第21話 張郃、コペルニクス的転回2
老将の名声は、敵味方関係なく轟いている。
臨機応変の策に通じ、よく兵を統率し、地形、天候、全てを手の内に入れ、その戦術が外れることは、皆無であった。
武将でありながら儒学を愛し、学問でも、士大夫より尊敬を集めた。
彼に、不足していると言われたのは、政治的な立ち回りだけであった。
◆ ◆ ◆ 官渡、コペルニクス的転回 ◆ ◆ ◆
曹操軍と袁紹軍のにらみ合いは、しばし続いた。
寒さが兵たちの体に少し堪えるようになった10月、佳境に差し掛かった戦いに、やっと分水嶺が訪れる。
献策を退けられ、袁紹の優柔不断に嫌気がさした参謀・許攸が、曹操陣営に投降したのだ。
彼は、曹操に告げる。
「烏巣の地に、守備が手薄で、将の能力が低い輸送部隊が、兵糧を大量に抱え込んでいる。」
曹操麾下は、この許攸の発言を疑ったが、軍師・荀攸が、これを奇貨と見た。
結果、曹操は、許攸の意見を採用することとなる。
荀攸、そして曹操も、「例え、これが嘘で、相手の奇計であったとしても、現状の不利を考えた場合、このままでは、逆転の目がないので、どちらにしろ同じ」と判断したのかもしれない。
決断後の動きは、早かった。
曹操自ら精鋭5000を指揮し、烏巣にある淳于瓊の兵糧輸送部隊を奇襲することとなったのだ。
袁紹の元に、急報が届くっ。
烏巣が襲われたことを知った袁紹の幕下は、その意見が割れた。
軍師・郭図は、「曹操と5000の精鋭が抜けた対岸の本陣は、曹洪が守将で、破ることが、たやすい。これを突くべきである」と主張した。
これに張郃は、反対する。
彼は、「これほど時間をかけても、攻め落とせていないことを考えてください。敵陣は、堅固で速戦では勝てません。それよりも早く淳于瓊と兵糧部隊を救援するべきです。」と進言した。
「機を見て即断する」という能力にやや欠け、その上「バランスを取ろうとする」のが、袁紹の特徴である。
その上、彼は、名家のお坊ちゃんでもあった。
そうして下された命令・・・
両者採用。
郭図と張郃、ともに意見が採用されたのだ。
この時、軽装の騎兵隊をもって烏巣へ進軍させられたのは、郭図の縁者であった。
淳于瓊の救援である。
曹操軍本陣強襲・・・曹洪への攻撃は、張郃が担当することとなった。
先ほど、張郃は、「堅固な本陣を破るのは、無理」と主張している。
易々とこれを破ってしまえば、郭図が正しく、自分は、誤った発言をしたと証明することとなる。
張郃は、それでも、前に進んだ。
矛盾を抱えながらも、敵陣を激しく攻撃する彼の前に、先に曹操陣営に投降した許攸が現れる。
「袁紹は、献策を採用する能力がないっ。曹操は、投降してすぐの者の声でも、その意見を正しいとみるや、採用し、烏巣を攻撃した。君が、どちらの麾下に入ると幸せであるかは、一目瞭然であるっ!」
張郃の目から鱗が落ちた。
彼の頭の中に「暗愚であれば、主を替える」といった考えは、存在しなかったのだ。
この許攸の説得が、影響したかどうか?
結果、張郃は、袁紹を見限って曹操に帰服し、烏巣の淳于瓊は敗れ、糧米を焼かれる。
張郃にとって、まさに官渡は、コペルニクス的転回であり、この戦は、彼の人生にとっても、大きな分水嶺となった。
◆ ◆ ◆ 韓遂と馬超 ◆ ◆ ◆
涼州は、霊帝の時代ころから、羌族や氐族の反乱が頻発する。
辺章などの諸将がこれに同調、後漢帝国が任命した官人は、殺害され、混乱状態にあった。
そんな中、台頭したのが、韓遂と馬騰の勢力。
このころの中国は、各地で反乱が頻発。
これに、霊帝没後に起こった、董卓や李傕らによる中央の混乱も重なったため、彼ら辺境勢力を武力制圧することは、現実的に困難であった。
事態を憂慮する曹操は、長安より鍾繇を派遣する。
この説得が功を奏し、韓遂と馬騰の両者は、曹操に人質を差し出して帰順。
馬騰は、一族を引き連れて都へと移り、涼州では、その子・馬超が、軍兵の指揮を執ることとなった。
西に残るは、韓遂と馬超。
戦役は、ふたりの武将が、共に兵を挙げたことから、始まった。
◆ ◆ ◆ 夏侯淵と西方征伐 ◆ ◆ ◆
潼関の戦いが起こったのは、西暦211年。
場所は、都のはるか西。
長安を超え、涼州や雍州一帯が、その戦場であった。
3月、曹操は、夏侯淵やその麾下の張郃に命じて、漢中の張魯を討伐すると号令をかけた。
曹操の真意が、漢中であったのか、それとも、韓遂と馬超であったのか?
それは、分からぬが、この動きに反応し、涼州や雍州一帯の諸将、いわゆる関中軍が挙兵する。
反乱軍の韓遂と馬超が差し出していた人質は、ことごとく殺害され、馬超の父・馬騰も、斬られることとなった。
7月、曹操自ら西征し、潼関を挟んで関中軍と対峙する。
激戦であった。
曹操軍の戦死者は、万を超え、戦は、どちらが勝ったと言うに言えない状況。
この年の秋、馬超と韓遂という2大巨頭の反目で、関中軍が分裂しなかったならば、曹操は、かろうじて勝利宣言することすら、出来なかったかもしれない。
結果として、馬超は、南・・・漢中の張魯の元へと逃走し、韓遂は、西・・・果ての地にある西平に逃れて死亡した。
そして、この潼関の戦が、張郃の運命を決める。
馬超らの没落後、西部制圧を命じられたのは、夏侯淵や張郃であった。
夏侯淵を司令官とし、西征がはじまる。
北方の生まれで、西に縁も無かった張郃の活躍の場は、これより後、中国の西部地域へと移ることとなった。
◆ ◆ ◆ 異民族の移住 ◆ ◆ ◆
「総司令官自ら、修復に向かうとは、戦の理に反している。なんということを・・・これでは、せっかく慰撫したこの地も捨てねばならぬわっ。」
張郃は、声を荒げた。
夏侯淵、死す
その知らせを彼が聞いたのは、走馬谷の東の陣であった。
曹操は、漢中の張魯を下すと張郃を南下させる。
彼に、巴西・巴東を降させ、その地方の住民を長安北方面に強制移住させることにしたのだ。
また、漢中の住民も、北へ・・・長安方面へと移住させた。
人狩りである。
後漢末期の混乱による人口減少は、どの地においても、頭を悩ませる問題。
孫権は、江夏で人狩りをし、舒城・長江北岸の住民を移住させ、また、山越の民を呉の戸籍に編入した。
諸葛亮は、南部からベトナム方面の平定で、異民族の財と人を徴発し、これを蜀軍に編入した。
さて、曹操である。
巴西・巴東、あるいは、漢中の民は、いわば国境の人間。
ひとたび戦乱が起これば、益州へ流出・・・つまりは、劉備陣営になだれ込む。
自国は、人口が減少し、敵国の人口が増える。
人の数は、国力である。
これでは、それに大きな差分が、出てしまう。
それを解決するには、どうすればよいか?
つまり、この地で張郃に課せられた任務は、巴西・巴東における有能な人材を曹操陣営に引き込むとともに、巴蛮と呼ばれる異民族を、集団で長安方面へ移住させることであった。
移住目標は、ほぼ、完了させた。
あとは、漢中の慰撫を続け、領民の心を曹操陣営が確実につかむことに集中する。
その段階で、夏侯淵が、敗死したのである。
◆ ◆ ◆ 定軍山の修復部隊 ◆ ◆ ◆
蜀将・黄権は、相手の司令官・夏侯淵では、漢中を守りきる力は無いとみて、劉備に漢中攻めを進言した。
西暦217年のことであった。
勢いをもって攻め寄る益州軍を、曹操軍は、良く守った。
曹洪は、異民族である氐の力をうまく使い、張飛と馬超を敗走させ、雷銅や呉蘭を斬った。
徐晃は、馬鳴閣を塞ぐ陳式の部隊を壊滅させ、これを敗死させた。
しかし、本隊が、良くなかった。
夏侯淵である。
西暦219年、劉備本隊が、定軍山に進出。
夏侯淵は、すぐさま、これに反応し対陣する。
まず、狙われたのは、張郃であった。
張郃1部隊が守る陣に対し、10部隊もの将兵を使って、劉備が多重の夜襲をかけたのだ。
「張郃、危うしっ!」
夏侯淵は、指揮下の軍兵を救援に向かわせる。
王手、飛車取り
黄権がたてた計略であった。
夏侯淵と張郃は、相手に、玉と飛車の両取りをかけられた状態となっていたのだ。
張郃を攻め、救援により手薄になった本陣を、黄忠・法正の部隊が突くこの計画。
法正より策を授けられた黄忠は、夜のうちに、まず、夏侯淵本陣から南に5~6キロ離れた場所に作られた木製バリケードを焼いた。
竜の歯とも呼ばれるこの連続したバリケードは、特に騎馬を運用する部隊を阻害する効果が高い。
これを焼かれるつらさは、虫歯の痛みに似ている。
命に別状はないが、そこからの敵の侵入を常に意識させられるのだ。
夜の奇襲である。
翌朝には、黄忠部隊の姿は無い。
夏侯淵には、即断即決の傾向があった。
彼は、今のうちに、修復を・・・と、決定を下す。
しかし、ここで出たのが、彼の悪癖。
自ら、数百の兵を率い、バリケード修復部隊の指揮を執ったのだ。
「総司令官自ら、修復に向かうとは、戦の理に反している。なんということを・・・」
張郃は、声を荒げた。
法正に、この悪癖を見抜かれていた夏侯淵は、周囲に兵を伏せて隠れた黄忠に、なんなく首を取られることとなったのだ。
司令官を失った夏侯淵本隊は、浮足立った。
ここで、敗残兵をまとめたのが、張郃である。
幕僚の郭淮や杜襲に推され、彼が、臨時の総指揮をとることとなった。
するとどうであろう。
陣鼓を鳴らすだけで、兵士の動揺は、ピタリと収まり、劉備軍の追撃に対し、逆に損害まで与えたという。
「張郃、まさに名将。大魚を討ち取ったものの、一番の大物は、逃がしたわっ。」
漢中に入った劉備は、ボソリとつぶやいた。
◆ ◆ ◆ フクロウの羽 ◆ ◆ ◆
鶏肋とつぶやいた曹操が、漢中を諦めて、10年を超える月日が経った。
夏侯淵の死後、長く戦線を共にした大司馬・曹真も逝った。
自分は、今もなお、益州・蜀からの侵略を防ぎ続ける仕事をしている。
相方は、驃騎将軍の司馬懿。
先帝・曹丕の寵臣で、博覧強記・才気煥発。
優秀な人物が揃う、河内司馬八達の中でも最も優れた人物と言われている。
曹操の親衛騎兵隊を「虎豹騎」と呼んだが、この司馬懿も親衛騎兵隊を連れていた。
その名も「梟鵂騎」。
兵士全員が、肩口に、大きなフクロウの羽を刺していることから、そう呼ばれているが、おそらくは、体を真正面に向けたまま、首を回し、真後ろを振り向く司馬懿をフクロウと呼ぶことになぞらえた呼称であろう。
さて、この地で我ら魏軍が防ぐのは、益州・蜀からの侵略者、諸葛亮である。
彼が、指揮を執る蜀軍が、またもや祁山に進出してきたのだ。
祁山の戦いは、これで4度目。
もはや、ルーティーンは、決まっている。
街亭の山上に陣を構えるような奇策は、張郃にとって必要ない。
秦嶺を超えた蜀の遠征軍が攻め、張郃が守り追い返す。
ただ、それだけである。
はたして、諸葛亮は、退却を始めた。
遠征における食糧補給の難が、原因であった。
「追撃せよっ!」
驃騎将軍の司馬懿が、この軍の総司令官。
「追い返すだけで十分では?」
張郃の意見は、通らなかった。
年老いた名将は、経験則で知っている。
自身の意見が通らない時は、良いことが起こらない。
慎重に行動しなければならない。
彼は、退却路を確保しつつ、用心を重ねて諸葛亮の軍隊を追った。
予想通りであった。
木門という地の隘路にさしかかったところで、伏兵があったのである。
「まぁ、そんな所よの。退却だっ!兵を引け!!」
つぶやいた後、大声で命令した張郃の目に飛び込んできたのは、確保しておいたはずの退却路に崩れて落ちて来る大岩。
崖上からは、矢がこれでもかと降りそそぐ。
「くっ・・・これは・・・」
張郃の右膝を、矢が貫いた。
馬が足を折り、体は、放り出される。
地面に投げ出され、天を仰いだ張郃が見たもの。
それは、ふわりと舞い落ちて来る大きなフクロウの羽であった。
後に南宋時代の胡三省は、言う。
「有能は、必ずしも美徳ではない。張郃の死で、司馬懿は、息をついたであろう。」
曹操時代から功を積み重ねてきた老臣の死は、魏帝国の驃騎将軍・司馬懿の立場を安泰にした。
西暦231年。
臨機応変の策に通じ、士大夫より尊敬を受け、政治的な立ち回りの才覚を欠いたこの名将は、その生を終えた。