5章 魔が先か心が先か花は咲き12
雲ほど高くないが、鳥が行き交うだろう高所までほんの一瞬。
空という人の手が入らない異界に文字通り飛び込み、ククナはダフネがどこにいるかを見失った。
どこへ手を伸ばそうとも、その場に身を留めることのできない不自由さは海中にいるようで、かといってククナが空を掻いたところでどこへも進めない。
ただただ揺蕩うように浮遊するだけだ。
ガノに襟首を持たれてはいるが、彼女の細腕に吊られているわけでなく浮いた身体をガノに牽引されていような奇妙な感覚。
こんなときでさえなければ、少しは夜の空中遊泳を楽しめたかもしれない。
「頼む、待ってくれ。ダフネを置いていけない」
公園にいたときよりも冷たく感じる風の中をガノに引かれながら必死に口を開く。
病院を目指しているのだろうが、まだ土地勘が薄いせいかどこにあるかがわかっていないのだろう。空を飛ぶもあまり早くはない。
「あんたの負った傷は魔術で一時的に抑えてる。それで少しはましになったでしょうけど、さっさと治療をすべきよ」
ガノの言うとおり傷の痛みは引き出血も治まった。比較的意識もしっかりしている。
だが、やはり身体には力が入らないままだ。
どんな魔術を使ったかは知らないが、治療ではないのだろう。
しっかり気を張っていなければ、すとんと意識が消え失せそうな危うい感覚が拭えない。
「あいつは──」
「戻ってどうするというの?」
「それは……」
言葉に詰まる。
あの現場へ戻りできることなど何もない。
ダフネは壊れてしまっている。
ひび割れ歪み、最悪の道を歩み、そして彼女はもう引き返せない場所まで来ていた。
他の道を示す言葉も無理にでも止める力もククナにはない。
それでも放って置くことなどできなかった。
「私にとってはククナ・ウルバッハの無事が最優先よ。あんたにとっては違うのかしら」
口をつぐむ。
悔しいがその通りだった。
ククナにとっても優先したいのは自分の命。
ダフネは家族や恋人でもない友人。
人の道から外れた友人だ。
それでも、と食い下がろうとしてガノに機先を制される。
「救えないわよ」
冷淡で端的。
加えて的確で正しい言葉だった。
きっと自己満足にしかならない。
いや、自己満足にさえならないかもしれない。
「あんたがダフネを許してなかったことにしようと、捕まえてけじめをつけようと。あの子はもう──」
「わかってる!」
温い、馬鹿な男の感傷だとわかっている。
今更、何も変えられない。
もう、どうにもならないことだとわかっている。
けれど、何かをしてあげたかった。
同じように傷ついてきたあの子をどうにかしてあげたかった。
「俺は……」
身を挺して救おうとするような善人にはなれない。
切り替えて忘れ去れるほど薄情にもなりきれない。
彼女を止めてやれるような魔術師でもない。
拳闘士でさえなくなった。
ただの男でしかなかった。
ここでどんなに格好いい決意をしたところで師を翻意させるほど口もうまくない。
これが人生なのか。
勇気と知恵で切り開いていく冒険譚ではない。
幸せな最後を迎えるとわかりきった童話とも違う。
とっくに知っていたつもりだった。
身近な人間の凶行から尻尾を巻くだけ。
身の丈を知らず、現実を認めず、衝動のままに救いの手を伸ばすことができるような子供ではない。
それが嫌で、違うと叫べなくなっている物わかりの良さも嫌で、
「俺は──」
どうするべきか。
どうしたいかの結論を出そうとしたときガノが急に舵を切り、言葉は夜空に散った。
「おい、あれ……」
ガノが旋回して公園のあった場所を振り返る。
そこには今まで王都にはなかったはずの巨大な塔の姿があった。
位置的には公園があった場所だ。
天へ昇る巨大な塔。
実態は違う。
塔ではなく、縄の如く寄り合わさった茨の集合体。
術者は疑いようもないだろう。
全てを失ったダフネの暴走。
最後の足掻き。
近隣住民を巻き込んだ自死でもしようということなのか。
「ガノ!」
塔から何かがこちらへ向かって飛んできている。
それは暗い夜空へなぞる線。
風切り音を鳴らす茨だった。
闇を這う緑の蛇が矢のように迫ってきていた。
それも一匹、二匹ではない。
数十、数百という群れを成した蛇の殺到。
「これは流石に看過できないわね」
警告もむなしく自らに害が及んだからか、それとも街を破壊しかねない凶行を見過ごせないからか。
ガノが巻き毛を払うと鬱陶しそうに溜息を吐き、
「ほんの少し時間がかかるけど、死んだら駄目よ」
来た道を引き返すように飛び始めた。
しかし、行きとは違い真っ直ぐには飛べない。
群がる殺意を躱すため、猛禽にも劣らぬ高速で曲芸染みた動きを重ねていく。
蛇行し、旋回し、宙返り。
ククナという荷物を連れながらも、かすることなく飛ぶガノを追う茨は次々と数を増し、逆巻く怒濤となっていた。
月を背負って華麗に夜空を舞う白髪の少女に追いすがる茨の大波。
今、王都の空はまるで幼児の描いた空想だった。
これが魔術師の世界か。
顔を叩く風の冷たさと勢いで瞼を半ば閉じながらも、ククナは魔術が織りなす非現実的な光景に恐怖を覚えていた。
魔術は詳しくない。
ただ、ダフネは急激に段階を越えて強くなった気がする。
もともとの潜在能力を発揮しているのか、何か代償を必要とするような無茶を強いているのか。
ともかく災害のような規模の魔術だ。
街を壊すことさえ可能だろう。
ダフネの望んだ力がどれほどかは知らない。
しかし、これならば小さな村や町を統べることは難しくない気がした。
けれど、本当にこんなものが欲しかったのか?
「あ、あ、あああぁぁあああぁぁ──ァアアアァァアアアァァァ!」
いよいよ塔が目前へと迫り、地上から鳴り響く咆哮が聞こえてきた。
甲高く空へ抜けていく魔術師の声は猛り狂う鳥獣のようであり、駄々をこねて泣く少女のようでもあった。
それは培ってきたダフネという殻が砕け、魔性へと堕ちた産声だったのかもしれない。
「私のだ!」
いったい何を指しているのか。
地から鳴く魔術師の声が轟く。
「私の可能性だ!」
ダフネの生き様か。
ククナへの未練か。
「私が得るべき選択肢だ! 未来だ!」
叫びと共に串刺しにしようと飛び交う茨を躱し、ガノは地上へと急降下する。
後ろにつけた茨の群れ。
いや、固まりはもはや夜空を覆う天蓋となり月と星を隠していた。
見上げる空の半分は茨が塞ぎ、闇をより濃いものとしている。
いまや城さえも呑込まんばかりの圧倒的な物量。
それとは別に塔から伸びる茨。
そのどれもが的を射ることはない。
ガノは落雷もかくやといった速度で全てを躱しきり、地上へと降り立つとククナをその場へ転がし丁寧に夜会服の埃を払った。
この期に及んで、なおも優雅さを感じさせる振る舞いのガノ。
相対するは蠢く茨の塔を背負った凶相の魔術師ダフネ。
向かい合い、しかし二人の視線が交錯することはなかった。
それよりも目前に迫った危機が空から降りてきていた。
躱しきり振り切った茨の天蓋。
空を覆い尽くした拒絶の棘はもはやククナたちだけではない。
周辺一帯を押しつぶそうとしていた。
「ガノ。このままじゃ!」
地に伏したままククナは叫ぶ。
空を埋め、降り注ぐ茨の様相はまるで終末の景色。
死ではなく滅びという言葉こそ相応しい。
「うるさい」
しかし、恐慌状態になりかける弟子と裏腹に師は不敵に笑い、両手を天へとかかげ──握った。
刹那、全ての茨が色褪せた。
空を隠す天蓋。
寄り合わさった塔。
矢のように舞っていた無数の茨。
その全てが静止し、色が抜けていく。
邪悪に染まっていたダフネの顔に人らしい驚愕が浮かぶ。
「これは……」
──灰の魔術。




