6章 君のいない世界で6
朝夕と決まって太陽に向かってお祈りをすることは敬虔な信者であるニーナの日課だった。
曰く、太陽と月は女神様の目や耳とされているらしい。
だから、教会の信者は日常的に空に浮かんだ光源へ膝をついてお祈りをする。
ニーナも太陽の中に女神様を見出してはいつも家族の健康を祈っている。
しかし、それはもう過去のことになりつつあった。
夫──アルカンの訃報を聞いてから祈りは捧げていない。
アルカンは王都へ出稼ぎに出ており滅多に家へ帰ってくることはなかった。
幼い娘の医療費を稼ぐためだ。
娘は肺を患っていて、少しのことで息が上がってしまう。
二年前までは外を楽しげに駆けていたのに、今では家の中を歩くだけで大汗をかいて呼吸が乱れる。
医者によると今はまだ日常生活を遅れているが、いずれはそれさえも負担に感じるほど肺が弱っていずれ呼吸さえもできなくなるそうだ。
娘の辛そうな咳を見る度に心が痛む。
ただし治すには貴族を相手にするような病院に長期で入院が必要らしい。
つまりは充実した設備と卓越した技能を持つ医者がいる。
ニーナとアルカンはごく普通の夫婦だ。
そんな貴族御用達のような病院で治療を受けさせられるほど稼ぎはよくない。
だからアルカンは王都へ行った。地方の街よりも都会ならば稼ぐ機会に恵まれると思ったから。
それでも状況は芳しくなかった。
アルカンは王都でそこそこの小金を稼ぐようになったが入院となると桁が違う。
症状の進行を抑えるための薬を買うので精一杯。
ニーナも寝台に寝たきりが多くなった娘の面倒を看ながら内職をしているが、貯金を考えれば夫の仕送りとを合わせても常に生活はぎりぎり。
生活は困窮しながらも、それを励ますようにアルカンはよく手紙を書いて送ってくれた。
彼はとても筆まめで二日に一度は二通の手紙が届く。
一通はニーナに。もう一通は十歳の娘でも読める簡単な言葉で。
君みたいな料理が作れない。
流れ星をたくさん見ることができたんだ。
早く二人に会いたいよ。
内容はとても些細なことだが、この手紙が離れた夫と唯一の繋がりを感じさせてくれるものだった。
ニーナもアルカンほどでないが手紙を書き、時には恥ずかしげもなく愛を筆で綴る。
そんな年月が続き、少しずつ娘を入院させることが夢物語ではないと思えるだけの額が貯まり始めた。
そんなおりの訃報だった。
訃報の届けを持ってきたのは街の警吏。
王都の執行機関本部より連絡を受け、夫が事件に巻き込まれて死んだことを説明された。
こんな遠く離れた地方に王都の殺人事件の話が流れてくることなどそうそうない。
国を揺るがすようなことならばまだしもこの街の新聞に載るのは精々地域周辺のことだけだ。
王都で起きたという首刈り連続殺人の被害者になったと聞かされたときは、興味のない自慢話でも聞かされているような、耳に届いても脳へ届いていない感覚だった。
この人は何を言っているんだろう?
悲痛な面持ちをする警吏の口元をニーナはただじっと見ていた。
──アルカンさんは王都で事件に巻き込まれお亡くなりになりまして──自宅からは不自然な量の金貨が発見されたのでこちらにつきましては事件との──ご遺体ですが王都までは距離がありますので現地の──。
愛を誓い合い、その結晶を設けた相手の死を聞かされてもニーナは泣かなかった。
それから数日、まるで夢の中を泳いでいるような不確かさで日常を過ごした。
家事をこなし、娘の様子を看ながら合間に内職をこなす。
意識することもなくただ考えることのない人形のように動き続けた。
アルカンは死んでなんていない。
何も変わってはいないはず。
まるで言い聞かせるように日常を再現する。
けれど、ニーナが必死で暗く断絶的な変化を拒否しようとしてもどうしようもないことがあった。
──手紙はもうこない。
そこでようやくこれが現実だと知った。
受け入れる衝撃は重く鋭く尖り、ニーナは血の流れない痛みに泣いた。
伝え聞いただけで顔のわからない犯人を憎むこともできず、ただ愛した人がいなくなってしまったことで心には穴があいて冷たい風が吹き抜ける。
娘にばれないように小さく泣いていたつもりだが、娘はこなくなった手紙と家にやってきた警吏を見て全てを察していたように思う。
こなくなった手紙について娘は触れることはしなかった。
ただ一言。
「ごめんね」
と言った。
まだ十歳。
それなのにとても聡い子だ。
年月を重ねるごとに弱くなる身体を抱え、心の一側面ではとても大人びている。
その言葉には多くの意味が含まれている気がした。
自分の為、稼ぎに出ていた父が死んだこと。
そして遠からず父が消えたこの家は自分という負債で沈んでしまうこと。
大人であることを急かしてしまったのは病なのかそれとも自分たちなのか。
子供らしからぬ表情で呟く娘を抱きしめ母は思った。
稼がなければ。
しかし、現実は甘くなかった。
際だった技能を持たない人間がすぐに大金を稼ぐ方法などない。
それだけの給金を払えるような雇い先もなかった。
そもそもこの街で稼ぐことが厳しいからアルカンは王都へ出て行ったのだ。
第一に娘の世話を考えると長く家を空けることもできず、そんな状態で職を見つけることも困難だった。
街を巡り、下げられる頭を下げ、額を地面に付けた。
けれど、仕事は見つからない。
その間にも蓄えは消えていく。
治すのではなく命を繋ぐための薬。
アルカンの稼ぎがあったときでさえ娘に寄ってくる死の歩みを遅くすることしかできなかった。
私一人の努力で、あとどれだけの時間この子を世界に留めることができるだろうか。
お金が欲しい。
宗教では欲を罪深さと捉えるが娘を守る為には欲深くならなくてはならない。
だから、もう女神様に祈りを捧げていない。
信仰を失ったわけではないが、もう女神様には合わせる顔がない。
昇る朝日も沈む夕陽にも目をすがめるのみだ。
申し訳ありません。
けれど、この子だけはお守りください。
少なかった蓄えはなくなり、薬も昨日なくなった。
夜中に娘は激しく咳き込み始め、治まったのは朝方だった。
ニーナにできることもなく、背をさすり水を飲ませた。
娘は咳の継ぎ目に「ごめんね」と繰り返し、付き添うことしかできない母は無力な自分を呪った。
ごめんね。
ごめんねお母さん。
丈夫に産んであげられなくて謝りたいのはこっちなのに。
苦しみながらも母を気遣う細い身体に唇を噛みしめる。
法を犯すしかないのだろうか。
職に就き、地道に働いたところでたかが知れている。
──だったら。
この子を助けるためなら何でもする。
救えるならば己の善性も未来も捧げてかまわない。




