2章 王都の処刑人
酷い夢。
昔の夢を見た。
十歳かそこらだったころだ。
もう十五年以上の月日が経ったにもかかわらず、やけに鮮明な映像。思い出すことなく脳の隅に追いやられていたにしては克明すぎる足跡は夢というより追体験だった。
昨晩の首なし死体のせいだろう。
石畳を塗らす赤黒い液体に沈む首なしの身体。
本来あるべき頭は足下に転がり月を見つめていた。
闇の中で魔灯に照らされる姿は皮肉にも舞台装置染みていて、死というものを妙に嘘くさいものへと欺瞞していた。
凄惨な事件現場なのは理解していてもどこか『これ現実だよな?』と疑うような拒否感が大きくなり、恐怖や悲しみがあまり膨らまなかったのかもしれない。そこらでいたたまれなくなり部屋に戻った。
その後、出来るだけ血の色を思い出さないように強い酒を一気に呷り、眠りへついたのだが幼い記憶が揺り起こされてしまった。
他人の死といえど、死体を前にして心はやはり平静を保てないらしい。強い情動で水底に沈めたものが浮上したようだった。
寝台から何とか身を起こすと玉の汗が額から伝って無精髭を湿らせる。朝から酷く疲弊した。頭を掻くと冷たい感触がする。酷く寝汗をかいたらしい。
「あぁぁぁあーい」
伸びをすると固まった背がほぐれて欠伸が漏れた。
そのままもう一度寝台へ倒れ込んで瞳を瞑る。
暗い瞼の裏を睨めつけていると多くの雑音が聞こえた。死体を調べに来た警吏や野次馬、統制機構の連中だろう。
煩わしい声は昨日の死体が現実である証。数日中はあたりが騒がしくなりそうだ。
人生が上向きそうな気配が漂い始めた矢先に身近で殺人とは随分なけちがついたものだ。当分の間はことあるごとに首なし死体が脳裏を掠めるのだろう。自業自得とはいえ今からうんざりさせられる。
再び身体を起こし、なんとか立ち上がる。このまま転がっていては沈んでいきそうだ。
少し気分を変えよう。
寝汗もかいたし公衆浴場にでも行こうか。
男の垢が浮いた湯船は嫌いだが、昼前に行けば開店と同時に浸かれる。その後は氷菓子を食べるのもいいかもしれない。氷の魔術師と西方の大陸で学んだ菓子職人が組んだという菓子店が浴場の近くにあったはずだ。気軽に食べれる値段ではないが心を癒やすためなら払えない値段ではない。たまの贅沢でもして英気を養うとしよう。
「おい、なんだよ」
寝室から居間に移るとそこにはガノとダフネがお茶を飲んでいた。
「また勝手に入ってきたのか」
咎める声もどこ吹く風でガノはお茶を口元へ運んでいる。その態度はやはり少女に似つかわしくなく尊大だ。
対してダフネは一応家主に了承を得ずに入ったことを後ろめたく思っているのか曖昧な笑顔。もしかすると伝説の魔術師と二人で過ごす空間に耐えかねていたのかもしれない。
「昨日の返事をもらいに来ただけよ。鍵が開いてたし呼んでも返事がなかったから入ったの」
殺人があったにもかかわらず不用心ね、と付け加え優雅にお茶を飲むガノ。手にしているのはククナが買った覚えのない白磁の茶器だが昨日のように虚空から取り出したのか。机には砂糖壺らしき物まで置いてある。
「寝てたみたいだから、待たせてもらったの。出直すのも馬鹿らしいし」
正直、殺人事件の衝撃でこの瞬間までガノのことを忘れていたとは言えず、
「ああ、そう」
とだけ頷く。
たしかに昨夜の自分は随分と不用心だ。やはり、死体を見てなんだかんだ動揺していたらしい。部屋を訪ねてきたのがガノで幸運だったかもしれない。かといって、寛ぎすぎな気もするが。
「で、お前はなんでいる?」
ガノの対面で所在なさげなダフネに声をかける。
「なんでって、ククナ君の住んでるところで殺人があったって聞いたから心配して来たんだけど……」
「おかげさまで無事だ。帰れ」
「ちょっと冷たくなーい」
気にかけてくれたのは内心嬉しいが、素直に言うと調子に乗るだろうことはわかりきっているのでわざとぞんざいに扱う。ダフネもこちらの心情を知ってか知らずか顔には笑みがある。
「それにしてもククナ君……」
「なんだよ……?」
ダフネは微笑の後に視線をじっとりと塗らし、ククナの足先から胸元にかけてをゆっくりと上下させ、
「いい身体してるね」
いやらしく唇を舐めた。舌の赤さが朝から眩しい。
ククナは下着一枚で寝ることが多く。昨晩に服を脱いでからそのままだ。当然、今も肌を晒した格好になっている。
「そりゃどうも」
おざなりな返事をする。照れ隠しではなく、この程度で照れるほど初心じゃなくなっただけだ。
「触らせて?」
「金を払うならな」
ダフネの挑発的な態度は気になるが、褒められて悪い気はしない。
ただ、鍛錬の末に手に入れたものでもないので誇る気にもなれないのが本音だ。
「たしかに凄い身体ね」
本当にそう思っているのか怪しい仏頂面でガノも同調し、不躾な流し目をする。
「雄臭いわ」
「それ褒めてるのか?」
口調からして違うだろう。言葉は違うが目障りと言っていたような気がする。
確かにククナの身体は立派だ。雄として誇れるだろう。
長身で無駄な肉のない裸身は筋肉の彫りを浮かび上がらせ、皮膚の下に詰まった筋肉は触れずともわかる暴力性が匂い立っている。脇腹や二の腕など、至る所に細かな傷痕も相まって歴史家が書き記し夢想する古の戦士を体現していた。
いつか詩人崩れのような女と寝た時にククナを評した言葉だ。何かにつけて叙事詩的で長ったらしい言い回しを好み、話せば話すほどうんざりしたのをよく覚えている。
それを雄臭いとは、実に端的で的確な表現だ。思わず笑ってしまう。
こちらとしても若い娘二人を前に下着姿で居続けるのは少々ばつが悪い。寝室に引っ込み、適当に服を着込む。
「それじゃ帰るね」
部屋に戻るとダフネが立ち上がり手を振った。
「本当に顔を見に来ただけか? 朝飯ぐらい出すぞ」
固くなったパンしかないが。
「もうすぐお昼だよ。それに仕事の隙を縫って来たから今日はククナ君の相手なんてしてられませーん」
どうやら本当に様子を見に来ただけらしい。ダフネはあっさりと誘いを断った。ククナとしては酒の席だけの比較的緩い繋がりだと思っていたのだが、ダフネにとっては違うのだろうか。わざわざ仕事を抜けて安否を確認しにきてくれたことには小さく感動している自分がいる。
「それにガノ様を待たせたら駄目だよ」
「様、て……」
持ち上げすぎだろう、とククナは思ったが口にはせず苦笑に留めた。
魔術師として生きてきたダフネとククナではこの小さな少女の見方がまるで違うのだろう。ククナからすれば尊大な態度もダフネにとっては貫禄として捉えられるのかもしれない。
「それで弟子入りするの?」
玄関まで見送るとダフネはガノ当人に声が届かないよう潜めた声量で問うてきた。
答えは昨日からもちろん決まっている。
「ああ、昨日も言ったろ」
同じ答えを示すと、やはりダフネは昨日と同じように「ふーん」とこぼした。
ただ昨日と違い、ダフネの顔には寂しそうな笑みが添えられていた。
どうした?
「それじゃ、ね」
ククナが口を開くより先にその微笑は消えてしまい、追求する隙もなくダフネは廊下を走っていった。
「今度、ガノ様に私のこと紹介してよー」
廊下の角を曲がった先から声が反響している。声音は喜色満面でさっきの顔は見間違いだったのかと錯覚しそうだ。
「様、て……」
廊下を去って行く友人の足音を聞きながら、まさか嫉妬しているのか、などといった思い上がりが心をじわりと熱くさせたので頭を振る。
自意識過剰がすぎるな、とまたもや苦笑が滲む。女の精神構造は窺い知ることなど男には終ぞ無理な話だ。それにあまり一挙一動に意味を見いだそうとしては女からしても居心地が悪いだろう。
「すまん。待たせた」
社交辞令を言って先程までダフネが座っていた椅子に腰掛ける。
ガノは絹の巻き毛を払って机を指で二度叩く。すると、まるで沼に沈むかのように茶器が机の中へと落ちていった。
「魔術師ってのは何でもありだな」
呆れと驚きを混ぜた溜息が出る。恐る恐る机を触ってみるがいつもと変わらない木の感触。
きっと優秀な魔術師と我々の生活ではあらゆる面で水準が違うのだろう。普段の一日を観察するだけでかなり暇を潰せるんじゃないだろうか。
「何でもありは私の異名よ。他の魔術師はそうでもないわ」
「そうかい」
見栄や不遜ではなく、ただの事実を列挙しているという顔だ。伝説の魔術師は伊達じゃないらしい。むしろこの程度で驚くなと呆れているようにさえ見える。
「さっきの娘はあなたの女?」
「いいや、友人だ」
「私がここでお茶を飲んでたら物凄い勢いで部屋に飛び込んで来たわよ」
そこまで心配させたとは、昨日の今日で裏手の殺人は街でどう拡がったのだろう。
「何を勘違いしたのか私に向かって魔術を放とうとしたから拘束したけど」
寝室の隣でそんな騒動があったにも関わらず、我ながらよく寝ていたものだ。鍵の閉め忘れに続いて危機感がどうかしている。人の家に突撃していきなり魔術で攻撃をしかけるダフネも相当なものだが。
ガノのことは一応、公園で見かけていたはずだがどれだけ動転していたんだ。
「お互い無傷でよかった」
流石に昨晩に続いて朝から血を見るのはきつい。
「魔術師見習いをいなすくならい訳ないわよ」
事実だろうが本人には聞かせられないな。指導しているナーロも耳が痛いだろう。
鍛錬の結果が伴っていないのは自覚しているだろうが、未だ見習いの域にいる人間だと断じられるのは傷つくだろう。救いは世界で指折りの魔術師からすれば、大半の魔術師が取るに足らないだろうということか。
「お茶を飲ませたら謝ってたわ」
「それであいつ縮こまってたのか」
「私のことを殺人鬼だとでも思ったのかしら」
「まさか」
まあ、怪しい風貌ではあるな。心の中だけで付け足しておく。
「それじゃ、世間話はもういいだろ」
どことなく白けた空気を察して、本題に突っ込む。ガノは無言で首肯した。
「弟子入りの件を受けようと思う」
回りくどいのは面倒なので様子を伺うこともせずに魔術師になることを宣言する。
しかし、ガノの反応は芳しいものではなかった。
「ちゃんと考えての決断でしょうね?」
勧誘しておきながら、いざ弟子になると疑問を呈するのか。まさかこの後に及んで覚悟を問うなんてことをするつもりか。
「蹴る理由がない」
肩を竦めるとガノは渋い顔。ククナの返答に不満だったのか言葉を接いだ。
「もっと具体的な理由を聞かせて」
「金」
わかりやすく究極的な理由だろう。もう少し体面の良い理由でも取り繕えばよかったかもしれないがガノも察してはいるはずだ。勧誘の裏に金が稼げるようになると少しも匂わせなかったとは本人も言えないだろう。
「女神の魔術を使えば大きく稼げる」
「まったく……」
しかし、あまりにも明け透けすぎる動機にガノは眉間を揉んだ。
「高尚な動機が必要か? 世界の為だの、死の床に伏す妹の為だの。そういうのは物語の中でやればいい。俺たちはお互いの利害が合致してる。それで十分だろ」
こっちも解呪したい理由を問いただすつもりはない。ガノにどういう背景があって女神の魔術を求めているかなどどうでもいいことだ。師弟などと謳ってはいるが、所詮相手を利用し合って自分を満たせるようにするための関係にすぎない。
ガノはそのまま数秒に渡って眉間を揉んだ後、あてつけかのように大きな溜息をついた。
「そうね……。そうかも」
ようやく絞り出したかのように言うと顔を上げた。ガノの顔は凜としているが、微妙に呆れの色が滲んでいる気がした。そして、
「ガノよ。師匠か先生と呼びなさい」
観念したかのようにククナへ白く小さな手を差し出した。
「ククナ・ウルバッハだ。よろしく頼む」
これから世話になる小さな師に名乗りあげ手を握った。
小さく脆そうな手から返ってくる力は弱々しくどこか不安だったが、斯くして魔術師としての一歩を踏み出した。