第13話 諸葛瑾は、ため息をつく
劉備は、その山中で馬を駆った。
後ろを追いすがって駆けるは、法正。
「この馰顱も、蜀産の良馬であるのですが、少々、厳しいですな。しかし、包囲戦中に護衛もつけずに遠出とは、いかがなものかと・・・」
青驪白駮的盧馬と称される劉備の馬は、選りすぐりの名馬である。
いかに、法正の馰顱が良馬であっても、なかなか追いつけるものではない。
劉備は、馬の足を止めると、坡の上で景色を見下ろしながら、彼に答えた。
「良い眺めよ。まぁ、あの雒城は、なかなか落ちぬ。このところのわしは、帷幕の中で座っておるだけじゃ。運動不足での。馬でも駆らねば、股の内側のぜい肉が、増えるばかりじゃ。」
「なるほど。それは、困りますな。まっ、ぜい肉がとれるかどうかは、私には分かりませんが、しかし、気にかけていらっしゃる問題は、上手くいくでしょう。」
「ほう、それは、素晴らしいが、なぜ?」
「この地の名ですね。土地の者によると、『落鳳坡』と呼ばれているそうです。」
法正は、いたずらをする子供のような目で、にっと笑った。
◆ ◆ ◆ 敵将の捕縛 ◆ ◆ ◆
難攻不落かとおもわれた雒城が、綻びを見せ始めたのは、城攻めから1年ほど経った頃であった。
黄忠、魏延、龐統らの包囲網に、城から討って出た守将・張任や、成都からの援軍の将・卓膺らが、捕らえられたのだ。
将が捕らえられたと聞いた益州兵は、次々と、劉備軍への降伏を申し出て降った。
そして、投降した兵を収容するため、涪水の岸に急遽設けられた陣において龐統は、言った。
「兵は、みな降った。もちろん、卓膺将軍もだ。貴公が、降伏せぬということもなかろう。」
「二君にまみえようとは、思わぬ。そこに座る裏切り者のようになっ。」
縄をかけられた張任に、裏切り者とののしられたのは、降伏した卓膺ではない。
彼は、降伏を進める龐統の顔などちらりとも見ることはなく、唾を飛ばしながら、法正を、にらみつけている。
劉備は、この無骨な将を惜しみ、言葉を尽くして彼を説いたが、張任が、首を縦に振ることはなかった。
「お斬りになるべきでしょう。」
冷たい声で言う法正。
「雒城は、まだ、落ちたわけではございません。この者を生かしたままで、もし、城に帰すことがありますと、その攻略には、もう1年、時間が必要ですぞ。」
法正は、なおも続けたが、劉備は、まだこれを決断できず、言葉を濁す。
そこに、一人の将が「恐れながら・・・」と声をあげた。
「殿、忠臣を遇する礼というものがございます。慈悲を持ってその首を刎ね、忠義を果たさせること。これもまた、仁であるように思われます。」
魏延、字は文長。
赤壁後、劉備に従うようになった、この益州攻めで1位2位を争う活躍を見せる新参の将である。
「なるほど、そなたの言う通りだ。張任殿を無駄に辱めるわけにはいかぬ。龐統よ。おぬしに任す。」
こうして、張任は、涪水のほとりで首を斬られることとなった。
「そうじゃ、魏延よ。ひとつ頼みたいことがある。少し残ってもらおう。」
張任を斬り、その屍を収めて、涪水の岸かたわらに弔うと、劉備は、この魏延に密かに声をかけた。
劉備は、のちの憂いを除くための重要な仕事を、この新参の将に託すことを考えたのだ。
◆ ◆ ◆ 雒城は、落つ ◆ ◆ ◆
雒城の守りは、固く、減ったとはいえ、兵も少なくない。
しかし、将が居ない。
劉璋の子である劉循も、大将格の守将であったが、さすがに張任と比べるのは、少々かわいそうというもの。
劉備軍は、石を放ち、強弩を放ち、城を攻めた。
黄忠、魏延、龐統らの部隊は、ここが勝負所とばかりに、一気呵成の勢いで攻撃を加える。
投石が城壁を砕き、強矢が相手の将兵を薙いだ。
勢いを失った城内の敵兵は、逃亡を図ろうとする者も多く、顔や胸に矢を受けるものは、半数ほど。
残りの半数は、その背に矢を受けていたといわれる。
そうして、「シュッ」という音とともに、またもや矢が放たれた。
強矢は、狙いをたがわず将の背に当たり、「どぉっ」という音とともに、将は、馬から転がり落ちる。
城内からは、「わぁっ」という声が上がった。
そうして、攻防を続けること数時間。
城門は、開き、白い旗を掲げた将が、ゆっくりと劉備軍の方へと歩を進め、告げた。
「司令官の劉循殿は、すでに、逃亡しております。将兵の降伏を受け入れていただけますでしょうか?」
こうして、1年以上をかけた攻城戦は終わり、劉備は、やっとのことで雒城に兵を入れることに成功したのであった。
◆ ◆ ◆ 蛮夷の矢 ◆ ◆ ◆
劉備は、この雒城で、諸葛亮、張飛・趙雲らと合流した。
「惜しいことをした。もはや、あの段階で城は、落ちたも同然であったものを・・・」
久しぶりに顔をあわせた主従であったが、そこに喜色は、見られない。
喪に服すような暗さが、その場を包む。
包囲戦の最中、流れ矢に龐統が射られ、そのまま死去したのだ。
矢は、背に刺さり、彼は、その馬から落ちた。
即死であったか、細い息は、あったか?
しかし、乱戦の中、救出されたその胸から、もはや鼓動は、聞こえなかったという。
「龐統の背に刺さった矢は、長沙蛮や武陵蛮が使う矢であったと聞きました。」
諸葛亮が、つぶやくように言う。
「あぁ、乱戦であった。味方の流れ矢であったかもしれぬが、黄忠や魏延といった将を責めるわけには、いかぬであろうな。」
武陵、長沙、桂陽、零陵の四郡に、根を張っていた黄忠や魏延の麾下は、荊州南部の異民族が多い。
しかし、戦闘の際の混乱で、矢が、味方に当たってしまうことは、ままあること。
黄忠や魏延を責めることが出来ないという、劉備の言には、うなずかざるを得ない。
諸葛亮は、何も言わず、そのまま引き下がった。
周瑜と諸葛瑾によって送り出された稀代の智将は、こうして、舞台から姿を消すこととなった。
劉備と諸葛亮は、龐統の死を大いに悲しみ、のちに関内侯を追封。
その死の40年ほど後、西暦260年には、靖侯の諡号を贈られることとなった。
◆ ◆ ◆ 成都の陥落 ◆ ◆ ◆
一方、成都では、今にも劉備軍が攻めてくるとの噂から、人心は揺れ、逃亡する者が多数みられた。
そうして、ここにきて、群臣たちは、劉璋の頼りなさを訴えるようになっていた。
「鄭度の言ったように、巴西・梓潼両郡の住民を西に移動させ、両郡の穀物を焼き払い、飲み水を汚し、守りを固める作戦をとっておれば、劉備軍は、今頃、飢餓困憊をさまよい、これを撃破するだけであったろうに・・・」
張松の内応と、劉備の益州攻めの野心が透けた段階で、蜀将・鄭度が、有効であろう焦土作戦を劉璋に対して、提案していたことを蒸し返す声が聞こえてくるなど、その足元が揺らいでいたのだ。
劉璋は、「敵を防いで民衆を守るのが、統治者の役目である。民衆を移動させ、その土地を焼いて敵を避けるなど、愚策でしかない。」と、鄭度の策を退けている。
この言葉・・・益州を守り切れるならば、名言。
攻め滅ぼされれば、迷言といったところか?
ただし、この段階でも、成都には、兵数万と、1年を超える兵糧があり、備えも充分であることから抗戦することはできた。
ただし、明らかに苦しい状況に加えて、張魯麾下にあった客将・馬超が、出奔して劉備に帰順する。
あるいは、蜀郡太守の許靖が劉璋を見捨て、城を脱出しようとしたところを発覚し捕らえられる。
といった、新たに不利な情報が次々と届くことに、劉璋の心のほうが先に折れた。
「わしは、これ以上、民を苦しめることは出来ない。」
劉備より、配下の簡雍が降伏勧告の使者として送り込まれると、劉璋は、降伏・・・成都を開城した。
西暦214年5月のことであった。
◆ ◆ ◆ 若き部督と分水嶺 ◆ ◆ ◆
「龐統が、死んだ。」
弟からの書簡に、諸葛瑾は、大きくため息をついた。
おそらく、魯粛がその力を失ったどこかのタイミングで、主君・孫権と劉備は、袂を分かつであろう。
自身も、弟の諸葛亮も、兄弟が互いの陣営に属している段階で、これらをつなぎとめる政治的な力が、限定される。
そして、北方の人口が回復した段階で、劉備と孫権が、その道をたがえたならば、より弱い側から各個撃破されるだけ・・・
いらいらとする気持ちを抑えようと、人差し指で、コツコツと太ももを叩く。
こうして、心を整えることになんとか成功した諸葛瑾は、筆をとり、孫権に献策するためのやや短い書簡をしたためた。
東呉の南・・・山越の領域や交州へ孫権勢力の直接的な支配地域を拡大すべきであると。
手紙に書かれることはなかったが、いずれ来るであろう劉備勢力との破局に備えて、孫家の懐を深くし、奥行きを作る・・・その危機への備えとするためである。
はたして、魯粛の死から2年もたたぬうちに、孫権と劉備の同盟は破綻した。
諸葛瑾の予測は、正しいことが証明されたのだ。
ただし、孫権軍が、劉備の勢力圏である荊州に攻め込むその時、総司令官に抜擢され、劉備軍最高幹部の関羽を討ち取る戦の指揮をとる将が誰になるかまでは、さすがの諸葛瑾であっても予想できていなかったに違いない。
その人物の名は、陸遜。
これを、歴史の皮肉というべきか、あるいは、歴史の必然というべきか?
諸葛瑾の提案した南方方面への遠征・・・つまり、山越の討伐で、実績を積んで名を挙げた若き英雄であった。
ただ、ここでひとつ言うとするならば・・・
龐統の死、それは、歴史の道筋を分ける【分水嶺】であったのかもしれない。