6章 君のいない世界で7
翌朝、娘が眠る寝台横の椅子で船を漕いでいたときに彼らは現れた。
玄関扉が叩かれ来意に追われるように睡魔が消える。
娘が起き出さないようにそっと立ち上がり、玄関を開けると男が二人立っていた。
一人は街の治安を維持する執行機関の若い警吏。
もう一人も執行機関の所属なのだろうが隣の警吏と服装が違う。根底にある意匠は同じなのだろうが釦や布地縫製が洗練されている。この制服は執行機関の中でもそれなりに役職ある者が着るものなのだろう。控えるように立っている若い警吏は仕立てのよい制服を着た中年男性に緊張し背筋を伸ばしているようだった。
「朝から失礼します。こちらアルカン・ダヤックさんのご自宅でお間違いないでしょうか?」
「そうですけど……」
疲労に加え、朝ということもあり公権力に愛想笑いすることもできず、たどたどしく頷く。
中年男性は未亡人にわざとらしい同情も機嫌を伺うような態度もなく、ごく自然な調子で自己紹介をした。どうやら王都の執行機関に勤めているそうで夫の事件に関連した用事を済ませに遠く離れたこの街までやってきたらしかった。
事件の顛末でも伝えに着たのだとしたら小間使いや手紙でもいい。
わざわざなんだというのだろう。
「これをあなたに」
男は懐から紐で括った麻袋を取り出し、こちらの手に握らせた。
麻のざらりとした手触りの下にある重く硬い感触。
「金貨三十枚です」
「きん、か……?」
突如、手渡された大金に呆然と固まる。
「夫の遺産ですか……?」
「いえ。以前も説明したそうですが、アルカンさんの住まいから見つかった金貨五二七枚に関しましては不法に入手した可能性が高いそうで相続というわけにはいきません」
「だったら、これは?」
「彼曰く、旦那さんの取り分だそうです」
「仰っている意味がよくわからないのですが……」
「秘密保持の観点から詳しく説明はできないのですが、アルカンさんのおかげで首刈り事件は収束しました。これはそれについて執行機関から感謝の印です。都合上、書状など公的な形にすることはできませんでした。金銭という無粋はご容赦願います」
やはり意味がわからない。
けれどもアルカンは己の命を奪った犯人を捕まえ、王都を守る平和の一助となったらしい。
誇らしいとは思えなかった。
どれだけ立派な行いをしても死んでしまえばもう会うことはできない。
でも、死んでなお娘のため必要なときに力を貸してくれたのは夫らしい。
ありがとう。もう少し頑張るよ。
ほんの僅か、強がりではない微笑みが久しぶりに唇の形を変えた。
ただし、心からは笑えない。
金貨三十枚はありがたいが入院費用には程遠い。
金で破綻する未来がしばらく遠のいただけだ。
本当は一緒に頑張って欲しいな……。
冷たさと暖かさを同時に感じる矛盾した風が心に吹き抜けていく。
「わざわざご足労頂いてありがとうございます。夫も国から感謝されて喜んでると思います」
虚しさを覚えながらも頭を下げようとすると男はそれを遮るように言葉を挟んだ。
「奥さん。私が今回来たのはある方を娘さんに紹介したかったからなんです」
柔和な笑みを浮かべると男は後ろに下がり、入れ替わるようにして立ったのは齢七十はありそうな老女だった。
誰なんだろう。
街では見かけない顔だった。
老女は笑うでもなく日だまりのような穏やかな顔で黙礼をしたのでこちらも黙礼で返す。
訝しげな雰囲気が伝わってしまったかと少し気まずい。
老女が着ている白い外套は色がくすみ、裾には泥が跳ね糸がほつれていた。どことなくみすぼらしくもあるが彼女の顔に悲壮感などは微塵もない。
「突然のお呼び立てにも関わらず感謝いたします」
老女の後ろに控えた男が老女へ角張った声を出した。
口調はニーナへのものと変わっていないが内に秘めた敬意は姿が見えずともこちらへ響くようだった。
「本来、このようなことは禁止されているのですがね」
「申し訳ありません」
老女の声に咎めや怒りの色はない。
やや掠れた声だが、ゆったりとした口調は優しげでニーナの祖母に似ている。
しかし、男は将校から叱責を受けた一兵卒のように恐縮していた。
「あの、こちらの方は……?」
「王都の教会から巡礼の旅に出てらした名誉司祭様です」
「し、司祭様ですか……」
男の発言によりニーナは混乱し、額に皺を寄せ目を細めた。
教会の司祭様が我が家に来るとはなぜだ。
もしかすると夫の為に祈ってくださるのだろうか。
だとしても王都の教会、それも巡礼に出ていた司祭様を引っ張ってくる理由がわからない。
この街にも教会はあり神に仕える司祭様はいる。
仮によほど徳の高い司祭様だとして、気持ちは嬉しいが今の自分たちには祈りよりもっと即物的なものがありがたい。
麻袋を握るとかちりと音が鳴った。
「力を貸して欲しい女の子がいると執行機関の方々から連絡を頂きましてね」
「しかし本当に来てくださるとは。お忙しい身でしょうし、こちらとしてはあまり望みはないと考えていましたが……」
「我が故郷に安寧が戻ったのはアルカンさんのご尽力と伺いました。無残に殺められた信徒の魂に慰めを与えてくださったのです。それに今日に限っては聖職者としてではなく叔母としての立場で来たつもりです」
肉がなく枝のような手は清貧の証なのだろうか。
老女はニーナの手を優しく握ると微笑んだ。
そして、
「お邪魔しますね」
と告げると年齢に似合わぬ素早い足取りでニーナの脇を抜けていってしまった。
「お待ちくださいポーシャス司祭」
男はこちらに小さく頭を下げながら慌てて老女を追う。
聖職者らしからぬ押し入り方に嫌悪感がわかなかったのは本人の気性の穏やかさと状況に困惑していたからだろう。
唖然とするように玄関口に残されたのは自分と若い警吏の二人。
「あの……結局よくわからなかったんですけど、司祭様たちはいったい何をしに我が家まで来られたんですか……」
出遅れたか立ち尽くす警吏に問う。
警吏は司祭とのやりとりをどこか人ごとのような様子で見送り、頬を掻いている。緊張を強いられる相手が消えて心なしか安堵しているようだった。
「首刈り事件の解決に際して誰かと正式な書面で契約をかわしたそうですよ」
「何をですか?」
「アルカン・ダヤック氏のご息女に可能な限り最高の医療を施すことをです」
誰がなぜそんなことを。
経緯はわからないが気持ちは嬉しい。
だからこそ、この現状には怒りが湧いていた。
娘に必要なのは治療だ。祈りは病を癒やしはしない。
どうせならば医者を連れてきてくれればいいのに。
ようするに執行機関は金を出し渋ったということか。
善意に唾を吐くことはしたくないが司祭が娘の手を握ってくれても意味がない。
死への向き合い方や心の在り方を説いて終わるだけ。
娘の命が尽きていくことに納得ではなく解決をしたいのだ。
必要なのは心ではなく身体を癒やせる力。
「司祭様がいらしてくださったのはありがたいのですが、娘の病気は──」
「──大丈夫ですよ」
帰ってもらおう。
お祈りをやめてからすっかり荒んでしまった心を隠し、極力丁寧な言葉を選ぼうとするが警吏が間の抜けた笑顔を向けた。
そして耳馴染みのない表現で老女を称した。
「──彼女は女神の魔術師ですから」
誰の祈りが通じたのかはわからない。
夫か娘か別の誰かか。
それとも祈りなどやはり無関係に過ぎず、積み重なった偶然か奇跡的に我が家に幸運を運んだのだろうか。
女神の魔術師というものをニーナは知らなかった。
けれどその日、ニーナは久々に夕陽へと祈りを捧げることができた。
曇りなき心よりの感謝を。
──顔もわからぬ救いの主へ届くようにと。




