6章 君のいない世界で2
一番始めに前を向かなきゃならないのは他でもない自分だ。
ならば、いつまでも辛気くさく寝ていられない。
「俺はいつから日常生活に復帰できるんだ? そもそも全身から出血して気絶した人間が自宅で寝てていいのか?」
「一応、大きな病院で治療を受けさせたわ。けど事件性を疑われたから金を握らせて逃げてきた」
「大丈夫なのかよ……」
「大丈夫よ。担当医には当局に何かを話せばおまえの子供を殺すと伝えておいたし」
「それ笑える……」
小さく乾いた笑いが漏れると、それだけのことで腹の傷にじくりと響いた。
「ここへ連れ帰ってからは町医者を雇って様子を看てたけど、落ち着いてるみたいだから今は定期的に往診に来るくらいね」
「町医者にはこの怪我のことをなんて説明したんだ?」
「女絡みで馬鹿をやらかしたって説明したら笑ってたわよ」
「それ笑えない……」
ほとんど真実ではないか。
それで納得してくれるのなら文句はないのだが。
「まあ体力が戻るまではじっとしてなさい」
たしかに立つことさえままならない今はそれ以外にやれることはない。
苦笑交じりに新聞を開き直す。
窓から入る光は薄暗く外は灰色。
陽光を隠す厚い雲はすぐにでも雨粒を降らせ始めそうな具合でどこかすっきりとしないククナの心情そのままだ。太陽も見えず朝か昼か夕かもわからない。そもそも自分はどれほど眠っていたのだろうか。時間間隔はとっくに消失している。
ガノに問うとククナは八日間も眠り続けていたらしい。
大怪我の所為なのか、魔術の反動かはわからないがそれだけ消耗していたのだろう。我ながらよくぞ生還したものだ。
ガノの補足によると昼過ぎに町医者が往診に来るらしいので現在は朝を過ぎた頃合い。それまでは新聞で時間を潰すより他にない。
「俺たちのことは載ってないな」
先と違い頭から記事を追っていくがククナやダフネについては載っていない。
気を利かせて──というよりガノが読んだまま部屋に放置されていたここ数日分の新聞にも目を通していくが決定的な情報などは一切なかった。
事件の不明瞭な点としては現場から逃げおおせた誰かの存在と多くの血痕が残っているといったくらいだ。
この点に関しては居合わせた別の魔術師と揉めたとダフネは証言したようで、相手については知らない顔だとしているらしい。
「巻き込まないためなのか、それとも保身かはわからないわね。こちらとしては騒ぎの輪から外れることができるのはありがたいけど」
ダフネの心は窺い知れない。
だけど、ククナは保身ではない気がした。
一つとして根拠のない楽観的な考えだが、そう思いたかった。
だから、そうすることにした。
「なに笑ってるの?」
「別に」
それから当分の間、ガノは姿を見せなかった。
意識を取り戻したことが確認できれば、あとは修行が再開できるまで快復するのを待つのみ。一緒にいたところですることもないのだろう。それとも別の用事があるだけか。
師弟愛とは幻想だなと笑いつつ、ククナは自宅に籠もっていた。
そして最後に顔を会わせてから五日後。
全身にあった傷も塞がり、本調子とはいかないまでも日常生活を送るのに不便は感じない状態にまで調子を取り戻していた。
早々に傷が塞がったのは生来の肉体の強さもあるが女神の魔術も影響しているのかもしれない。
世話になった医者は深く抉られていたはずの傷跡に目を白黒させ何かを言おうとしていたが、結局「何かあればここへ」と紙片に勤め先の住所を書き残して去って行った。
動けない間、買い出しなどもお願いしてしまっていたので今度、何かお礼の品でも持っていこうか。
ククナは久々に街へ繰り出していた。
時刻は昼過ぎ。
長らく籠もっていたので気分転換と街の様子を見たくての散歩だった。
天気は快晴。雲はなく石畳に返る陽光は眩しいくらいだ。
しかし、漂う空気はいやに冷えている。
春も過ぎようというのに、晴れた冬の日に出歩いているようだった。
気持ちが良い日だ。
目抜き通りを歩きながら深呼吸をする。
肺に染み入る冷えた空気は血液を巡るように倦怠感を散らし、日差しは暖かく薄手の毛布に包まっているようで落ち着く。
心地のいい日和におおきなあくびを漏らすと、若い女二人がくすくすと笑いながら通り過ぎていった。
事件から十日以上も経ち、街は今度こそ平穏を取り戻しているようだった。
もちろん何もかもが元通りとはいかないだろうが、擦れ違う人々は一様に暢気な顔をしている。
徒弟を引き連れる早足の商人らしき男。早い時間から酔っ払っている遊び人のような風体の集団。田舎から出てきたばかりなのかきょろきょろと周囲を見渡しながら危なっかしく歩く荷物を負った少年とそれに目をつけたらしい商売女。
人の性か街の自浄作用なのか起きた事件はどこか遠くへ消えて、王都はいつもの光景へと戻っている。
擦れ違う他人からすればククナもまた事件を忘れて安穏としている一人なのだろうが、実際はまだ事件から抜け出し切れていない。
心はあの夜に囚われたままだ。
ゆっくりと日常に回帰しているものの、いつも通りになるのはいつになるのだろう。
事件が終わり大事な友人二人は共に手の届かない場所へ行ってしまった。
経験を共有して共感することが友人ならば、もうこの街には他人しかいない。
口の端を曲げて頭を掻く。
友人の定義を考えるとはガノのことをとやかく言えたものじゃないな。




