第2話 張松は、自意識過剰のブラコン2
張松が、楊修と酒を酌み交わした翌日のこと。
彼は、いよいよ曹操との対面の場に臨むこととなった。
決まり切った礼に従い、段取り通りに使者としての挨拶をするのでは、昨日の話のようにはならない。
しかし、盟友の楊修は、予定通りの会見にうまく割って入り、張松があの暗唱のパフォーマンスを披露するための時間を、どうにか作って見せると、約束してくれている。
彼は、大きく息を吸い込み、宮廷へと足をすすめた。
◆ ◆ ◆ 会見の決意と懐の地図 ◆ ◆ ◆
殿中に鎮座する漢帝国の丞相・曹操は、小柄な張松と比べても、背の低い小さな人物であった。
もちろん、偉丈夫である兄・張粛とは、比ぶべくもない。
張松は、心の中で、ニタリと笑った。
益州・蜀の劉璋地方政権では、体格がよく、容貌に優れ、所作も美しい・・・がしかし、凡夫の兄が、才の抜きんでた自分を差し置いて、ちやほやされている。
しかし、この曹操が率いる中央政権では、違うはずだ。
その根拠は、曹操自身が、小柄で、見栄えが良くないということ。
自身の姿格好や容姿が、優れていないことを知っている曹操は、自身の才能を頼りに、また、それに誇りをもって、ここまで成り上がってきたはずである。
ならば、容姿が兄よりは劣っていようと、才に抜きんでた自分を高く評価するはずっ!
曹操が、実際にどういう人物か?ということはともかくとして、張松は、そう考えたわけだ。
懐の中に潜ませた地図を握りしめ、たしかに、それが手の中にあることを確認する。
これは、蜀道の概要と都市の位置を示したものである。
実は、漢の中央政府は、大都市はともかく、益州の小都市や、蜀道について、正確な位置を把握できていない。
また、軍事産業などを担う秘密都市などは、従来の地図には、最初から載せられてもいなかった。
しかし、いま彼が握りしめているのは、張松自ら筆を入れた『西蜀地形図』。
益州の街道や山道。
それだけではなく、間道や砦の位置まで。
そして、重要なのは、将と兵力の配置図。
張松の懐に隠されたソレは、朱筆でこれらの注釈が細かく書き込まれた、まさに軍事機密と言えるモノであった。
今回の曹操陣営への仕官は、彼にとって、一世一代の【冒険】である。
張松は、昨晩打ち合わせたパフォーマンスを行った後、楊修の推挙で曹操の元で働くことが決定したその劇的瞬間に、この『西蜀地形図』を差し出すことで、漢の中央政権における己の地位を確固たるものにしようと考えていたのである。
地図を握りしめた手で、ドキドキと脈打つ心臓を押さえながら、頭を下げていると、盟友・楊修の声がした。
「丞相、蜀の劉璋殿の使者、張松殿にございます。大変優れた人物で、兵法に通じており、なんと、あの『孫家兵法新書』についても、通読されており、一言一句たがわず読み上げることさえできまする。」
なんと、建前上の本題である「劉璋より預かった書簡」や「進呈品の目録」などの読み上げなどの段取りを飛び越え、初手の段階で、楊修が、張松の紹介を始めたのだ。
しかも、話に興味を持った曹操まで、それに乗ってくる。
「ほう、それは面白い。よろしければ、拝聴させていただきたい。」
「さすれば・・・」
想像していた段取りとは、多少流れが違っても、張松が慌てることはなかった。
その高い声で朗々と、昨日ぱらぱらとページをめくった『孫家兵法新書』を暗唱する。
そして、彼が、最後の一文を読み終えた瞬間であった。
パンパンパンパンパンと、音がした。
なんと、曹操が、拍手をしはじめたのだ。
つられるように、取り囲む群臣たちもパチパチと、手を叩く。
ふと見れば、あの楊修も、手が腫れんばかりに拍手をしている。
「いや、素晴らしい。張松殿は、こちらに来てから、まだ7日ばかりと聞く。この短い期間で、最新の戦略書を通読されているとは、恐れ入った。」
拍手がおさまると、曹操が感服したように張松を褒め称えた。
しかし、張松は、益州蜀の名門・張家の人間である。
曹操の褒め言葉に謙遜しつつも、蜀の価値を上げようと返答する。
「いえいえ、この程度のことっ・・・こちらの書は、蜀の古い書物の文章を、まったくそのまま書き写したとしか思えぬものです。益州では、子供でも諳んじることができるものでございますれば、誇るほどではございませぬ。」
この時、曹操の顔をじぃぃっと観察しているものが居れば、見ることができたであろう。
一瞬ではあるが、彼の顔が、苦いものを食べたかのようにゆがんだところを・・・
しかし、張松が、それに気づくことはなかった。
そこからの会見は、予定の通りで、段取りの通り。
劉璋より預かった書簡や進呈品の目録などの読み上げて、形ばかりのあいさつをするだけ。
おかしなことに、盟友のはずである楊修は、昨晩、約束した推挙の言葉を口から出すこともせず、下を向いたままである。
さて、張松が予定していた輝かしい推挙のシチュエーションとは違って、この会見が、何事もなく終わろうとしていたその時であった。
おもむろに、曹操が、口を開いた。
◆ ◆ ◆ 歴史を分ける分水嶺 ◆ ◆ ◆
「さて、張松よ。兵法書は、見事な朗読であったな。褒美だ。ちょっとした秘密を教えてしんぜよう。ふむ、先ほど諳んじた内容、終わりの1文より、最初の位置にある文字を順番に取って読み上げてみるがよい。」
張松にとって、簡単なことである。
孟・・
徳・・・
新・・・・
た・・・・・
に・・・・・・・
こ・・・・・・
れ・・・
を・・・
書・・・・
す・・・
背中に、すすすっと、冷たい汗が流れる
何ということであろう。
文末より、先頭文字を逆順に一文字ずつ切り取ってみたならば、ひとつの文章が出来たではないか。
~ 孟徳、新たに、これを書す ~
そう、この『孫家兵法新書』は、漢帝国の丞相「曹操・孟徳」自らが、筆を執って書き記した孫子の兵法書のバージョンアップ版であったのだ。
「そなた、先ほど、蜀の古い書物に書かれているそのままと申したな。とすると、ワシは、どうやら、いにしえの古蜀の時代に、かの地で兵法書を書き残していたらしい。おもしろいことよの。はははは。」
曹操の言葉に、盟友であったはずの楊修が、言葉を続けた。
「丞相、実は、昨日のことでございますが、張松殿に、この『孫家兵法新書』の写しを読む機会を差し上げた次第にございます。おそらく、その際に、益州の田舎では見ることのできないこの素晴らしい書物を必死で暗記されたのではなかろうかと思われます。」
「はっはっはっ、なるほど。それは、おもしろい。蜀のような蛮地では、新たな知識を得るのも難しいからの。速読と暗記の能だけは、素晴らしい人材が、生まれるのじゃな。ははははっ。」
曹操が、そう高らかに笑うと、周りの群臣も、追随するかのように、笑い声をあげる。
もちろん、楊修も、笑っている。
いや、楊修その人こそ、一番腹を抱えて笑っているではないか。
張松の懐にある地図を掴んだ手。
その手が、ぷるぷると震え、ぐしゃりと音を立てた。
「この恨み、晴らさでおくべきか・・・」
この場に居る誰も、この心の声を聴くことはなかった。
この後、張松の口は、音をほとんど発することなく、彼は、ただ、帰路につくことになる。
そして、曹操が『張松を嘲笑した』この宮廷事件が、歴史の道筋を分ける【分水嶺】となることなど、まだ、誰も知る由もないのであった。