第12話 劉備の入蜀2
張粛は、ため息をついた。
我が家は、益州・蜀の名門であるからこそ、その地元の人脈・・・繋がりが重要視され、劉焉、劉璋と2代に渡って重用されてきた。
今ここで、弟・張松が、外の人間をこの蜀に引き込めばどうであろう?
新しくできた外来政権では、荊州人、あるいは、古参の華北の者が、ポストを得るだろう。
益州人には、うまみの無い小さな椅子だけ残される。
張松の一代は、まだ良い。
裏切った張本人なのであるから、重用される可能性はある。
しかし、張一族は、外から荊州人を引き込み、益州人のポストを減らした売国奴と見られる。
そうすると、10年後、15年後といった近い未来・・・益州人が、劉備政権の中心となるだろうその時代において、我ら張家が疎んじられることは、目に見えている。
張松とともに売国の道を進むにせよ、劉璋に裏切りを注進し、国を守るにせよ・・・待ち受けるのは、いばらの道。
ならば・・・
張粛は、忠臣として、名を残すことを選んだ。
弟を差し出すことで、劉璋政権が維持できれば良し。
政権が倒された場合であっても、忠臣としての行動であることを訴えれば、劉備は、簡単に処罰できまい。
「盗賊が飼っていた犬が、聖人・堯に吠えたのは、堯が不仁だからではなく、ただ、主人以外の者だったからである。」
蒯通が発したこの言葉を聞いて、漢帝・劉邦は、韓信を離反独立させようとしたこの男の処刑を中止した。
であるならば、末裔を称する劉備は、この先例に倣わざるを得ないはずだ。
危うい綱渡りであることは、分かっている。
しかし、退路は、すでに断たれていた。
この分岐、どちらかを選ぶしかなかったのだ。
張粛は、再び、ため息をついた。
◆ ◆ ◆ 包囲戦 ◆ ◆ ◆
雒らく城。
それは、成都より40キロほど北東にある堅固な要害である。
敵将・楊懐と高沛をだまし討ちにし、白水関を通過した劉備軍は、黄忠、魏延らの新参の将を中心に、これを包囲攻撃していた。
「これは、長くなりそうじゃな。」
「守将の張任が、やっかいにございます。」
劉備のつぶやきに、法正が答えた。
「どうにかならぬか?」
「危険をかえりみずに進むなら、ここを無視して間道を抜ける方法は、ございます。しかし、時間がかかりますが、荊州より将兵を呼び、相手の守兵を分散させ、機会を待つべきでしょう。むしろ、殿は、この時間を有効に使い、のちの憂いを除くことを考えるべきかと思われます。」
「後の憂いのぉ・・・」
数秒の後、劉備は、目を閉じて小さく首を振る。
「しかし、功をあげた益州平定後なれば、これを除くためには、理由が必要になります。」
「されば、討つか・・・」
カッと目を開けた劉備は、法正の目を見ながら、小さくつぶやいた。
◆ ◆ ◆ 50年後の話 ◆ ◆ ◆
ここで、劉備が、この城を囲んだ50年後の話をしよう。
西暦263年5月、司馬昭は、劉禅のおさめる蜀討伐勅令を発した。
そして、その4か月後の秋に、長安を軍が進発する。
司令官は、鍾会。
攻撃対象は、漢中である。
この時、政争に敗れ沓中にあった蜀将・姜維は、防衛のため、関城を経て、陽平関と通過し漢中へと向かうルートをたどろうとするが、途中、敵将・鄧艾に足止めを受けた上、通り道となる関城が敵の手に陥ちてしまう。
関城で、味方の蒋舒が、寝返ったのだ。
姜維は、間に合わなかった。
漢中は、鍾会の手に落ちた。
しかし、蜀の守りには、まだ天然の要害・剣閣がある。
鍾会の軍勢10万余人は、ここで足止めを受けることとなった。
50年前、城を囲んだ劉備と同じような状況。
この状況を、どう突破したか?
それは、67歳の老人の命がけの行軍であった。
老将・鄧艾が、3万人の兵をもって、冬も近づく10月から11月の標高1000メートル~2400メートルの四川省の山岳地・・・しかも、道なき道を、無理やり踏破したのである。
これにより、江油という成都をうかがう位置に、いきなり3万の兵隊が現れることになる。
俗にいう「中入り」奇襲。
しかし、この作戦、日本でいうと、義経と信長くらいしか成功させたことのない特殊な戦法である。
すなわち、一ノ谷の戦いと桶狭間。
のちの、小牧・長久手においては、池田恒興や森長可らが、この作戦を失敗し、秀吉は、家康に対し敗戦に近いイメージをもたれる外交的講和を余儀なくされた。
あるいは、賤ヶ岳の戦いの佐久間盛政の中入り奇襲失敗が、柴田勝家の命運を断った。
このように、「中入り」奇襲は、失敗する確率が高く、失敗すれば、全軍の敗北や、大きな過根につながりかねない。
しかも、鄧艾の行軍は、作戦規模が違う。
移動距離も10倍以上であり、高低差1400メートルの行軍は、日本では、おそらく「八甲田山の遭難」くらいしか、軍として比較対象がないのではなかろうか?
すなわち、鄧艾率いる3万人の部隊は、行軍そのもので全滅する危険を冒し、これを成功させたとしても、その後の戦闘で、蜀の後方部隊により壊滅させられるリスクを冒して、「中入り」を行ったのだ。
このことを考えると、50年前に、より兵数の少ない劉備軍が、張任の守る雒城を放置して、間道づたいに成都を突く「中入り」奇襲は、あまりにリスクが高い。
法正が、「荊州より将兵を呼ぶべき」としたことは、きわめて現実的な提案であったと言えるだろう。
◆ ◆ ◆ 雒城の落城 ◆ ◆ ◆
荊州より、諸葛亮が、張飛や趙雲を率いて劉備の元に向かったのは、劉璋と手切れして間もなくであった。
趙雲は、江州で分かれ、江陽・犍為を平定。
張飛は、巴西に向かい、これを降伏させた。
諸葛亮は、徳陽を平定し、柏下での決戦も勝利した。
劉備らの攻める雒城の手足となる要所、そして劉璋の派遣する将を、次々と撃破したのである。
しかし、劉備本体と対峙する劉璋軍の張任らは、雒城に立て籠もったまま徹底抗戦した。
新参の将・黄忠、魏延が前を進み、龐統も自ら兵を率いよく城を脅かした。
1年と少し。
これが、劉備が雒城を落とすのに費やした時間である。
「時間が、かかる。」
法正のこの言は、正しかった。
劉備は、荊州の虎の子を投入し、相手の手足をもぎ取り、この堅城の包囲を続け、ついには、雒城を落城に追い込んだのだ。
◆ ◆ ◆ 長沙蛮・武陵蛮 ◆ ◆ ◆
魏延、字は文長。
荊州義陽郡の人とされる。
曹家の魏により、南陽郡の南部を切り取って義陽郡が作られたと言われるから、この義陽とは、新野周辺であろうか?
黄忠という武将が、南陽郡出身であるから、この2人が、同じ頃に三国志物語に現れるのは、南陽つながりで行動を同じくしていたということであろう。
赤壁当時、彼らは、荊州の南方で活動を行っていた。
そこで劉備に仕えた。
武陵、長沙、桂陽、零陵・・・俗にいう「荊州南四郡」である。
この地域には、いろいろと特筆すべき事項がある。
その中から2つほど選んで挙げさせてもらうならば、1つには、150年ほど前は、ここが『漢帝国の6代目、景帝の血を引く者』の王国であったことである。
景帝の七男、長沙定王・劉発がここを治めていたのだ。
劉発の子孫が、光武帝・劉秀。
後漢の初代皇帝である。
そして、劉備は、景帝の九男、中山靖王・劉勝の子孫を自称する。
つまりは、祖を同じとする直系というわけだ。
魏延の部下や兵員は、この地域から徴募されていた。
彼が、劉備に仕えた1つの理由。
劉備のこの血脈が、大きな意味を持ったと考えられる。
特筆事項の2つ目に選ぶのは、長沙定王・劉発以前にこの地域に存在した諸侯王の国に関連する。
その国、呉氏・長沙国は、劉邦が項羽を滅ぼした際に生まれた。
呉芮という将軍が、諸侯王の爵として、長沙王に封じられたのだ。
彼は、劉姓ではない、特別な「異姓七王」の一人となった。
その後、韓信・彭越・英布・韓王信・臧荼、張耳ら、他の6王は、粛清されたが、呉芮は、それを免れ、呉氏・長沙国は、5代46年にわたって、ここに存在した。
「異姓七王」唯一の例外であったというわけである。
さて、劉邦が、漢帝国を建国し、しばらく経った紀元前192年のこと。
須毌なる人物が、陸梁候に冊封され、その令が、長沙王に下された。
地図でいうと、湖南省の衡陽市・耒陽市付近、明静庵をぐっと南・・・真下に下ったあたりであろうか?
前漢の初頭であれば、この地域は、独立国家・南越の支配領域であるからして、陸梁候・須毌とは、呉氏・長沙国と南越国の中間に住む異民族の長の可能性が高い。
須毌の冊封は、異民族の懐柔のため、劉邦が、列候の待遇を与え、この地方の安定を図ったと考えられる。
この異民族が、四夷のひとつ・・・南蛮であり、劉備が生きた時代の長沙蛮・武陵蛮のことである。
先ほど申し上げたように、魏延麾下の部隊兵は、この地域から徴募されていた。
結論を言う。
彼は、荊州南の異民族部隊を率いていたというわけだ。
劉備は、雒城攻めの渦中、この魏延を密かに呼び出した。
そうして、彼は、この異民族部隊を率いる将軍に、ある命令を下したのであった。