5章 魔が先か心が先か花は咲き3
「もうすぐ第一段階も終わるんだから馬鹿な真似しちゃ駄目よ」
「子供扱いするな。何回言えば気が済むんだ」
「子供並の知能しかないんだから妥当な扱いでしょ」
今日も鍼治療という名の修行が終了し、帰りしなにガノは幼子に言い諭すような口調で繰り返した。
「しばらくは深夜に徘徊しないこと」
しつけのつもりか。
ここ最近のガノの口癖だ。
「見つけたらただじゃおかないわよ」
指を突きつけガノは帰って行った。
「巡回でも始める気か」
伸びをして首を揉むと骨が鳴った。
窓の外は柔らかな橙色。
大人の時間が始まる頃合い。
いつもなら夕食の準備をし始めるがあまり空腹感はないし、かといって酒の気分でもない。
散歩でもしようかと考えるが、やめた。
沈んでいく夕陽の中を一人で歩くのも風情はあるが、一日が終わっていくことを嫌でもわからされる光の中にいると寂寥感が掻き立てられる。
ナーロのこともある。
感傷的になって、それこそ馬鹿な真似をしでかしそうだ。
窓を開くと弱々しい風が流れ込み、机の上に置いた新聞紙が目を引くように端を揺らした。
近しい誰かを失うのは初めてではない。
両親。
屋敷で過ごした仲間。
屋敷から逃げ出した後に助けてくれた人々。
死別だけじゃない。
長いとはいえない道程を歩み、すれ違う人や異なる道を選ぶ人、その場で座り込む人。大勢がいた。
大勢と別れてきた。
痛みを伴う別れもあれば、笑って別の道へ歩み出したこともある。
その時々で心は跳ねたり縮んだり膨らんだり。喜怒哀楽に併せて形を変えるが、いつも時間が心を元の形に戻してくれる。
きっと今は凹んだ心もいつかは直るはずだ。
悪戯に刺激することはしたくない。
部屋に吹き込む温い外気を吸い込むと玄関扉が鳴った。
「うわ……」
覗き窓を確認すると知った顔。
「ククナ君ってほんっと冷たいよねー」
扉を開けると首刈り魔に軟禁されていた被害者。
ダフネが「よっ」と手を掲げていた。
「おまえ……」
予期せぬ来訪に言葉が詰まる。
掲げた左手には包帯が巻かれていた。
新聞には首刈り魔によって切断されたのは左手の小指と記されていた。
真新しく白い包帯が巻かれている左手以外はいつも通り。怪我はなさそうだ。
ダフネはいつもどおりの愛嬌ある猫のような顔をしている。
だからこそ巻かれた包帯が痛々しく目立つ。
ずきりと胸が痛んだ。
「よう、ダフネ……、元気だ──ぇっふ!」
ひとまず挨拶を、と口を開いた途端に鳩尾をぶん殴られた。
空気の固まりが喉から勢いよく飛び出して、たまらず咳き込む。
やはり怒っているのだろうか。
よくも巻き込んでくれたな、と咎めに来たのか。
「ククナ君ってわりと根暗だよねー」
ククナの心配を余所にダフネは肩をすくめた。
悲しげな顔が悟られたのか、ダフネは気にするなと言っているようだった。
厄介な殺人鬼の恋慕に巻き込まれた被害者は自分だろうに。
まったく大の男が怪我人に気遣われちゃ世話がない。
「あー、その内会いに行こうとは思ってたんだが……」
「……」
「すまん。正直に言うと少しびびってた」
何を言われるかと怯えていた。
数少ない友人に拒絶されるのではと二の足を踏んでいたのだ。
「飲みに行こうよ」
だが、そんなククナの小心を笑うようにダフネはもう一度鳩尾を軽く殴った。
「ほら財布取ってきて。行くよ」
そう強く笑ってみせるダフネに抵抗できるはずもない。
自室から財布を引っつかんで来て、二人は外へ繰り出した。
「入院してるって聞いてたけど」
あんな事件があったというのにダフネは変わらない調子で夕焼けと伸びる影に塗られた石畳を歩いている。
「そんなのとっくに出たよ。指が一本取れただけじゃん」
「取れただけって……」
障碍が残る重篤な怪我だろ。
あっけらかんと話すダフネに半ば呆然とする。
平気なはずがないだろうに、気丈に振る舞う様はククナよりよほど男らしい。この女はもう前を向こうとしている。
強いな、本当に強い。
感心するしかない。
ならば、過度な心配はむしろ無粋だろう。
「思ったより元気そうで良かった」
「聴取で何度も同じことを話したり、新聞記者に追い回されるのにはうんざりさせられたけどね。あとククナ君が見舞いに来てくれないのにもがっかりしたよ」
「悪かったよ」
「今日は私の快気祝いに奢ってね」
「いいけど、怪我人に酒は飲ませないぞ」
「なんでよー。酒なしとかありえないんですけどー」
ダフネがどんな治療を受けたかは知らないが、酒を飲めば血の循環が早まって痛みが増すことが多い。薬が効いているのか平気そうにしているが、飲酒で痛みがぶり返しでもしたら困る。
「じゃあ、ククナ君も飲んだら駄目だよ」
「俺はいいんだよ」
「ずるけち! そっちだって治りきってないでしょ」
「俺は人より頑丈だからいいんだ」
着いたのはいつもの酒場、灰山羊の蹄。
夕陽も沈みきっていないが店の入りは上々で七割は埋まっている。しばらくすれば、店は満員になるだろう。
適当な席に座ると周りの客の何人かが振り返り、不躾な視線をぶつけてきた。値踏みするようにじろじろとこちらを見てはこそこそと何事かを話している。遠慮のない者はあからさまにこちらを指差していた。
新聞に名前は載っていなかったはずだが、どうやらダフネが被害者であることは周知の事実らしい。もしかすると逮捕協力した一般人の顔を知っている輩も混ざっているのかもしれない。
気分のいいものじゃないが、注目を引くのも仕方ないだろう。
しばらくはどこへ行くにも我慢の生活になりそうだ。
「当分の間、私は首刈り魔最後の獲物として見られるんだろうね」
自嘲と嘆きに沈黙するしかない。
ダフネは陥った境遇を想ってか少し俯いた後、空席を眺めた。
ククナ達が座ったのは四人がけの席だ。
今までだったなら、そこにはナーロがいた。
けれど、もういない。
今後、座ることもないのだろう。
ここにはナーロとの思い出が多く残っている。
ほとんどがくだらなくて、どうでもいいことばかり。
だけど楽しい思い出。
足の向くままいつもの場所へ来たが、もしかするとここには来るべきじゃなかったかもしれない。
ナーロがもう思い出の中にしかいないことをこれほど強く理解させられる場所は他にないだろう。
その思い出さえも嘘で固められたものなのだから救いようがない。
ナーロはククナを憎み、二人を傷つけた。
楽しかった思い出も怒りを隠し偽ったナーロとのものだ。
笑い合っているときナーロはどんな気持ちだったのだろう。
思いの届かない相手と見下している恋敵に挟まれて笑顔を作るのは苦痛だったはずだ。
それでも一緒に酒を飲んでいたのはなぜなんだ。




