断章 在りし日4
──逃げるぞ。
愛玩用の子供たちに与えられた大部屋で休んでいると、ご主人様お気に入りの少年が飛び込んで来た。
昼を過ぎた頃に私室へ連れて行かれていたはずだ。いつもならば夕方までは解放されないのに日はまだ高い。随分と早いお戻りだ。
部屋で思い思いに過ごしていた他の子供たちも少年の唐突な宣言にどよめく。
逃げる。
ここにいる誰もが一度考えては断念させられた夢だ。
しかし、どよめきは無謀な夢に対しての反応ではなく、もっとあからさまな少年の出で立ちに対するものだった。
ここにいる皆に与えられた装飾のない真っ白な服。もちろん少年も同じ者を着用しているが、その至る所に小さな点のような赤い染みが浮き上がっている。特に目立つのは両手だった。
両手が赤く染まっている。
血だ。
それもおそらくは返り血だろう。
まるで臓腑に拳を突き立てたかのように赤く濡れそぼり、袖口からは吸いきれなかった血がひたひたと床に垂れ落ちている。
ご主人様から受けた傷によるものではないことは一目瞭然だった。
──あの魔術師は刺し殺した。
──もう、ここにいる必要はない。
少年は言った。
子供にあるまじき冷徹で吐き捨てるような口ぶりだった。
しばらく頭が白く塗り潰され立ち尽くした。
殺した?
どうやって?
きっかけはなんだったのだろうか?
いや、きっかけなんて屋敷にいる誰もが抱えている。
拷問と隣り合わせの軟禁生活に満足している子供などいるわけがない。
ここは望んで来た場所ではないのだ。
中でも偏執狂の苛烈な愛情を受け続けたこの少年が禁忌を犯すのは時間の問題だった。
少年は殺人を犯したとは信じられないほど落ち着いた様子で部屋全体を見回すと、隅にいた少女たちが小さな悲鳴を上げた。
それにしても子供の身で魔術師を殺しうるとは、魔術師と言えど身体は我々と変わらないらしい。刺したのが突発的にしろ計画的にしろ嬲る為の愛玩動物にご主人様は隙を突かれたようだ。
奴はもういない。
安堵の溜息を吐くも心中は複雑だった。
恐怖の対象だったはずの魔術師もこんなにあっさり殺されてしまうのか。
耐え抜いてきた恐怖の数年間がひどく馬鹿馬鹿しく空虚に感じてしまう。
ふと窓の外を確認すると塀を覆っていた茨がなくなっていた。
どんなときも外界への脱出を阻んでいた門番が消えている。
ご主人様が生きているならばあり得ない。
どうやら嘘じゃなさそうだ。
同じように塀を確認していた年上の少女が急いで部屋を飛び出していった。
──俺はここから逃げる。
──お前らはどうする?
少年は一人一人に視線を送るも部屋のみんなの反応はまちまちだった。
血濡れの少年に怯える者、嘘だと訝しむ者、家へ帰れると喜ぶ者、突然手にした自由への足がかりに呆然とする者。
割合で言えば少年そのものに怯えている子供がほとんどだった。
少年も察してか誰の返事を待つこともせず、幼さの抜けきった顔でみんなに知らせてくると部屋を後にした。
この屋敷に放り込まれたときは年相応の感情表現をしていたはずが、十二歳かそこらだろう少年は摩耗しきった人形の顔となっていた。
ここでは誰もが大人になることを急かされる。
攫われ、囲われ、教育され、拷問される。
およそ日常から外れた環境に押し込められて順応することを強制させられる。
圧倒的強者による理不尽に叫ぼうと涙を流そうと意味がないことを学び、諦めることを選ぶ。怒りや悲しみで事態を解決することがないと、無意味だと早くして理解することになるのだ。
それでも圧倒的強者を、魔術師を、ご主人様を殺したという諦めなかった少年の顔は誰よりも枯れてしまっていた。
殺人という思い切った手段を選んだ己を呪っているのだろうか。
部屋から去った少年を追うように廊下へ出る。慰めや励ましのためではなく本当になんとなくだった。広い廊下の先ではとぼとぼと歩く背中があった。
意味もなく見つめていると、今は亡き飼い主の残響が耳で鳴る。
──私と同じ匂いがするからよ。
なんでこんな言葉を思い出すのだろう。
もちろん自分を攫い軟禁した人間を好きになることなど終ぞなかった。
それでも屋敷の支配者であったあの魔術師を自分は──。
誰にも明かしていない感情で胸が一杯になり立ち尽くす。
そのまま主人を欠いた屋敷を歩く焦げ茶色の癖毛を眺めていた。




