5章 魔が先か心が先か花は咲き11
決死の一撃だろうと届きはしないだろう。
練った魔力が霧散し力が抜ける。
高すぎる壁にどれだけ無謀なことをしようとしていたのか思い知らされる。このまま挑めば幻視したように無慈悲な力がダフネを襲うだろう確信があった。
「私はこいつが生きてるならそれでいい。あなたの事情や罪も見逃してあげる」
ガノは澄んだ湖面のような透明な微笑をたたえた。
硬直し血の気をなくした未熟な魔術師を一瞥すると、極めて身勝手な意思決定を宣言。
その顔に一切の後ろ暗さや迷いはない。
「これ以上、私の都合に害が及ばない限りはね」
法や道徳観念を脇目に手前勝手な都合を優先させる意志。
確固とした自己があり、それを通せる力あるが故の選択。
曰く、ガノは星を落とした。
曰く、ガノは竜の軍勢を従えている。
曰く、ガノは城を吹き飛ばした。
全て噂の域を出ない与太話だ。
おそらくは大部分が伝聞の中で形作られた大袈裟な張りぼてだろう。
それなのにダフネは動けなかった。
魔力を巡らせようとするだけで、幼い心が「やめろ」と泣き叫ぶ。
深い紫の奥にある昏い輝きが、絶対的な強者の醸す圧倒的な自信がそれを嘘とは言わせない。
この魔術師がその気になればきっと何もかもを力で押し通すことができる。
そう振る舞わないのは最低限の社会性を持っているから。
個としての圧倒的な能力を持ちながらも、人という群れとして生きる常識を持ち合わせている。
けれど、個としての欲求と群れとしての良識。
どちらを優先させるかの線引きが常人とは完全に違っていた。
現に今こうして殺人未遂の現場にありながら、ククナの命の他はすべて押しつけて去ろうととしている。
事件も犯人さえも放置して、後の混乱など素知らぬ傲慢。
後始末など誰かがやればいい。
音もなく折れた心にダフネは口を結ぶしかなかった。
力の片鱗に晒されただけで牙をなくした魔術師をガノは振り返る事はしなかった。
「まずは病院ね」
目の焦点が合っていない弟子を慮るように言うと、身体が重さから解き放たれたようにふわりと浮き上がる。
またもや別の魔術。
もう驚きはしない。
この女に限っては、なんでもありだ。
もはやダフネは俯くことしかできなかった。
胸に抱かれていたククナも一緒に重力のくびきから外れたように足が地面から離れる。
ガノは態勢を変え、ククナの襟首を掴むと空へと昇った。
飛び上がる寸前、ククナが「待て」と言うも聞き入れることなく二人はダフネの前から消えてしまった。
嘘のような結末。
一人残されたダフネは公園の周囲から様子を伺う数名の通行人に気を払うこともできず、これからのこと、今までのことに思いを馳せていた。
命は拾えた。
だが、天秤にかけた二つは同時に消えてしまった。
ガノの弟子になることは叶わない。
ククナと顔を合わせることも二度とないのだ。
一緒に酒を酌み交わすことも、笑い合うことも、触れ合うこともない。
彼はガノに選ばれ、後に優秀な魔術師として世に出るのだろう。
魔道の深淵に立つ師に倣い一角の存在として知られていく。
そしていずれは私のことも……。
ダフネという犯罪者は記憶の片隅に追いやられて、過去のほんの一片となってしまう。
そう思うと胸が痛んだ。
一度は切り捨てた道にも関わらず、胸に去来するのはククナへの情ばかり。
空を見上げると、夜の闇に紛れて師弟の影が飛んでいる。
憧れを体現した強者は悠々とククナを連れていた。
阻むものはないと言わんばかりの堂々とした凱旋。
彼女は全てを持っていってしまった。
我を通しきる力。
ありふれた幸せをくれる男。
私には何も残らなかった。
いったい何をどこで間違えたというのだろう。
冷たい地面へ膝をついて、ただ夜空を仰ぐ。
──ずるい。
胸の内で誰かが呟く子供じみた本心。
──ずるい。
そこらの魔術師より努力を積んできたのに。
──ずるい。
ククナよりもガノの教えを求めているのに。
──ずるい。
ガノよりもククナのことを愛しているのに。
──ずるい。
なんで私が……。
──ずるい。
私だけが報われない。
──ずるい。
「不公平だよ……」
どろり、と。
心の奥底から、誰に届くこともない粘つき絡みつく澱が溢れ出す。
「ずるい、ずるい、ずるい、ずるい」
止まらない。
「ずるい、ずるい、ずるい、ずるい、ずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるい──」
それは自分への怨嗟。他者への呪詛のように吐き出された。
虐げられた子供時代から学び、奪われた幸せを奪う立場になることで取り戻そうとしてきた。
因果が巡るならば奪われただけの幸せは帰ってくるべきなのに……。
まだ、私は奪われたままだ。
胸が熱く、臓器の全てが脈動する。
灼熱の心臓。
瞬時に灰に化すような煉獄の炎が血管に廻る。
「奪ってやる……」
私にはその権利がある。
爆ぜるような魔力の奔流が魔術式へと流れ込み。
それは顕現した。




