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閑話 劉備は、人徳を備う

幽州涿郡涿県の出身。


祖父は劉雄、父は劉弘。


聞いたことが、無い名前だ。


貧しい家に生まれたため、母と共に、筵を織って生計を立てていた?


って思ったら、 違う。


吉川作品を読んだ小学生の頃、私は、彼の子供時代を、秀吉と同じ環境でイメージしてたのに・・・それは、間違いだった。


祖父は、兗州東郡范県の令。


父も、州郡の官吏。


実は、小豪族で、地域のまとめ役。


幼いころに父が亡くなって、ちょっと没落しちゃったから、内職をしてただけ。


叔父の劉子敬、あるいは、従叔父の劉元起が、代わりに小豪族として、劉家を取りまとめていたと思われる。


その従叔父・劉元起の紹介で、名士・盧植に弟子入りする。


ただ、盧植は、九江太守、廬江太守、皇帝の傍に仕える議郎・・・官職を忙しく転々としているので、幽州涿郡に居る期間は、無に近い。


たまに、帰郷する程度だったのでは、なかろうか?


これでは、師事したといっても、数回、顔を見た程度だろう。


むしろ、ここで出会った公孫瓚や高誘、牽招などの人脈のほうが、彼にとって宝となったはず。


公孫瓚は、後に、鮮卑や烏桓討伐に活躍し、幽州北方に割拠する群雄の一人になる。


高誘は、曹操に仕え、「淮南子」や「呂氏春秋」の注釈で歴史に名を残す。


牽招は、袁紹の下では烏桓対策、曹操の下では漢中征伐と平定、曹丕の下では鮮卑の慰撫と監督をし、漢族・異民族を問わずに帰順する者を受け入れ農地開発を指導し、人の定着と食料問題解決をはかるとともに、軍事では、反乱を引き起こす軻比能を撃破するという万能型の名将。


彼は、公孫瓚と高誘らに対して兄事し、たいへん可愛がられた。


また、牽招とは、刎頸の交わりであった。


盧植門下となった彼を、傑物と考えたのは、兄弟子や刎頸の友ばかりではない。


豪商も、彼を見過ごさなかった。


馬商人の張世平は、彼が義兵を挙げた時、馬と資金を提供し、パトロンとして彼をバックアップした。


また、西暦191年、賊軍に撃破され敗走した彼に、手を差し伸べたのは、中郎将・公孫瓚であった。


後に、彼が、平原の相となったのは、公孫瓚の推薦のおかげである。


西暦198年、徐州の呂布に攻められ、逃げる劉備を受け入れるための取次となったのは、曹操配下の高誘であった。


その後、恩人・曹操を裏切ったため、彼は、曹操に攻め込まれ、追い立てられる。


逃走した彼は、袁紹の元を目指した。


この陣営では、牽招が、一定の地位を築いていたのだ。


劉備。字は、玄徳。


そう、これは、後漢末期から三国時代の英雄で、蜀漢の初代皇帝の物語・・・


・・・を書きたかったけれども、お話にならなかったので、閑話を書いてみた。


 ◆ ◆ ◆ 中山靖王・劉勝 ◆ ◆ ◆


劉備は、漢帝国の景帝の九男、中山靖王・劉勝の末裔という。


景帝の後を継いだのが、十一男である武帝・劉徹。


匈奴討伐、南越の制圧、衛氏朝鮮の制圧、シルクロードの開拓、中央集権をすすめ、この武帝が、前漢の最大版図を築いた。


武帝の治世は、必ずしも栄光と繁栄の時代と言えるわけではないが、武帝の成果も、景帝の血の価値を上げた。


そして、極めつけは、景帝の七男、長沙定王・劉発。


彼の子孫こそ、王莽に簒奪され一度ほろんだ漢王朝を再興し、中華を統一。


後漢帝国をうち建てた 光武帝・劉秀、その人である。


ということで、景帝の血を引くことは、特別な意味を持つものであった。


ただし、家康が、源朝臣と称していたように、それを称することと、景帝の血を引くことは、また別である。


ただし、盧植門下となった劉備が、周りの人間にこれを否定されていないことを考えれば、中山靖王・劉勝の末裔と自称しても、「なるほどっ」と、人に思わせる何かが、劉備にあったのだろう。


実際、非常に仁義に厚い人物とされており、恩人かつ同宗の劉表を裏切ることができず、「我、忍びず」の一言で荊州奪取をあきらめて、諸葛亮を困らせたり、あるいは、劉備ただ1人陶謙の救援に向かうなど、後年の行動を見ても、高祖・劉邦を思わせるような言動が見て取れる。


まぁ、盧植門下の学生時代は、「読書を楽しまず」、音楽、駆馬、派手な服装を好み、若い人の面倒をよく見たというから、 仁義に厚い任侠の人といった部分が、あったのかもしれない。


 ◆ ◆ ◆ 任侠の人 ◆ ◆ ◆


黄巾の乱の鎮圧で功をあげた劉備は、中山国安熹県の尉に任じられる。


いわば、町長さんである。


しかし、上位者である郡の監察官が、公務で安熹にやって来た際に、面会を断られたのに腹を立て、そのまま宿泊場所に押し入ると、この監察官を縛りあげて杖で数百回叩き上げた挙句、任じられた官職の印綬を、彼の首にひっかけて、官を捨てて逃亡した。


どうやら、態度が、気に食わなかったらしい。


町にやって来た会計検査院の検査官に手土産をもって挨拶しに行ったら、「調査前に面会というのは、不正を疑われますから無理です」と断られ、SNSで映像を公開して、辞職する。


うん、そう考えると、すさまじい人間性だ。


しかし、平原国の相となった時には、たびたび賊の侵入を防ぎ、その地の人々に感謝されたという。


また、特筆すべきは、身分の低い士人を差別しなかったので、民心を掴んだという点。


これこそ、人徳である。


ただ、関羽にも言えるのだが、上に厳しく、下に優しい。


そうして、監察官リンチ事件を考えた場合、彼の「良し」とするものは、理屈より感情が優先されることが多かったのではないかと思われる。


そう考えると、彼を、任侠の人と考えるのが、やっぱり正しいのかもしれない。


 ◆ ◆ ◆ 裏切り者の人徳 ◆ ◆ ◆


彼の「良し」とするものは、理屈より感情が優先されることが多かったのではないか?


曹操は、彼を厚遇した。


車を出す時には、同じ車を使い、席に座る時には、自身と同格に彼を置いた。


そうして、歓談の際は、「天下の英雄は、貴公と私のみ。袁紹の如きは、端役でしかない。」と彼を持ち上げた。


異例の扱いである。


才能を愛する曹操は、劉備の人を見て、これを遇するべきであると考えたのであろう。


能力は、悪くない。


その上、形姿が、素晴らしい。


身長181センチの体躯で、腕が、膝に届くくらい長く、耳は、とても長い福耳。


徳者の風貌である。


何より大事なのが、彼の血筋である。


前漢の景帝の九男、中山靖王劉勝の末裔。


北に袁紹、西に呂布、南に袁術、それに劉表。


献帝を擁するとはいえ、その頃の曹操の地位は、決して安泰と言えるものではない。


しかも、曹操は、宦官の孫である。


景帝の血を引き、英雄のカリスマ性と名声を有する劉備が、曹操を支持することは、思っている以上に彼の統治に影響を与えるものだったに違いない。


ここで、劉備の性質がポイントになる。


「車を出す時には、同じ車を使い、席に座る時には、自身と同格に彼を置く。」


なぜか、曹操は、このような異例の扱いをした。


これは、人物鑑定に優れた曹操が、劉備の「理より情を優先」という本質を見抜いていたからだと考えられる。


能力的には、ほぼ全てにおいて、自分の方が、上回っているであろうことは、曹操自身、良く分かっている。


地位も、権力も、軍事力も、目に見えるパワーは、当然、曹操の方が、上である。


そんな曹操が、彼のことを自分と同様に扱っている。


「どう?私は、あなたのことを、こんなに大事にしてるんだよ?」


理ではなく、劉備の情に訴える、曹操のアピールなのだ。


さて、「貴人に情無し」が、当てはまるのか?


それとも、「底が浅く見え透いた作戦」だったのか?


「貴人に、情無し」であれば、劉備は、人でなしである。


「宦官の孫が、なんか、接待してくれているけれども、当然だよね?ぼく、劉備だもの。」


彼が、そう思っていたことになるからだ。


逆に、曹操のやり方が、「底が浅く見え透いた作戦」と感じたのであれば、劉備は、策士である。


自らの価値。


それを高めて自身の力を大きくする、または、周りに対して大きく見せることに成功しているのだから。


曹操の弱点を知り、自分は、「その弱点を埋める有力な大駒ですよ。」とアピールしたと言えるだろう。


曹操は、呂布に追われ、敗走した自分を助けてくれた恩人である。


しかし、劉備は、この恩人を裏切って離反する。


この時の劉備を後押ししたのが、「最高権力者の曹操ですら、劉備を自らと同格の人物として扱った」という事実であった。


名声は、力であり、何も知らずに評判だよりで人を見る者からいわせれば、その人の徳である。


曹操からみれば、恩知らずの裏切り者、劉備。


ただ、皮肉なことに、周りより見えるその人徳をより大きくしたのは、曹操その人であった。


 ◆ ◆ ◆ 理より情 ◆ ◆ ◆


糜竺、孫乾、魏延、馬良、伊籍。


この人たちは、無理に劉備に付き従わなくとも、どうにかなった人たち。


曹操でも、孫権でもいい。


それなりに厚遇されただろう。


理屈で考えれば、曹操が強大である。


曹操を嫌うなら、孫権の元に走ればいい。


なにも、土地を持っていない放浪の劉備を選ぶ必要はないのだ。


しかし、彼らは、劉備の傘下に入った。


と、考えると、糜竺、孫乾、魏延、馬良、伊籍たちも、理屈より感情の人だったのでは、なかろうか?


理屈じゃなく、任侠の人・劉備のダメな行動も含めて大好きで、付いていく。


きっと、この人たちは、裏切らないし、劉備も、この人たちを大切にする。


関羽を殺された。


理屈では、それでも国賊・曹魏を討つのが正しい。


でも、劉備にとっては、関羽の仇討ちが優先で、孫権軍に攻め込む。


たぶん、ほとんどの人が、劉備が「間違った行動をしている」と思っているけれども、劉備は、「任侠の人だから、仇討ちをやめられない」し、理より情で、任侠の人である劉備だから、失敗しても、「任侠の部分から出た行動なので、しかたがない」と、配下のほとんどの人が、目をつぶる。


「得」な性質だと思うし、これこそが「徳」だと思う。


 ◆ ◆ ◆ コーポレートガバナンスと過労死 ◆ ◆ ◆


陳羣。字は長文。


豫州潁川郡許県の人。


魏において、特に曹丕、曹叡の時代に、法整備を行った。


彼が中心になって制定した九品官人法は、隋の時代まで残ったのだから、どれほどのモノかというのが分かる。


曹丕時代、陳羣と司馬懿が、政権を支える中心となった。


陳羣は、法治国家としての魏帝国の基礎を作り、司馬懿は、曹丕にとって、諸葛亮の片腕で後継者ともなった蔣琬のような役割をした。


そして、劉備にとっての陳羣は、諸葛亮であった。


理より情の劉備に対し、情より理を優先してくれる諸葛亮は、法治国家を形作るうえでは、必要不可欠。


一定の大きさになった勢力は、鶴の一声での決定だけでは、ダメなのだ。


ルールに基づいたコーポレートガバナンスが必要になる。


自分には、荀彧も陳羣も居ないことに気づいた劉備は、荊州の客人であった時代に、諸葛亮を招聘した。


ガバナンスを敷くために呼んだけれども、たぶん、劉備が個人的に好きなのは、諸葛亮より、法正。


益州攻めでも、諸葛亮は、関羽の傍に置いてきた。


戦場は、法正の話を聞きながら鶴の一声で進めて、手に入れて間もない荊州は、諸葛亮が、ガバナンスをきかせてね!といったところか?


そう考えると、「諸葛亮の才能は魏の曹丕の10倍ある。劉禅が、皇帝としての素質を備えているようならば、補佐して欲しい。劉禅が暗愚であったなら、これに取って代わって諸葛亮が皇帝となれっ!」という遺言は、面白い。


「諸葛亮さん、今、皇帝代行の仕事をしている君は、簒奪が可能な地位だけど、法治国家を作ろうとしているあなたが、まさかトップになろうとなんて思っていないよね?君に臨むのは、国のガバナンス。皇帝になろうなんてとんでもない。劉禅の補佐を頑張って、蜀漢帝国を保ってね!」というメッセージが透けて見える。


実際、諸葛亮は、そんな冒険にでることもなく劉禅を補佐した。


名臣である。


まぁ、悪くすれば、あっさり滅ぼされる可能性のある蜀漢帝国の皇帝になるより、政権トップで企画運営を思う存分楽しむ方が、皇帝になるよりも、危険が少ないという理由もあったかもしれないとは思うが・・・


さて、諸葛亮は、法正、劉巴、伊籍、李厳を中心に、蜀科と呼ばれる法制度を作って施行している。


このすごい所は、陳羣が中心になって作る魏の法制度・魏律が施行されたのが、西暦229年だということ。


伊籍は、分からないけれども、法正と劉巴の2人が、西暦229年よりだいぶ前に死んでしまっていることから、おそらく、蜀科は、劉備生存中に制定されている可能性が大きい。


うん、諸葛亮の法整備能力は、陳羣のそれよりも、高かった・・・かもしれない。


曹丕配下のミニ孔融たちに邪魔されなければ、陳羣も早く施行できたかもしれないから、実際にはどうか分からないけれども・・・


そして、諸葛亮は、後年、司馬懿が請け負う軍事行動も、担当することとなる。


陳羣の役割と、司馬懿の役割・・・2人分の仕事をこなし、五丈原では、鞭打ち20以上の処罰を自身で決裁する。


最後に行われた第5次北伐。


諸葛亮の過労死は、対陣する司馬懿ならずとも、予想できたものだっただろう。

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