌っていた。


ある時、姜維らとともに芒水へと出陣した楊戯は、酒に酔った勢いで姜維の北伐政策を非難した。


漢帝国の再興と北伐は、建前上、蜀漢の国是である。


軍の帰還後、楊戯は、姜維の意を受けた者によって、この発言を告訴された。


楊戯の容疑は、どのようなものであったか?


どこの国とは名指ししない、仮の話として例えるならば・・・


台■は、蒋■石(仮名)の■民党による外来政権で、元は、中■民■である。

本来、中■全土を統治するはずが、毛■東(仮名)の共■党が、大陸全土を押さえてしまった。

共■党という賊がはびこっているので、台■という島だけを実効支配するにとどまっているが、いずれ、中■全土を統一する。


蜀漢は、劉備が受け継いだ正統政権で、今も、健在な漢帝国である。

本来、中華全土を統治するはずが、曹丕の魏が、大陸北部を押さえてしまった。

曹魏という賊がはびこっているので、益州という場所を実効支配するにとどまっているが、いずれ、中華全土を統一する。


 これが、国是というものである。


台■が、中■全土を統一?


蜀漢が、中華全土を統一?



「そんなこと、出来るわけないよ。」



思っていても、そんなことは、言ってはいけない。


建前上、国是を否定することは、劉禅であっても許されない。


いや、蜀漢皇帝であるからこそ、否定できない。


劉禅は、告訴を受け、楊戯を免官し、庶民に落とすことに同意した。


 ◆ ◆ ◆ 蔣琬と費禕 ◆ ◆ ◆ 


蔣琬は、北伐派である。


彼は、サボり魔であった李厳の後を継ぎ、諸葛亮軍への兵站を担当した。


実直な蔣琬は、補給を切らさなかったため、第5次北伐において、その軍隊は、諸葛亮の死去まで問題なく滞陣することができた。


逆に、費禕は、反北伐、引きこもり派閥である。


大将軍となった蔣琬は、幾度となく北伐を計画する。


諸葛亮には、蔣琬が居た。


しかし、蔣琬には、蔣琬が居なかった。


兵站を担当するはずの費禕は、引きこもり派で、いわば、李厳なのである。


有能な費禕のサボタージュにより、ずるずると出兵を引き延ばされた蔣琬は、根本的問題解決を図った。


漢中にて、大将軍府を開府して屯田・・・兵による開墾と持続的農業生産を行ったのだ。


漢中に兵糧供給部隊と備蓄センターを設置できれば、兵站は、短くなり、後方支援役の費禕がなくとも、戦が継続できる。


やっと、出陣の準備が整った。


彼は、姜維に北方から魏を牽制させ、自らは、漢水を下って、上庸を攻撃する計画を立てた。


諸葛亮の役目を姜維が、孟達や関羽の役目を蔣琬が成す二正面作戦を、相手に仕掛けるのだ!


壮大な計画である。


これは、危険だ。


成功すれば、リターンは、大きいが、失敗すれば、自身の帝国の崩壊に繋がりかねない。


劉禅は、珍しく動いた。


「父・劉備も、漢水を下って戦った。この時、夷陵から漢水の流れに逆らっての退却、撤退の困難さに大きな苦労をしている。その意気は良し。ただ、もう少し、細かい計画を詰めるまでは、計画を許可できない。」


鶴の一声であった。


劉禅の命令により、蔣琬の計画は、中止された。


 ◆ ◆ ◆ 費禕と姜維 ◆ ◆ ◆


費禕は、蜀漢がジリ貧になることは、理解していた。


今ですら、魏のほうが、国力10倍なのである。


これから、格差は、どんどん開くであろう。


しかし、どのくらい開いても、漢中を押さえて蜀の天嶮の利を生かせば、荊州・揚州に同盟国・孫呉がある限り、100年くらいは、持ちこたえることができると考えた。


100年もあれば、曹魏のほうが、内部で問題を起こし、崩れる可能性も大いに期待できる。


国力格差により、曹魏が蜀漢を飲み込むか?


天嶮の利により、守り切った蜀漢が、内部崩壊した曹魏を突くか?


彼は、未来に運命を託す選択を選び、劉禅もそれを支持した。


良く言えば、長期的戦略。


悪く言えば、現状維持の先延ばしであった。


姜維は、涼州天水郡冀県出身の軍人。


天水郡の四姓と呼ばれる豪族の出である。


豪族の出で軍人である彼は、故郷である涼州、隴を取り、そこから長安を狙いたかった。


父親が天水の副長官であった馬騰は、劉焉と組んで、長安を攻撃した。


今回、姜維が馬騰であり、劉禅が劉焉である。


蔣琬の漢中屯田により、兵站の道筋はついている。


しかし、姜維は、張郃でもあった。


政治力の欠如で、大規模出兵を阻まれたのだ。


費禕が、1万人程度しか、兵隊を渡してくれない。


出来ることと言えば、局地戦やゲリラ戦。


費禕は、姜維に言う。


「諸葛亮でも成し遂げなかった北伐を、私たちで成功させるのは、難しい。」


兵数の多い戦争は、曹魏も警戒するから、成就しにくい。


諸葛亮でさえ、無理だった。


しかし、少ない兵数での局地戦ならば、相手に警戒されず、その地域の異民族を取り込んで、緩やかな蜀漢の勢力圏を形づくることが、できる。


そっちの方向で行きましょう。


費禕からすれば、1万人程度の兵数を準備して、こんなメッセージを送ったつもりだった。


けれども、姜維は、こう考えた。


「劉禅の支持を得た費禕がいるから、戦が出来ない」と・・・


辺境の地より帰順した郭循。


この人物、姜維が、果ての地・西平を攻めた時に得た涼州の人間である。


西暦253年、費禕は、死去する。


死因は、刃物による刺殺。


大量の血が循環器系から失われ、心臓も酸素を臓器に送れない。


失血死であった。


暗殺犯の名は、もちろん郭循。


そして、費禕の後を受けて軍権を握った人間。


この人物こそ、蜀漢最後の大将軍・姜維であった。

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