5章 魔が先か心が先か花は咲き6
ダフネの全身から噴き出した茨。
魔術。
理解したときには遅すぎた。
膝上に乗った魔術師から逃げようなどなかった。
回避行動を起こすよりも早く緑の触手は身体を覆いつくす。
地表をのたくる蛇のように茨が皮膚を這い回り、棘が赤い轍を刻んでいく。
「っがぁぅ!」
堪らずくぐもった叫びが夜の公園を揺らす。
一瞬の内に首から下を拘束され、そのうえ全身は傷だらけ。
瞬く間に腰掛けた長椅子は赤く染まった。
「あーあ」
膝から降りたダフネは背を向けると呟いた。
茨を身体の至る所から出していたのに傷どころか服にはほつれ一つない。
この公園へ来たときと同じ姿だ。
けれど、そのときは知っていたはずの彼女は、もはや得体の知れない誰かになっていた。
「揺れると思ったのにな……」
言の葉に乗せられた感情を読む余裕などない。
口づけした女からの強襲。
大勢から一斉に切りつけられたような痛み。
苦々しい記憶の象徴たる茨の魔術。
いったい何が起きている。
「凄い」
ダフネは振り向くといつものように愛嬌たっぷりの笑顔をたたえた。
なんで笑っていられる?
「咄嗟に首を守るなんてやるねー」
逃げることが出来ないと悟ったとき、ククナは反射的に首元へ腕を差し込んでいた。
首元へと迫る茨の棘に頸動脈を裂かれないための苦肉の策だった。
全身の動きは封じられたがおかげで死ぬことはなかった。
しかし、どうでもいい。
訳がわからない。
「なんで……?」
呼吸が苦しい。
腕ごと喉元を締め上げられて、声が掠れる。
「幸せの手段って、なんだと思う?」
ククナが血濡れでいることが、なんでもないようにダフネは表情を変えない。
見慣れた顔にこの状況は白昼夢なのではないかと錯覚を起こしかけるが全身の痛みが否定する。
「きっとククナ君にとっては金でしょ?」
爪先でとんとんと拍子をとるように地面を蹴りながらダフネは語る。
「私にとっては力だったんだー」
なんとか抜け出せないか腕に力を込めるが無駄だった。
幾重にも巻き付く茨は身体中の可動域を狭めてろくに動くことすらままならない。
「きっと子供時代の心象風景がそうさせたんだろうね」
ダフネはククナの抵抗を横目に咎めることもなく微笑する。
一見優しげだが、無駄な抵抗を嘲笑っているようでもあった。
絶対的な優位から蔑む酷薄さが彼女から漂っていた。
「最低の子供時代だったよ。私が暮らしていた場所では一人の魔術師が全てを力で支配していた。そこにいる限り誰も逆らえず、いつも怯えて、おもねり、他の誰かが犠牲になることを望んで息を殺す生活。私も他の子を犠牲にして生き延びた。酷いよね。でもね思ったんだ。もし、私にも同じ力があったらって……」
言うと、何がおかしいのかダフネは小鳥のさえずりのような笑い声をあげた。
「ごめんごめん。今更だけど力で幸せを掴むって、言葉にするとすごく陳腐だよね。でも真理だと思ったんだ。わかりやすかったって言う方が近いのかな。お金があっても、立場があっても刃を突きつけられれば意味を失う。生殺与奪を握れる原始的な能力の高い人間には逆らえない。単純だけど力さえあれば誰にも縛られることはない。あの魔術師のように自由で幸せな場所を作れるって私は信じたんだー」
この女は自分を脅かし続けた人間に憧れたというのか。
唾を飲み込むと棘が喉を流れたかのように痛んだ。
ククナもよく似た境遇だ。
気持ちはわからなくもない。
忘れたい。
でも忘れようがない。
お屋敷。
茨。
ご主人様。
部屋と苦悶。
攫われたのではない。売られたのだと理解し心が砕かれ肉体を嬲られる日々。
あのときは縋るものを探すことさえできなかった。
急に崩れ、牙を剥いた世界で呼吸の仕方を覚えるのに必死だった。
日を追い、傷を増やす中、ようやく心は形を取り戻していたが、いつしか歪にひび割れてしまっていた。
両親に売られた絶望と嘆きが諦めに。
ご主人様から受ける恐怖と苦痛が憎しみへと変じていた。
あったと信じていはずの未来は暗く、助けてくれる大人はいない。
諦観と憎悪に突き動かされ、気付けば懐に皿の破片を忍ばせていた。
そして、刺した。
安易な暴力で全てを終わらせた。
他に道があったとは思えない。
けれど仕方がなかったと言うつもりもない。
力で奪われた自由を取り戻すために行使したのもまた力。
力。
殺人。
暴力の最終地点だ。
忌避されるもの、されるべきものだ。
ダフネはそれを是としてしまっている。
「いいのかよ……、そんな生き方で……?」
絞まった喉から垂れ落ちるような声量で気持ちをぶつける。
それでもダフネは笑顔を崩さなかった。
「逃げた後は魔術師を目指して色んな人に取り入った。各地を転々として、この街へ来てからは魔術連盟に入って色んな人に教えてもらったけど駄目だった。何年も頑張ったけど私に魔術の才能はない。魔術式の自覚も出来ず、代替魔術も形にならない日々。あの魔術師のように我を通して幸せを勝ち取る力なんて私にはないって思ってた。けど、ある日近くに伝説の魔術師があらわれた」
ガノ。
魔術連盟にも語られ、実態が囁かれていた凄腕の魔術師。
「世界でも指折りの魔術師。ククナ君から話を聞かされたとき、この女にさえ取り入ることができれば、きっと誰よりも自由になれる。他人や世間が強いる枷を物ともせず、自分だけの生き方を出来ると思った。なのに──」
言葉は途切れ、貼り付いていた笑顔も消えていた。
仮面を脱ぎ去ったかのような豹変。
残っているのは暖かさの欠片もない人形の顔だった。
唯一、ナーロと同じ黒く濁った洞のような瞳が淀んだ感情を漏らしていた。




