第11話 劉備の入蜀1
劉備軍は、蜀と漢中のつなぎ目・・・葭萌関に居た。
攻めず、動かず、ただ、そこに居た。
3万余りの軍勢をもって、葭萌関に、ただただ駐屯していたのだ。
ここで、劉備は、まともな軍事行動を起こさず、人心収攬に務め、のんびりと益州への足掛かりを築くことに努めている。
急く必要は、ない。
ようやく手に入れた荊州の地すら、安定していないのであるから。
待つことは、好きではないが、慣れている。
以前、劉表の所に、放浪し流れて来た時もそうであった。
新野の地で、軍を養いつつ人を集めた。
徐庶のように、劉備に見切りをつけて、曹操陣営に転身した者もいたが、代わりに諸葛亮という人材を手に入れることができた。
彼は、同じことをここでやろうとしていた。
もちろん、きっかけを待ちつつである。
◆ ◆ ◆ 援軍要請 ◆ ◆ ◆
そして、数か月。
やっと訪れたきっかけは、はるか東、長江と淮河の間・・・合肥の巣湖で起こった。
俗にいう、濡須口の戦い。
曹操自ら10万余の軍勢の指揮を執り、長江の濡須に侵攻したのだ。
長江北岸と、西岸に分かれにらみ合う曹操軍と、孫権軍。
孫権は、当然のこととして、友軍である劉備に援軍を要請した。
孫権からの援軍要請の知らせに、劉備は、歓喜した。
「法正よ。やっと、曹操が、行動を起こしたわ。」
「はいっ。先ごろ、曹操は、馬超や韓遂らの軍閥を攻めておりましたから、それが終わればいずれ・・・とは思っておりましたが、私も、焦る心がなかったかと言われれば、嘘になります。」
劉備には、兵を漢中の張魯攻め以外に動かすための大義名分が、必要であったのだ。
「曹操のおかげで、兵が動かせるわっ。」
「はっ、ならば、龐統殿に、劉璋への手紙を書かせてください。もちろん、援助要請です。私は、成都の劉璋政権中枢に、火種を撒きます。」
◆ ◆ ◆ 捕り物 ◆ ◆ ◆
劉璋政権の中枢である成都。
この数か月、張松は、思うように動かぬ劉備に、やきもきとした気持ちで、時を過ごしていた。
妲狐己を使いにし、手紙を送っても、法正からの返事は、あたりさわりのないものばかり。
どこまで、自分の言葉が、劉備に伝わっているのかが、分からないのである。
「いったい、これは、どういうことじゃ?」
「はい、現在、法正殿は、劉備公の信頼を得るためその側に控えておられます。しかし、なかなかもって難しいとのこと。張松様の書簡は、確かに劉備公の手に渡っているものの、作戦は、亡き周瑜軍に居た龐統という人物が立てているため、なかなかこちら側の意見が反映されづらいと、おっしゃっておられました。」
「やはり、法正ごときでは、無理であったか・・・自ら、あちらへ参った方が、良いか・・・しかしそれでは、内部で呼応する役目を果たす者が・・・」
ブツブツとつぶやく張松は、すぅぅっと消えるように移動する妲狐己にも気づかず、うろうろと部屋の中を歩き回る。
その時であった。
屋敷の入り口から、ガンガンという大きな物音が聞こえた。
「何事じゃっ。」
いつの間にか居なくなっていた妲狐己に変わり、駆けこんできたのは、数人の兵士と指揮官。
「謀反の疑いである。大人しくせよっ!」
そう、この捕り物の指揮をとっていたのは、あの孟達であった。
◆ ◆ ◆ 兄の嘆き ◆ ◆ ◆
成都の中心部にある宮廷。
弟の名が記された怪しげな手紙に呼び出され、後宮の裏口の前に、張粛は、立っていた。
張粛・・・そう、あの張松の兄である。
そうして、そこに現れたのは、美しい少女。
後宮の女は、手が付いていようがいまいが、主君・劉璋の所有物である。
「これは、まずい。」
張粛は、難を避けるため、その場を立ち去ろうとした。
「お待ちください。張粛様。実は、先日、張松様が宮廷にいらしたのです。」
「なに?弟は、後宮に立ち入ったのか?」
「いえ、そうではありません。わたくしが、古い蜀錦が貼られた文箱を望んだところ、宦官を通じ、これを献上してくださったのでございます。」
見れば、張家に伝わる古い小さな文箱が、少女の右後ろに立った宦官の手にある。
「ほう、それで?」
「ところが、箱の奥に、文が残っておりました。献上いただいた物を張松様に直接お返しするのでは、失礼にあたるかと思い、張家の家長にあたる張粛様に、お渡しするのがよろしいかと思いまして、失礼ながら、お呼びだてした次第にございます。」
「なるほど。それならば、私が、預かろう。」
張粛は、深く考えもせずに、宦官より、その文箱を受け取り、そのまま屋敷に持ち帰る。
そのまま、弟に文箱ごと返せば、何事もなく事態は、収束したはずである。
しかし、張粛は、何の気なしに奥に残っていたと言われた手紙を広げてしまったのだ。
玉手箱、パンドラの箱、大きな葛籠。
このような箱を開けても、良いことが起こることは、まず無いと言ってよい。
弟の文箱に入っていた手紙も、災厄の種となるものであった。
広げた文を眺める張粛は、嘆息した。
あぁ、弟の才は、この程度であったか・・・
いままで、識見や判断力に優れている様子から、少しでも要職に就くことができるよう後見してきた弟・張松。
しかし、その弟が、外部から飢えた狼をこの益州に引き込もうとしていたとは・・・
そう、文箱に入っていた手紙は、張松が、法正に託した劉備宛の書簡・・・そのものであった。
もう、お分かりであろう。
妲狐己、胡雉喜、王石琴の3姉妹を使い、孟達と法正が、張松の反乱の証拠を張粛の元へと届けさせたのである。
◆ ◆ ◆ 兄弟は、相克する ◆ ◆ ◆
孟達によって捕らえられた張松は、縄をかけられ、主である劉璋のまえに引き立てられた。
「この手紙は、どういうことだ。」
冷たい劉璋の声が、宮中の広間に響く。
「張松よ。手紙は、お主から妲狐己に献上したこちらの文箱にに入っていたものだとして、お主の兄、張粛より差し出された。文字も、お主の筆跡に瓜二つ。申し開きできることは、あるか?」
見れば、劉璋の右手には、兄・張粛が、控えている。
「いえ、そんなっ。妲狐己は、我が家の奴婢にございます。そのような者に張家に伝わる文箱を渡すわけがないでは、ありませんか。」
「何を言うかっ。妃は、ずっと後宮におる。」
「ひ・・妃?妃とは?」
孟達の推挙で、王石琴が、劉璋の元に仕えることになったことを知っている読者なら、理解できたであろうが、張松にとっては、なにがなにやら、さっぱり分からない話である。
つまりは、簡単なことであるが、王石琴が、姉の妲狐己の名を名乗って劉璋の後宮に入っただけのことである。
もちろん、文箱は、妲狐己が張松の屋敷より持ち出し、顔を隠して宦官に献上と称して渡したもの。
手紙は、張松が書き送ったものが、法正から胡雉喜に渡ったもの。
手品の種がしれれば、何ということでもないが、彼女らが3つ子であるというのは、いくら張松でも想像できるものではない。
しどろもどろに要領を得ない回答しかできなかった張松が、そのまま、妻子ともに処刑されたのは、いたしかたのないことであっただろう。
◆ ◆ ◆ 劉備、怒る ◆ ◆ ◆
劉備からの援助要請が、劉璋の元に届いたのは、謀反人・張松の処刑騒ぎが、まだ収まるか収まらぬかといったその時であった。
「盗人厚かましいとは、このことでございます。」
「使者を斬り、断交すべきです。」
「むしろ、こちらから攻めるべきではございませぬか?」
王累・黄権・劉巴ら、反劉備派といえる家臣から、次々と否定の声が上がる。
当然である。
しかし、劉璋は、違った。
「正義は、正義である。しかし、国を危うくして、何が正義であるか?曹操に攻められているのは、劉備ではなく、孫権であるぞ。劉備が、追い込まれているわけではない。劉備軍の兵は、どちらに向かっても良いのだ。こちらに矛先を向けさせぬよう、援助は、行う。ただし、要求した半分を第一陣と称して送れ。残りの半分は、劉備軍が、荊州に戻るのを確認してから、荊州に向けて送ることにする。」
きわめて現実的で、優れた劉璋の判断である。
怒らせず、その力を他方に向けさせ、矛先をかわす。
相手が、まともな人物であれば、この判断は、生きたであろう。
しかし、すでに獲物に狙いを定めた禽獣にとっては、この援助は、盗人に追い銭というべきものでしかなかった。
◆ ◆ ◆ 劉備、入蜀 ◆ ◆ ◆
「なんとも、冷淡なことを。我ら、同族のよしみにて、劉璋殿を助けるため血を流しておるにもかかわらず、必要の半分にも満たないわずかな糧米と廃物に等しい武具、老いた兵で、これを働かせようとするかっ!」
劉備は、怒りの色を見せ、劉璋の書簡を使者の前で破り捨てた。
そうして、援助物資の輸送にあたった使者は、ほうほうの態で成都へ帰ることとなった。
「いや、見事な演技でございました。しかし、要求の半分も援助があるとは・・・予想外に多くの物資が送られてきましたな。」
劉備には、言いがかりをつけるためのきっかけが必要であった。
援助要請は、断られる予定だったのである。
それをきっかけに、戦を仕掛ける。
そのため、張松の手紙を内応の証拠として発見させたのだ。
しかし、劉璋は、兵と物資を送ってきてしまった。
とっさに機転をきかせた劉備が、援助物資にケチをつけて激怒して見せねば、この計略は、危うく失敗に終わるところであった。
「いやいや、この程度の演技など、たいしたことではない。それよりも、法正の功は、蕭何、張良に匹敵するわ。では、楊懐と高沛を処理し、進軍するといたすかな。」
「この白水関は、手に入れたも同然でしょうが、成都は、まだ遠くございます。1歩の足を踏み出したところにございますれば、ご用心を。」
目の前には、白水関という要害。
関を守る将は、楊懐と高沛。
書簡を破り捨てながらも、援助物資は、懐に入れた。
あとは、敵将を、うまく騙すところから、進軍は、始まる。
こうして、劉備は、念願の益州攻めに取り掛かることになるのであった。