4章 たなごころ6
ああ、目眩がする。
耳鳴りもだ。
森の緑と茶色が視界で揺れて混ざる。
「おまえの言い分、一個も理解できねえ」
足下が崩れていく錯覚の中、なんとか絞り出した言葉だった。
「どうしちまったんだよナーロ」
これが今まで一緒に酒を酌み交わしてきた男と同一人物だとは信じられなかった。
獣の瞳で睨むナーロは悪いものが憑いたかのようだ。
告白を聞き、魔術を見せられてなお、何かの勘違いなのではと現実を拒否する材料を探してしまう。空しい抵抗だ。
「どうもこうもないですよ。これが僕です」
「恋路が上手くいかない腹いせに人を殺しまくるのがか?」
「あなたみたいな妥協にまみれた人間にはわかりませんよ。本当に欲しいものが手に入らない気持ちなんて」
足に気合いを入れてなんとか立つ。
「そうだな、お前の気持ちはわからん」
失恋した者にとって恋敵の言葉だなんて全てが暴力だろう。
たとえ慰めだろうと傷ついた心に塩を塗ることになる。
「でも、お前はダフネの気持ちを考えてんのか?」
だけど言っておきたかった。
「自分を好きになった男がこんな真似しでかしてダフネはどう思うんだよ」
「……」
「ダフネのことが好きなら告白でもなんでもすりゃいいだろ。駄目だったなら振り向かせるために自分磨きでもいい。忘れたいなら自棄酒にだって付き合う。俺を引きずり落とすよりもやれることがあったんじゃないのか」
偽らざる本音。
ナーロは友人だ。
幸せでいて欲しいと思う。
ダフネに対して本気で将来を考えているなら応援だってした。
それがなぜこんな血生臭い事態になってしまったんだ。
どこで、何を掛け違えた。
こんな極端な行動を起こすほどに追い詰められていたなら、頼ってくれればよかったんだ。
たしかにお前の言うとおり俺は負け犬だ。
それでも負け犬なりに一生懸命になってやれた。
アルカンや他の犠牲者たち。
無関係の命を摘み取る必要なんかなかった。
ククナ・ウルバッハが気に食わないならぶん殴って罵ってくれればよかったんだ。
愚直にぶつかってくれれば、もっとわかり合えた。
力になれた。
泥臭くて、ださいかもしれないけれど、それじゃ駄目だったのか?
「命乞いは終わりですか?」
響いていない。
ククナの言葉にナーロはただ冷笑を浮かべただけだった。
聞くに値しない。
言外に告げられた気がした。
そしておよそ正しいのだろう。
森を優しげな風が抜けて木の葉を揺らし青い香りが拡がる。
ナーロは風に乱れた前髪をいつも通り撫でつけた。
悠然と、その所作にはまったくの動揺もなかった。
そうか。
そうかよ。
「自首しろ」
「断る」
一蹴される。
もう駄目なんだな。
胸に去来するのは冷たい悲しみ。
目の前に立つ男は友人だ。
いや、もう友人だった男か。
ナーロは本気だ。
本気で殺す気なんだ。
そう思わなければ、割り切ることが出来なければこの森から帰ることはできない。
「ダフネはここにいないんだな?」
「彼女は僕の家で寝てます。指の一本を切り取った程度で死ぬことはないですけど、拘束しているので衰弱してるでしょうね。すぐに帰ってあげないと」
たまらなく大事で、その為に人を殺すくらいに愛しているのに指を切り落としたことに対する罪悪感は微塵もなく、ナーロはひたすらに穏やかな微笑をたたえている。
「そしてククナさん。あなたはこの森で行方不明になる」
大きく息を吸って、ゆっくりと数を数えながら吐く。
心を落ち着かせ、固まっていた手足に熱が回る。
「ほとんど人がこない森です。刻んでばらまけば数日で獣たちが食べてくれる。いつか残骸が見つかってもその頃には身元もわからないでしょうね」
その為に手紙で連れ出した訳か。
しかし、疑問が残る部分もあった。
「僕は帰ってダフネさんを慰めます」
「自分がめちゃくちゃなことを言ってる自覚あるか?」
指を切断しておいて何を言っている。
「何もかも手遅れだろ。俺を殺したとしてお前みたいな殺人鬼をダフネが愛してくれるわけがない」
「愛するさ。愛させてみせる」
「監禁も暴力もきっとあいつの趣味じゃない」
「お前が語るな!」
かっ、と見開かれた瞳は黒い光に濁り洞のようだった。
ここに来て初めて見せた魔術師の明確な激高にほぐれ始めていた手足が再び硬直した。
「僕は彼女のためにここまで心を砕き尽くしているんだ……。彼女は優しい。必ず応えてくれる。応えるべきなんだ!」
実らない恋をたぐり寄せる為の不条理な暴力と破綻した理屈。
もはや正気じゃない。
この男は本当にナーロなのか。
皮膚を剥けば別の顔が現れるのではないか。
そんな未練がましい思考が覗くと同時に、ゆらりとナーロは構えをとった。
左手は輪を作り左目へ添え、右目は閉じる。まるで単眼鏡を覗く海賊ごっこ。場にそぐわない、意味のわからない行動に張り詰めた空気が緩む。
こいつ何をしてるんだ。
脳内に浮かぶ当然の疑問。そんな胸中も知らずにナーロは空いた右の握り拳をこちらへかざした。
そして、まるで鋏を模すかのように人差し指と中指が立てられる。
子供の手遊びのような振る舞いだ。
少なくとも戦いに構えているようには見えない。
さっきまでの言葉はなんだったんだ。
もしかして、もしかしてこれは何かの冗談なのか、そんな甘い考えが脳裏によぎった瞬間。
ナーロの口元が何事かを唱えた。
──チョキン。
聞こえてはいない。しかし右手で模した鋏を、人差し指と中指をとじる動作と共に発した口の動きはまさしく鋏を使った擬音のようだった。
まずい。
直感するよりも先に本能が地面を蹴っていた。
真横に跳ね飛ぶと同時に暴風が吹き荒れる。
まるで破城槌が矢のように飛んだと錯覚を受ける巨大な質量が立っていた場所を駆け抜けていった。
木の葉が舞い散り、土埃に空気が荒れる。
みしみしと小枝を折りながら倒れ伏す木が響き、またもや小動物たちが慌てるように辺りへ散っていった。
魔術。
あれは魔術を放つ際の予備動作。
ガノが座学の際にちらりと言っていた。
ふざけたような構えはおそらく『掌印』と呼ばれる魔術発動形式の一種だ。
「よく躱しましたね」
ナーロの余裕溢れる言葉に耳を傾ける余裕はない。
慌てて立ち上がり、急いで姿を視界に捉えると映るのは歪みきった笑顔と手遊びのような構え。
チョキン。
間髪入れずに死の風を引き摺る斬撃が飛んでくる。
今度は伏せるように躱し、巻き上がる土埃の中で舌打ちをする。
もうやるしかないんだよな。
「首刈り魔!」
地面を抉るように握って立ち上がると同時に小石と砂を思い切り投げつけた。
鞭のようにしなった腕から放たれた散弾は勢いよくナーロの顔を見舞う。
「くだらない真似を」
大した負傷にはならないのは織り込み済みだ。
ククナは歯がみしながらナーロに背を向け駆けだした。
ナーロとの間合いは十歩以上。加えてこの森は細かい隆起や枝に小石と足場が悪い。
距離を詰めれば殴り合いに強い自分に勝算はあるが、詰め切るに厳しい条件だ。下手をすればそれよりも先に魔術の餌食にされる。
目潰しの隙を狙うこともできたが、ナーロは瞬間的に片手を顔の前にかざしていたので、どの程度の効果があったかがはっきりしない。
ともすれば近づこうとするところを狙われる可能性も考えて身を隠すことを選んだ。
相手は魔術師。
こっちは魔術師見習いとも名乗りがたい八百長拳闘士。
もっと確実な勝機が欲しい。




