5章 魔が先か心が先か花は咲き8
受け入れがたい、きつい冗談を聞かされている気分だった。
元凶という単語が浮かんでくる。
それは些か乱暴な表現かもしれない。
ダフネもナーロが巻き起こした首刈り殺人を予想できなかったのだ。
けれども、決定的なきっかけの一つを与えたのは間違いない。
「結局ナーロは場を乱すだけ乱してなんにも役に立たなかったな」
冷たく吐き捨てるかのようだった。
友を罪人へと変え、三人も死者が出た。
ナーロが街中でククナを襲ったときの暴れっぷりを考えれば、公になっていないだけで怪我人や違う形で被害を被った人達だっているかもしれない。王都は怯える日々を過ごした。
なのに、ダフネは悪びれもしていない。
愛嬌を感じさせる顔は生気を吸い取ったかのように無表情。
感情を失ったか、それとも欠片ほどの憐憫も感じていないのか。
まさしく彼女の目指す姿に相応しい心の在り方。
情も涙もない。
「くそ……」
手が震えた。
奥底に未だ残る幼い自分が悲鳴を上げているようだった。
動けず、甚振られ、眼前には冷血な女。
まるでご主人様だな……。
思い出さずにはいられない。
「当初の予定通り、そこで決めてもよかったんだけど私も未練がましいよね。最後にどうしても確かめたかったの」
微動だにできないククナを嘲るようにダフネは落ち着きなく前を往復する。
「すごく残念だけど、君には椅子を空けてもらう」
裏腹に惜しむ気配も悲しみも伝わってはこない。
ただ興味を失った本を棚へしまうように事務的で淡々とした態度だった。
「や、やめとけ……、無駄だ……」
ククナが消えたところでガノが弟子に取ってくれるかは別問題だ。
ガノが弟子についてをどう語ったかは知らないが、ククナが弟子になれたのは運良く女神の魔術という才能を持っていて、それが彼女の望みに必要だったからだ。
ククナがいなかったとして、洗脳の魔術だなんてものにガノは見向きもしない。
どれだけ頭を下げ、頼み込んだところできっと無駄だ。ガノは自分を利用しようと近づく人間を嫌悪している。
「命乞いだなんて止めてよ。そんなのククナ君じゃない」
失望したようにダフネは眉間に皺を寄せ、こちらに手をかざした。
そうじゃない、と否定するより先に茨が呼応するように蠕動し、棘が肉に深く埋まっていく。
「──っぁぁぁぁ!」
生きたまま虫が肉を食い破っているような激痛に絶叫するも喉元の締め付けでほどんど声にならない。頭の中では火花が散るようだった。
「あ、く、ぅぇ……」
最初に首を守ることさえなければこれほど苦しむこともなかっただろう。
茨はすぐに動きを止めたが、全身は火にかけられているように痛む。
まだ生きている証拠だ。
ダフネは濡れ布巾を絞ったかのように血を滴らせるククナを黙って観察し、頭を掻いた。
「うん。喋りたいことは喋った……かな。それじゃあ名残惜しいけど終わらせようか……」
即ち、殺害の前戯を終えたということか。
ぷつり、と精神内に張られた糸が切れる音がたしかに聞こえた。
もうすぐ決定的な決別が訪れる。
背骨から肉が腐敗してククナ・ウルバッハを構成する何もかもを吐きそうだ。
「もう決めたことだから前へ進まなきゃね」
過去を振り返って選ばなかった道を羨んだり自己憐憫に浸るなんてしない、か……。
だが、ダフネが選んだ道は望んだ場所まで続きはしないだろう。
雑だ。
行動も考えも何もかもが雑なのだ。
改めて考えるまでもない。
いつ誰が来るともわからない公園で人を襲って、すぐに殺すでもなく延々と罪の告白。
そこまでして結果に繋がる可能性も極めて薄い。
ダフネは危険性が高く、する必要のない分が悪い賭けを続けている。
冷静ならば、ましてや己の野望の為だというならばもっと考えるべきだったし、出来たはずだ。
──いつものダフネなら。
今の彼女はまるで自暴自棄だ。
「ごめんね、ククナ君」
呟きと同時にダフネが顔を寄せた。
絡み合う視線。
正面にあるのは昏い底なしの瞳孔。
誰にも私を傷つけさせない。
奪わせない。
所有させない。
すべては私が傷つけ奪い所有する。
誰かを踏みつけにする幸せの略奪者になりたいとダフネは言った。
俺からも奪うのか。
まさか、こんな終わりだとはな……。
心臓が縮み、心は冷えていく。
抵抗する余力などない。
茨に縛られ動く余地もない。
これ以上、変わり果てた──本性を現わした彼女と視線を絡ませることが出来ず、力なく俯く。
視界に映ったのは黄色い薔薇。
未だダフネの手に残る彼女の魔の象徴。
意思を奪う暗香。
ああ、そうか。
──ダフネ自身もまた例外ではないのかもしれない。
彼女もナーロと同じ。
花粉にあてられて暴走している。
洗脳の魔術は花粉を介して人を操る術だ。
ナーロはこれで操られたが、未熟な魔術は狙った効果を発揮するに至らなかった。
ククナへの嫉妬心に封をしていた自制心や理性を失わせただけだ。
ダフネは魔術式を自覚して日が浅く扱い切れていない。
だからこそ、この状況。
ダフネも花粉に影響を受け、正常な判断を失っている。
理知的な判断の末とは到底思えない自滅めいた凶行。
しかし、それが真実だとしてもはや意味がない。
すべては遅すぎた。
そして、ククナごときにはどうしようもなかった。
「まだ死んでないよね?」
ダフネ、この先に何があるかわかっているのか。
俺が死に、ガノもまた目的を失って街を去るだろう。
おまえは天秤に乗せた二つを失う。
そしてこの殺人がいずれおまえを追い詰める。
全てを失うことになる。
誰かが止めなきゃ、
俺が止めてやらなきゃ。
歯を食いしばる。
寒い。
死の足音が聞こえる。
「ごめんねククナ君」
繰り返される謝罪にどれほどの意味が込められているのだろうか。
もう動く力はない。
が、落ちたククナの顔をダフネが持ち上げた。
再び正面から向かい合う形になるも二人の間には異物が輝いている。
黄色い魔花。
洗脳の魔術。
不穏で剣呑な魔術の象徴でありながら、淡く発光した花弁は死に供えるに上等な美しさだった。
「じゃあね」
酒場を出たときに聞くのと同じ調子で言うと、ダフネは薔薇に優しく息を吹きかけた。
それだけで燐光を発するよう花粉が舞い、ククナは抗する意識もなく吸い込んでしまった。
まずい、と思うも遅い。
鼻の奥がつんと痛み、脳が痺れる違和感が襲う。
「舌を噛み切れ、自害しろ」
冷徹な処刑執行の声。
放っておいても死ぬだろうに念を入れているのか、それとも魔術の練習台か。
執行人に顔を向けるも無表情のままだった。
何を期待していたのだろう。
最後にもう一度あの笑顔を見たいのか?
脳の奥が白み、井戸の底から外を覗いているように視界が狭窄する。
意識が途切れかけている。
ここで手放せば全てが終わるのだろう。
視界が黒く潰れていく。
淵からどんどん中心へと黒く。
瞼を下ろすのとは明らかに違った闇への落下。
怖くはない。
悲しいだけだ。
伝説の魔術師の弟子になれた機会を無駄にしたこと。
胸を張れるような誇れる人生を送れなかったこと。
ダフネに──好きだった女に殺されること。




