4章 たなごころ8
『お前はここで叩き潰す』
思えば最初の挑発への返答が嘘くさかったのだ。
自分の位置を特定させる間抜けな行為。
あれは怒りに声を上げたわけじゃない。
ククナが逃避の選択を捨てたと錯覚させる布石。
わざとあからさまな痕跡を残し、負傷を装って優位を意識させ森の奥へ奥へと誘導。
ナーロを杣小屋からたっぷり引き離した後に痕跡を消して自分だけ戻るつもりなのだ。
そして消えた痕跡を探し始めるナーロを森に置いて馬で逃走。
奴はここで決着をつける気などない。
馬に乗って王都へ帰り、警吏どもにナーロが首刈り魔であると告発する気だ。
それは流石にまずい。
元よりククナを始末した後はダフネを連れて王都からは去るつもりだった。
だが、これでは帰ることができなくなる。
街は厳戒態勢になり、ダフネを連れ出すことはおろか街へ入ることさえ厳しいことになるだろう。
ふざけるな。
それは愛を捧げたダフネを失うことと同義だ。
ぎりり、と奥歯を噛みしめる。
侮っていた。
奴は冷静だった。
それとも逃げ延びる流れのまにまにこうなっただけか。
だとしても結果だけがある。
奴の策だろうと、運が開いた道だろうと関係ない。
必死な走りに膝が痛む。肺も苦しい。
でも、どうでもいい。
沸騰する頭の中で愛しい顔が浮かんでは消える。
あの女を失ってなるものか。
これが杞憂ならばそれでいい。
とにかく馬だ。
逃走の要を抑えれば、たとえこれが取り越し苦労だったとしても狩ることに集中できるようになる。
ほどなくして木々が減り視界が開け杣小屋へと辿り着いた。
「ああ! この、くそったれが!」
最悪の予想通りに事は進んでいたらしい。
馬がいない。
古びた小屋の脇に繋いだはずの馬たちは一頭しかいなくなっていた。
完全にしてやられた。
あの馬鹿に一杯食わされたことよりも、ダフネが遠ざかる妄想で青筋がはしる。
「くそ!」
まだだ。
まだ間に合う。
追跡に時間をかけていた分、馬にまたがったのはククナが先だ。これはどうしようもない。
しかし、森を抜けるまでには足場の悪い道を馬はゆっくりと進むしかない。
それに森を抜けても王都までは結構な時間がかかる。
奴は馬に乗慣れていないようだったし、森での経験値は圧倒的にこちらが上。少し道幅が狭まるが入り口までの近道もある。王都までの道のりで追いつけないわけではない。
王都までの道のりの大部分は平原だ。
遮蔽物がなく開けた場所ならば魔術で狙うことは十分可能。完全に追いつく必要はない。
落ち着け、まだ失ってはいない。
血の上がった頭を掻きむしり、もどかしげに馬を繋いだ紐をほどく。
ナーロは鐙に足をかけ鞍にまたがろうと身体を持ち上げた瞬間、
──ぐい、と
──身体が引き戻された。
いや、馬から引きずり落とされた。
なんだ!?
背中を強かに打ち付けて呼吸が止まる。
視界に拡がる空の眩しさと原因不明の落馬に思考が白く染まるナーロを見下ろす人間がいた。
見上げる世界を覆うのは憎き恋敵。
ククナ・ウルバッハだった。
まずい近すぎる!
完全に肉弾戦の間合いだ。
それも自分は地面に寝転んだ状態。
顔面を蹴るなり踏みつけるなりで決着はつくだろう。
弾けるようにして立ち上がる。ナーロは焦り数歩後退するもククナは怒りとも悲しみともとれない張り詰めた感情を視線に乗せることしかしなかった。
なぜここに?
遅すぎる疑問を口に出すよりも先に理解させられる。
これこそが罠だったのか。
逃げの算段をとったと思わせ思考を狭め杣小屋に向かわせる。
そして馬を隠し、消えた馬を見て、いよいよ逃避を確信させたところを強襲。
思考を乱し、意識が見当違いの結論を導き出す瞬間を狙ったわけだ。
何より手が鞍を掴んで魔術を使えない拍子を狙ったのだろう。
仮に逃げの算段をとったと騙すことが出来なくとも王都への帰還を考えれば馬は必須。近くに潜むことさえできれば、いつかはナーロが馬に乗るため現れる。
森をうろつくよりも遙かに確実性がある。
「よう」
息づかいが聞こえそうな距離。
促すククナは激情に駆られた様子もなく淡々としていた。
「俺の間合いだな」
「本当にそうですか?」
「無駄なはったりだ」
ククナは首を横に振った。
「師匠に会う前の俺なら騙せたかもな」
ナーロが一歩引くと、呼吸を合わせた舞踏のようにククナが一歩前へ踏みでた。
「お前が魔術を使うときの手の構え。掌印って言うんだろ」
ダフネを最後に見たあの日。ガノが教えてくれたことだ。
『そういえば呪文とかって唱えたりしないのか?』
ククナの疑問の答えがこれだった。
「──呪文、詠唱、印契や掌印に魔法陣のほとんどは代替魔術の発動を補助するための道具。脳内で構築すべき魔術の情報を外付けにすることで負担を減らすって教えてもらった」
代替魔術は脳内で現実と違わない魔術の詳細情報を構築し、放つ極めて難度の高い技術。
だが脳内という曖昧なものではなく、耳や目によって確実に感じ取れる世界の中で意味のある声や形を作り、それを情報に代わる部品として魔術を構築する。
それが呪文や掌印の役割だ。
だから、
「おまえ、掌印を結ばないと魔術を使えないんだろ」
「それはどう──」
「諦めろ」
ぴしゃりと遮られる。
勝ったという確信からか、先程まで追い込んでいたはずの獲物から揺るぎない意思を感じた。
適当な言葉で隙を生むことなどもはやないだろう。
僕は負けるのか。
心が冷えて萎んでいくのがわかった。
「くそったれ……」
それが癪に障るんだ。
逆鱗の縁をなぞるのだ。
この男は明確に自分よりも下の人間だ。
容姿や人望、交友関係の広さや地位、財産に来歴のどれをとっても負けることのない相手だ。
全てに置いて勝っているはずなのに、それにも関わらず時折たまらなくこの男といることが惨めになる。
明確ではない何かがククナよりも劣っているのだと感じてしまう。感じさせられてしまう。
今のように。
ダフネがククナを選んだときのように。
「死ねよククナ。頼む死んでくれ。なんで僕の邪魔をするんだよ。こんな気持ちにさせるんだ。僕は幸せになろうとしているだけなのに。幸せになるべき人間なのに。なんでお前みたいな奴が」
ナーロは皮膚を掻きむしって怨嗟の言葉をぶつけるも、
「そうかよ」
乱れ髪で自らの顔に爪を立てる魔術師にククナは呟くだけだった。
それが決別だった。
「もう誰も傷つけさせねえ」
瞬間、ククナが消えた。
否、踏み込みの早さに意識がついて行けていない。
来る!
消えた敵へナーロは魔術を構えるが全てが遅かった。
ククナに向かって繰り出した右手の鋏は掌印としての形を成すよりも早く、一瞬であらぬ方向へ弾かれた。
遅れて手首に杭を打ち込まれたかのような鈍痛。
ククナの裏拳が打ち込まれたことをナーロは気付くことさえ出来なかった。
もっと別の事実を脳が理解し、圧倒されていた。
──負けたんだ。
手を伸ばせば触れる間合いの中。
根性や意思では覆ることがない力の差が、二人にはあった。
ククナの拳が掻き消えて唸りを上げる。
「だ──ふね……」
肝臓、肋骨、顎を一瞬で打ち砕かれた。
凄まじい早業。
痛みを感じることさえなかった。
急激に世界は暗く縮み、王都を紅に染めた怪人は地へゆっくりと沈む。
失せていく視界の中でかつての友はひたすらに悲しげだった。




