5章 魔が先か心が先か花は咲き10
「あーあ、もう駄目か……」
がらんどうの声が聞こえる。
茨に巻かれ、血濡れとなった弟子の前に立つ魔術師。
何を言い繕おうが誤魔化しようがない加害者と被害者の構図。
ガノがこの状況を目撃した以上、どう取り繕おうと弟子にはなれないだろう。
それどころか逆鱗に触れた可能性さえある。
ガノ自らが勧誘を行った弟子を殺そうとしたのだ。
気付いた瞬間に腕の一本が奪われていてもおかしくはない。
低い可能性が零へと減じる瞬間、ダフネはただ瞑目していた。
「いい格好ね、ククナ」
呆れとも皮肉ともとれない起伏の薄い口調でガノは呟いた。
静かな夜に落ちる凜とした声は涼やかそのもの。
知り合いが弟子を殺そうとしているこの事態をどう捉えているのか、ガノには怒りや張り詰めた様子はなかった。
落ちきり、灰のように溶けていく羽の残滓を踏み、ダフネの脇を当たり前のようにすり抜ける。
一歩一歩とまるで危険な魔術師などいないかのようにすれ違いククナの真正面に立つ。
無警戒と感じる振る舞いは裏打ちされた実力故か。
鮮血に染まった男を前に、鮮血に染めた女を背にして焦燥感はない。
少女の姿でありながらこの場においては誰よりも大きく感じる存在にククナは心が緩むのを感じた。
信頼できるほどまだガノを知らない。
それでもダフネが迂闊に動けなくなっているということが、この場を支配する人間が変わったことを証明していた。
「ダフネを……」
口を衝いて出た言葉が萎んでいく。
負傷で意識がはっきりしないせいだけではない。
きっとガノならば、歴戦の魔術師ならばダフネのことなど、どうとでも料理できるのだろう。
捕まえることなど言わずもがな。
ダフネは人の人生を壊した。
直接的にしろ間接的にしろ多くの人を苦しめた。
そして今また一人の男を殺そうとしている。
どれだけ舌が回ろうとも庇いきれない罪人。
捕まり、裁かれるべきだ。
頭では理解しているのに胸の内で燻る感情が言葉にすることを拒絶する。
「遠巻きに何人かがこっちを見てる。さっさと終わらせるわよ」
弟子の心情も知らずガノは呟くと拳を突き出しすぐさま拡げる。
すると、巻き付いた茨が一瞬にして細かく千切れ飛んだ。
あまりにあっけなく破壊される魔術の拘束は力量差の表れだろう。
身体を縛り固めていた茨が消え、頭がぐらりと揺れる。意識はなんとか繋いでいられても肉体はとうに限界。
「ちょっと」
前のめりに長椅子から落ちようとする頭をさっと抱きとめられる。
小柄で薄いガノの身体に脱力した成人男性がもたれかかるのは辛いだろうが、意外なほどしっかりとした力で支えられた。
そして、夜会服へ染みる血に嫌な顔一つすることなく不肖の弟子を抱きとめた彼女は、
「──帰るわよ」
そう告げた。
弟子を痛めつけた報いを受けさせるでもなく、理由を問いただすこともせず用はないと暗に告げる。
本当にこの惨状を投げっぱなしにして帰る気なのか。
元気ならば声を大にして叫んだだろう。
自分の中にある身勝手な答えも、社会的な法に則った答えも、何が最良なのかはわからない。
けれどもガノの決断には黙っていられない。
それはククナだけではなかった。
「帰っていいだなんて、言ったかな?」
この場に立つもう一人の魔術師が怒りを堪えるように唇を震わせる。
俯き奥歯を噛みしめるダフネは、突けば溢れ出しそうになる感情をなんとか塞き止めようとしているようだった。
侮られるどころか歯牙にもかけられない屈辱。
敵意が向けられていないと知り安堵した恥辱。
憧れの相手から言外に突きつけられる無関心。
どれほど遠くにいるかはわかっていた。
あまりに不用意な発言なのは重々承知。
しかし、眼前の強者に知らしめたいという欲求が先走った。
カラスに囲まれ、少女時代の──情けない生き方をしていた己を思い出してしまった反動。
「伺いを立てるべきは力のない側でしょ」
ガノは力量で大きく水をあける魔術師が放つせめてもの意地をただの言葉で捻じ伏せる。
「自尊心の為かは知らないけど負け惜しみはやめなさい。寿命を縮めるわよ」
「違う! 私は──」
「──たとえ、見逃してくれるとわかっていてもね」
視界が真っ赤に染まった。
芯を食った人としての攻撃に一気に血が昇る。
見透かされた自分の浅さと羞恥心から目を背けるように。
それは違うと否定するために。
もうどうなってもいい。
魔力を巡らせ、魔術式に通す。
弱者の一撃を教えてやる。
そう右手を構えた瞬間だった。
指先が捻れた。
それは人体の構造を無視した不随意の回転だった。
まるで透明の誰か握り、ひねったように第二関節から先が砕け折れる。
骨の折れる音が耳でなく、骨を通じたくぐもった振動となって耳朶を叩く。
そこで終わらなかった。
残酷なる破壊音は止むことがない。
手首が、前腕が、まるで肩へと昇るかのようにどんどんと捻れていく。
皮膚が破れ、肉は裂け、骨が飛び出る。
ダフネという材料を使って渦を表現するかのような悪辣な攻撃。
にも関わらず痛みはなかった。
精神を壊しかねない狂的な痛みに脳が痛覚を遮断したのかもしれない。
ただし、それはなんの解決にもなっていなかった。
徹底的に壊れていく腕は果実でも絞るかのように血が吹き出し、勢いよく地面が濡れていく。
血溜まりにぼとぼとと切れた肉の固まりが落ちて混じり赤色が跳ねる。
ものの数秒で腕だったものは捻り潰され、もはや肩から垂れ下がるだけの醜悪な異物に成り果てていた。
二十年以上、当たり前にあったものが無残に奪い取られ、ダフネは呆然と、しかし絶叫しようと口を開け──ガノの声を聞きながら気付く。
腕がある。
魔術を構えたときのままの形で自分は固まっていた。
傷もなく、肩から爪の先まで元のままだった。
何が起きた!?
力量差からくる絶望が生んだ幻ではないだろう。
いやに現実感があり、はっきりと壊れていく様が目に焼き付いている。
これはおそらく描いた像を相手の意識に投射する魔術。
幻視の魔術。
いったい、どれだけの手札を持っているんだ。
一つの魔術を極めていくのが通説の魔術師の中で確実な異端。
凡百の魔術師にはあり得ない多様な魔術の種類。
相手の攻め気を察してから、発動までの瞬発力。
一瞬で自らの領域へ呑込む魔術としての完成度。
決定的な彼我の差に思い至ってしまう。
──この女には何一つとして通用しない。




