6章 君のいない世界で
喉がささくれだったように痛い。
息が詰まって溺れてしまいそうだ。
水底から這い上がったかのように視界が開け、微睡むこともなくククナは覚醒した。
まるで呼吸を忘れていたかのように荒く肺へ空気を送り込み、二度、三度と呼吸を繰り返して首を振る。
ここはどこだ?
視界にあるのは寝台脇の低い小机。財産の詰まった頑丈な金庫に一人掛けの布張り椅子。
殺風景で見慣れた景色。
どうやらいつの間にか自室で眠っていたらしい。
眠っていた?
まさしく寝ぼけた表現だ。
瞼の裏に一瞬で映し出される公園内の惨劇。
告白。
茨。
血。
魔術。
塔。
自死。
「ダフネ……!」
脳が熱くなり今度こそ本当に目が覚めた。
なんで俺はここで眠っている。
ダフネはどうなった。
上体を起こすと皮膚が引き攣り、肉が破断する限界近くまで刃を押し込まれるような痛みが走った。
身体を検めると至る所に、およそ全身に包帯が巻いてあった。
治療の跡。
茨で散々に抉られた証だ。
包帯の下がどうなっているかわからないが、あれだけ出血をして生きているのだから医学の躍進が遺憾なく発揮されたのだろう。それとも頑健に産んでくれた父母に感謝すべきか。
どうやら自分はあの夜を落ち延びたらしい。
だが、経緯が不明だ。
何が起きて自室で寝ているんだ。
ダフネは?
ガノはどこにいる?
寝台から足を下ろし、四肢に力を込めるも踵が大地を掴むことはなくただただ痛む。
膝から下に繋がるものが棒にでもなったかのような違和感。
自由が利かず、痛みだけを伝える棒きれだ。
「気分は?」
立つこともままならないククナの耳に凜とした声。
ガノがこれまたいつの間にか部屋に現れて椅子に腰掛けていた。
「俺はどれくらい──いや、あのあとどうなった?」
体調を気にかける相手に答えず質問を返す無礼。
だが、ガノは咎めることもなく仕方ないというように肩を竦め、巻き毛を払った。
あの後、ククナが気を失ってすぐに大勢の人間が公園内にやってきたそうだ。
やってきたのは王都の治安維持を担う執行機関だけでなく軍と思しき武装集団。いくらなんでもそんな短時間で軍が動くとは考えにくいが、公権力に属する武闘派集団だろう。もしかすると対魔術師集団である統制機構かもしれない。
空を覆うような大規模魔術が行使され事態の収集にあらわれたのだろう。迅速に事に当たる姿勢は大したものだ。
とにかくこのままでは間違いなく面倒になると考えたガノはククナを引き剥がして逃げたらしい。
「逃げたって……、何が起きたか説明すべきだろ」
「連中かなり殺気だってたし話できるような雰囲気じゃなかったわよ」
「姿を見られたならいつか玄関を叩きにくるぞ」
「大丈夫よ。すぐに光と音の魔術で目と耳を潰したから」
本当に大丈夫か?
あっけらかんと告げる師は見た目通り子供のような邪気のない顔をしている。
なんだか眉間に皺を寄せたい気分にさせられるが今はどうでもいい。呑込もう。
一番気にかかっているのは彼女の安否。
「ダフネは? 助かったのか?」
語気を荒げるククナにガノは指を一本立てて部屋の入り口を指し、続けざまにククナを指差すと隣の部屋から紙の束が舞飛び寝台の上へと降り立った。
魔術で渡された紙束はここ最近ククナが購読していた新聞。
拾い上げた見出しには『連鎖する悪意、魔術規制に向けて国の方針は?』と大きく載っている。読めということか。
迂遠なやりとりに溜息をつきたくなるがそれも惜しい。
とにかく確認をしたくて紙面に目を通す。
『今回の王都大破壊未遂事件の首謀者ダフネ・クルス容疑者は、幼少の頃より魔術師による虐待を受けて育ち、人格形成の初期段階で大きな心的外傷を負ったことが遠因である。この一件は国が管理監督すべき魔術師を長年に渡り野放しにし、魔術連盟なる在野の集団との対立を恐れた浅はかで事なかれ主義的な体制が招いたものであり魔術連盟を国の麾下に──』
読み飛ばす。
『──ダフネ容疑者は取り調べに対して協力的であり自身の出自や犯行の経緯、先の首狩り事件は自分の魔術によるものでナーロ・ランフォード容疑者は被害者の一人にすぎないと供述。ナーロ容疑者はこれを否認、あくまで自己判断のもと──』
大きく、大きく息を吐く。
「生きてるのか…」
力が抜けて背を丸めると肩の傷が疼いた。
「あんたが気を失った時点で呼吸も脈も正常だったわ。それでも数日は入院してたみたいだけどね」
どうやら自分はやり遂げたらしい。
胸の内に拡がる暖かさ。
しかし、それだけではない冷たい棘が笑顔になることを止めていた。
「昨日の新聞にはできる限りの罪滅ぼしはするつもりだって書いてあったわよ。贖罪の意識もあるみたいだし助けてよかったわね」
「……だな」
「浮かない顔ね」
弟子の晴れない表情にぶつけられるささやかな疑問。
答えようとして逡巡する。
唇を噛むと乾いた皮が破れて舌先に鉄臭い味が染みていく。
あの瞬間はただひたすらに必死だった。
だけど、本当は迷いもあった。
違うな。
心の中で頭を振る。
それは後付けだ。
今になって自分がした行為に迷いが生じている。
命を捨てる選択に他人が口を挟んでいいのか。
ダフネの引き際を自分の感情一つで変えてよかったのか。
拭えない一抹の不安に心は素直な喜びを表すことができなかった。
「俺はダフネが助かってくれて嬉しい。けど……、これで良かったのか……?」
「一時の気の迷い。かっとなって。衝動的に。出来心で。時が経てば馬鹿らしく思える判断もその時ばかりはやってしまうものよ。合理的論理的な思考だけで生きている人間はいないわ。ダフネも一度は死のうとしたけど今は生きてる。あんたが助けたことに絶望してるならとっくに自殺しなおしてるわよ」
そう考えていいのだろうか。
ダフネがあの瞬間の選択を思い直し、もう少し生きようと試してみてくれたと信じていいのだろうか。
何も確証はない。
きっとこの先の人生がダフネと交わることはないだろう。
俺はあいつを──
「あいつにとって俺の助けは──」
「聞きなさい、ククナ・ウルバッハ!」
初めて聞くガノの啖呵に身を縮める。
「あんたもあの時は助けることが正しいと信じたんでしょ! 心なんて魔術よりあやふやで複雑なんだから正解はない、知りようがないわよ。だったら、あんたが救って、救われたダフネが生きようとしている現実があることに胸を張れ! 私の弟子が情けないことを抜かすな!」
少女の容姿をしながらも放たれる言葉は臈長けた年上の女性そのもの。
やはり、この女は師匠なのだ。
容易く弱い部分を指摘し戒める。
死を選んだ女が今は生きようとしている。
それなのに助けた当人がこれではあまりにも馬鹿らしい。情けないにもほどがある。
「そうだな……、あんたの言うとおりだよ。──師匠」




