第1話 張松は、自意識過剰のブラコン1
張松は、歓喜した。
これで、次男坊の、自分が、本家の兄・張粛を超えることができると。
有名無実の皇帝の存在はあるにせよ、漢帝国を事実上支配しているのは、目の前の椅子に座るこの丞相であることは、皆が知っている。
『朗々と』という言葉がこれほどふさわしいと感じられる声は、無いのではなかろうか?
彼は、昨晩、楊修の前で諳んじたあの兵法書の内容を、漢帝国の丞相の前で、再び、暗唱し始めた。
◆ ◆ ◆ 曹操の南征準備 ◆ ◆ ◆
時は、西暦208年、中国。
日本では、まだ、卑弥呼が子供時代と言えばよいであろうか。
前年に、中国北部に割拠した袁氏勢力を完全に滅ぼし華北の地を平定した漢帝国の丞相・曹操は、中国南東部制覇のための遠征を決意した。
北部の大都市・鄴ギョウに玄武池という大きな池を掘り、船を浮かべ、不慣れな水の上の戦いに備える。
この噂に動揺したのが、中国南西部の群雄・劉璋であった。
南東部へ向かう曹操の魔の手が、自らの治める南西部・・・益州・蜀の地に忍び寄るのではないかと考えたのだ。
曹操南征の【噂】に、恐れおののいた劉璋は、この中央政権の動きに反応し、都の様子を観察させることにした。
華北平定の祝いの使者という名目で、家臣の陰溥を曹操の元へ派遣したのだ。
曹操は、喜んで使節を受け入れ、劉璋を漢の振威将軍に任命する。
これは、劉璋に対する「今回の遠征、あなたの益州は、攻めないよ。」という【メッセージ】でもあった。
劉璋は、素直に喜んだ。
改めて、振威将軍任命の返礼のため、二人目の使者を派遣する。
別駕従事・張粛・・・蜀の名門・張家の偉丈夫である。
この男に、曹操の南部平定を助けるための数百の蜀兵、あるいは、財宝・・・蜀錦や象牙など大量の贈り物を持たせての訪問であった。
曹操は、この返礼に気分良く対応し、使者としてやってきた張粛を、広漢太守に任じてこの使者の旅の苦労を慰撫した。
そして、さらにその返礼の使者として劉璋により派遣されたのが、冒頭で暗唱をはじめた張松であった。
先に派遣された張粛と同じ張家の弟である。
しかしながら、偉丈夫でハンサムな張粛と違い、張松の背は小さく、醜男・・・
また、やや自分勝手な所があるとの評判が、同僚たちの間にあった。
半面、彼は、劉璋政権内では、識見や判断力が優れている人物と目されてもいた。
まぁ、それはともかく、短期間に三人目の使者である。
いくら返礼名目とはいえ、ややくどい。
しかし、劉璋としては、礼とは名ばかりで、現在、曹操に攻め込まれている中国南東部・・・荊州および東呉の地の情勢と、天下の英雄・曹操や、孫権、あるいは、放浪軍・劉備などの群雄の形勢を観察させる。
つまり、「張松君、その識見や判断力で、そういう仕事をしてきてね!」という意図をもっての使者の派遣であった。
もちろん、そんな劉璋の考えなど、曹操はお見通しである。
自身の配下の中でも名門の弘農楊氏・・・後漢の「四世太尉」の家柄である切れ者・楊修を、使者・張松の傍につけ、曹操の軍容を見て回らせた。
「よく見て行け。劉璋が、我に臣従するなら、今のうちだぞ。」
このぐらいの気持ちで、張松を受け入れたのである。
◆ ◆ ◆ 楊修の飲み会とスカウト ◆ ◆ ◆
張松が、楊修の屋敷に滞在する間の機知に富んだ2人のやり取りは、流石は名門家のお坊ちゃん同士といえるものであり、この接遇役の楊修と、使者の張松、顔の似ぬ双子の兄弟か?と思われるくらいに気が合っているように見えた。
ある晩のことである。
酒を吞み交わす間に興に乗った楊修が、ある書物を家人に持ってこさせた。
「なるほど、君の才は、無限だ。ただ、いかんせん蜀のある益州は、蛮夷の地、このような兵法書などは、ないであろう。」
楊修が、張松の目の前に差し出したのは、盆に乗った1冊の書物。
墨で黒々と書かれた書題は、『孫家兵法新書』とあった。
この時代、紙で書かれた書物は、貴重である。
しかしながら、そんなことを気にする様子もなく、その書物を無造作につかみ上げた張松は、ぱらぱらぱらと、ページをめくっていく。
「ははぁ、蜀ではこんな内容ものは子供でも知っている。なにが、新書であるか?」
やや時間がかかったものの、最後のページを読み終えた張松は、盆の上にその書物を戻しながら、不敵に笑い、楊修を見上げた。
「ほう、それならば、この書の要点を漏らすことなく説明してもらおうか?」
「いやいや、要点など、とんでもない。」
「ほら、口だけではないか。蜀は、ど田舎だと認めてはどうだ?」
「何をおっしゃるか。このようなもの、全てを、諳んじることができるわっ!」
楊修が、言葉を返す前に張松は、その高い声を響かせ書物を暗唱し始めた。
つかえることも無い。
どもることもない。
もちろん、言い間違えなど1度も無い。
唖然と口を開く楊修の前で、張松は、最後の1語まで間違えずに、この『孫家兵法新書』を諳んじて見せた。
「これは、素晴らしい。」
パチパチと、楊修が、手を叩く。
「いやいや、それほどのものでも。」
新たに盃に注がれた酒をぐいっとあおると、張松は、ニヤリと笑う。
「張松殿っ、あなたのような才を持った人材は、我々の中をグルリと見渡しても見当たらない。ぜひ、丞相の前で、今の暗唱をもう一度聞かせてくだされっ。そのタイミングで、私が、丞相に、張松殿を推挙いたしまする。」
なんと、楊修は、張松に対し、曹操への士官をすすめてきた。
いや、自分が保証人になって、推挙するとまで言っている。
これは、チャンスだっ。
張松は、歓喜したっ。
張松の兄・張粛は、蜀の名門・張家の本家を継ぐ者というだけで、子供のころから頭ひとついや、ふたつほど抜けた存在として、親も、主君の劉璋も、張松とは、大きく差をつけて扱ってきた。
あたかも、張松が、兄・張粛より劣ったそのスペアであるかのように・・・
「しかし、そうではない!」
張松は、そう言いたかった。
所作・容貌ともに兄に劣ることは、自覚しているが、才だけは・・・識見や判断力、そして、政才、軍才・・・
才能は、兄より自分が優れている。
それも、頭ひとつ、ふたつではなく、体ひとつ分ほど。
彼は、そのように自負していた。
そうして、いまここに、中央政府に、自分の才能を認めてくれる人物が・・・それも、「四世太尉」・・・4代にわたって漢帝国の最高幹部を輩出した名門・楊氏の切れ者当主・楊修が、自分を認め、中央政府への登用に言及したのである。
彼は、明日の曹操との対面を前に、その胸を躍らせるのであった。