第20話 張郃、コペルニクス的転回1
自身の意見が通らない時は、あまり良いことが起こらない。
年老いた名将は、経験則で、そのように考えている。
これまでも、周囲の勘違いによって戦死しそうなところを2回ほど乗り越えてきた。
3度目の危機。
おそらく、この作戦は、危険である。
慎重に行動しなければならない。
馬に乗り、麾下の将に指示を出す。
西暦231年、彼は、退却する諸葛亮軍追撃のため、祁山に向けて兵を進ませた。
◆ ◆ ◆ 反董卓連合 ◆ ◆ ◆
韓馥。字は文節。
豫州潁川郡の人である。
御史中丞を務め、都で実権を掌握した董卓から冀州牧に任じられた。
州牧となった彼は、広平の沮授を騎都尉とし、河間の張郃を司馬に任命した。
この冀州の中にある郡、渤海の太守が、袁紹であった。
袁紹は、豫州汝南郡の名門で、後漢時代に四代にわたって官職最高位の三公を輩出した汝南袁氏の直系である。
董卓が、韓馥を冀州牧に任じた目的は、元々は袁家に仕えた役人であった彼に、袁紹を監視させることであった。
涼州より軍を率いて都に入った董卓にとって、自分に反抗する大きな勢力の旗印となることが予想される名門の袁紹は、危険で、目障りな存在であったのだ。
袁紹は、威厳がある風貌で、快活な性格。
名門出身だが、表面は、謙虚でもあったため、大勢の士大夫より慕われていた。
同世代の汝南袁氏としては、袁術がいた。
袁紹の従兄または、異母兄と言われ、後年、宗族の長の座を争った。
この汝南袁氏勢力二分は、袁家にとって不幸であっただろう。
さて、その袁紹と袁術である。
仲は悪かったが、それでも袁家の人間として、表向き協力する場面も見られる。
それは、反董卓連合。
曹操祀文の一文
「故の太尉橋公は、しばしば明徳を誕わし、汎く愛し博く容れた。」
ここで言う「太尉・橋公」は、後漢時代の名士・橋玄のことである。
橋瑁という橋玄の子の世代の縁者が、董卓に反抗して挙兵した際に、袁家兄弟も連合して加勢した。
橋瑁は、三公の文書を偽造し、各国に配布。
董卓の罪悪を述べ、諸侯の決起を促す。
この偽造書簡は、韓馥の元にも届いた。
韓馥は、袁紹監視のために、董卓が配置した駒で、伊達政宗への抑えを目的に秀吉によって会津に配置された蒲生氏郷のようなものである。
反董卓連合が、結局、董卓を叩き潰すことができずに解散したことから分かるように、董卓勢力のパワーは、圧倒的であった。
韓馥は、迷った。
そうして、騎都尉の沮授、司馬の張郃の両者にどちらにつくべきか意見を求める。
兵を司る張郃は、「董卓勢力、特に、涼州騎馬隊相手に戦をしたくない。反董卓連合に参加しそうな勢力は、歩兵が主体なので、戦いになった場合でも、なんとかなる可能性が高い。」と答えた。
軍師格の沮授は、「洛陽より西の勢力に対する、東の勢力の連合になるので、西の軍勢の中にポツリと取り残されてしまった場合、袋叩きにあう。真っ先に行動を起こさずに様子見をするべきだ。周囲に連合への参加者が多く出たら、その時に同調すればよいだろう。」と進言した。
韓馥は、軍師・沮授の意見をいれ、周囲よりワンテンポ遅らせたタイミングで、渤海の袁紹に手紙を送り、「董卓の悪事を許さぬ!一緒に挙兵しよう。」と伝えた。
張郃は、自分の意見が採用されなかったことを嘆いたという。
◆ ◆ ◆ 荀彧は、間に合わない ◆ ◆ ◆
張郃が仕えていた韓馥は、公孫瓚という乱暴者と相性が悪かった。
というのも、劉虞という皇族が、公孫瓚と争っていたからである。
これは、烏桓の騎馬系異民族と組んだ反乱軍と、その征伐を請け負っていた公孫瓚の間に、戦闘が続いていたことに、原因がある。
公孫瓚は、戦に勝つこともあれば、深入りしすぎて反乱軍の包囲を受けて敗北することもあり、これを鎮圧するに至らなかった。
霊帝時代の西暦188年のこと。
宮廷は、局面打開を図ろうと、光武帝の末裔である劉虞を、幽州牧に任命して平定に当たらせることとなった。
益州の反乱軍に、劉焉を当てたのと同年のことだ。
劉虞は、血筋が良く、徳も厚く、烏桓の騎馬系異民族の信望を集めたため、反乱軍は、その年のうちに降伏し、後漢帝国に帰順することとなる。
面白くないのは、公孫瓚である。
今まで、血を流して苦労していたところを、舌先三寸で、劉虞に成果を持って行かれるのだから。
公孫瓚は、劉虞と烏桓の交渉を妨害した。
劉虞は、烏桓を治めたい。
公孫瓚は、烏桓を滅ぼしたい。
この反乱鎮圧の経緯から、公孫瓚と劉虞の対立が、始まることとなった。
さて、韓馥は、冀州牧である。
そして、劉虞は、幽州牧である。
隣り合う州牧で、相手は、光武帝の末裔。
韓馥は、劉虞を押し立てた。
場合によっては、この劉虞を皇帝にするのが良いと考えたのだ。
漢帝国第6代、景帝の四男の末裔であることが、漢を継ぐ資格であると、たびたび述べてきた。
当然だが、彼は、条件に合致している。
後漢帝国の祖、光武帝の末裔
これほど、由緒正しい血筋は、そうそう無いのだから。
しかし、ここに冀州・渤海郡の雄・袁紹による工作・・・魔の手が伸びる。
「おれ、渤海だけじゃなくて、冀州全域が、欲しいっ!」
当時の袁紹は、兵糧補給に苦しんでおり、その供給を韓馥に依存していた。
そのころは、まだ豊かであった汝南からの兵糧援助が、その地を拠点とする仲の悪い袁術によって、ストップさせられていたのだ。
袁紹は、背後から公孫瓚をあおる。
「韓馥の土地って、豊かだよ!そこから、物資が送られてくるおかげで、うちは、兵糧に困ってないもん!」
公孫瓚は、あっさりと引っ掛かった。
当時、安平の地に駐屯していた韓馥軍を攻撃したのだ。
韓馥は、動揺した。
乱暴者の公孫瓚の部隊は、長年、鮮卑や烏桓の騎馬民族と争っているため、韓馥軍より強力なのだ。
このタイミングで、袁紹は、韓馥と同郷の豫州潁川郡の名士・荀諶を、使者として派遣する。
韓馥に「冀州全体を、自分に譲ったら、あなたの身は、安全だよっ」と、説得しようとしたのだ。
公孫瓚の攻撃と袁紹の使者に、狼狽する韓馥。
兵を司る張郃は、「袁紹は、兵糧を我々に頼っております。その優位を使って、彼を公孫瓚の盾として使えば、これを破ることは可能です。」と答えた。
今度は、軍師格の沮授も、同意見であった。
「こちらも、荀彧ら豫州潁川郡の英傑を冀州に招いていおります。彼らが到着するまで、少し時間を引き延ばすだけで、袁紹の使いである荀諶を、逆に、こちら側に取り込むことが可能です。」と進言した。
さらに、張郃は、「軍兵を出して袁紹に抵抗したい。」と願い出たが、その主君は、首を縦に振らない。
怯え切った韓馥は、これらの意見を聞かず、冀州を袁紹に譲ってしまったのだ。
潁川の荀彧が、こちらに到着した時には、既に袁紹に冀州を奪われた後。
後の祭りである。
西暦191年、秋のことであった。
◆ ◆ ◆ 河をはさんだ決戦の分水嶺 ◆ ◆ ◆
199年、帝位を自称した袁術が零落し、中国北方における覇権争いの勝者は、曹操vs袁紹のどちらかに絞られた。
袁紹は、南征の意思を固めた。
臣下の陳琳に書かせた檄文を、自らの支配する四州、そして、曹操の支配領域、あるいは、その同盟者にばら撒く。
後に「官渡の戦い」と呼ばれる一大決戦の始まりであった。
韓馥の冀州譲り事件の後、袁紹麾下にあった張郃は、一軍を率いてこれに参加する。
兵も食糧も、そして麾下の将の数も・・・何もかもが、袁紹優位である。
こうして、物量で勝る袁紹軍は、じりじりと曹操陣営を圧迫。
張郃も、陽武から官渡へと、曹操軍を破って連戦連勝で、進軍した。
秋に入ると、曹操領となった元袁術支配領域の豫州汝南で、黄巾残党であった劉辟や龔都が、反乱を起こすと、袁紹は、劉備を将として派遣し、これを支援した。
陳琳に書かせた檄文と、汝南袁氏筆頭となった袁紹の名声、これらを使った裏工作が、実った結果であった。
大河は、渡河し、もう超えた。
背面を揺さぶる工作も、上手くいっている。
あとは、支川を挟んでの攻防である。
官渡の渡し場で土を盛り、陣を固める曹操の最終砦を打ち破れば、相手の本拠地・許昌までは、地続きである。
すでに、豫州・汝南の地では、劉備が、村落から略奪を繰り返して、地域の不安を高めることで、許昌周辺の県を寝返らせている。
曹操は、本拠地の維持さえ、困難な状況に陥っていた。
この状況で、ある人物が、袁紹の前に進み出た。
張郃である。
彼は、袁紹陣営の参謀・許攸と声を揃えて進言する。
「後方の許都は、守将・荀彧とわずかな兵ばかりとなっております。さらに、許昌周辺も離反が続いています。軽騎兵で、相手の本拠を突きましょう。」
曹操側の本拠・許都と、そこから官渡の渡し場までの兵站路を潰し、曹操軍のハートラインを断つ戦術であった。
しかし、ここで袁紹の前に異論を述べる人物が進み出る。
それは、張郃同様に、袁紹麾下となっていた沮授。
軍師格であった沮授は、「我々の有利は、兵数が多く、食料が豊富である点です。勇猛さは、中原で、呂布や袁術と戦を繰り返した曹操陣営がやや有利でしょう。しかし、相手には、食糧がありません。曹操は、速戦を望むこと間違いありません。逆に、我々は、持久戦を行うべきでしょう。」と理論整然と唱えたのだ。
机上で考えるなら、これが正論。
頭で考えるなら、これが正解である。
「機を見て即断する」という能力にやや欠けるのが、袁紹の特徴であった。
袁紹陣営の参謀・許攸が計画し、張郃が実行する予定であったその戦術は、却下されることとなる。
しかし、これが「官渡の戦い」の分水嶺となった。