4章 たなごころ5
理性や自己保身の心を失った獣に立ち向かう度胸がなかった。
そして今立ち向かおうとしている相手も負けず劣らずの狂人。
しかし、逃げることは適わない。
かかっているのは自分の命だけじゃないのだ。
獣道を歩きながらも、ちらりと横を盗み見る。
「大丈夫か?」
「大丈夫です」
即答だったが、そうは思えない。
ナーロの目は血走り、整った顔は凶相と言って差し支えないありさまになっている。
ククナにとってナーロとダフネの付き合いは基本的に夜だけのものだ。それも灰山羊の蹄に飲みに行くときだけの限定的なもの。
けれど、ナーロとダフネは違う。
二人は共に魔術連盟に入り、ナーロはダフネの魔術を指導する身だ。過ごしてきた時間はククナよりもずっと多い。
思い入れの深さもククナの比ではないはずだ。
何よりもナーロが抱いているであろうダフネに対する恋心は首刈り魔への怒りに火をくべる大きな材料だろう。
魔術師であるナーロには極力冷静な立ち回りを願いたいが、この様子だと首刈り魔の顔を見た途端に飛びかかっていく危うさがある。
ククナだって首刈り魔には怒りを感じている。
可能ならば目一杯殴りつけてやりたい衝動が腹の底で煮えているのだ。
だが、今優先するべきは何よりもダフネだ。
できることなら犯人を捕まえたいが、ひとまずはダフネの安全を最優先しよう。
顔を赤くするナーロに伝えると不承不承といったふうに頷いた。
ひたすらに森を歩く。
緑の傘から漏れる淡い光は皮肉にも美しいが堪能している暇などない。
草が踏み倒され低木の枝が折れた獣道を急ぐ。害獣との鉢合わせの危険もあったが歩くには楽だ。
「大丈夫、ダフネは助かる」
このままではどこかが切れるのではと心配になるほど張り詰めた横顔に語りかける。
気休めに過ぎないとはわかっているがナーロは緊張感を薄れさせるように息を吐いた。
「そう、ですね」
どれが笑顔だったかを忘れたかのように曖昧に笑っている。
「ククナさんはダフネさんのことが好きですか?」
「そこそこ好きだぞ」
「そこそこですか……」
唐突な質問に面食らうが素直な答えだった。
友人としてか一人の女性としてか、そこらへんは正直曖昧なところだ。
「僕は愛しています」
迷いの欠片もない断言。
好意に勘づいてはいたが、そこまで本気だったとは。
「華のような人です。楽しくて輝いていて一緒にいると気持ちが浮き立って、自分の悩みが小さなものだと思わせて前を向かせてくれる」
ナーロの表情は大切な宝物に触れるかのように輝いていた。
さっきまでの鬼気迫る表情はなんだったのかと思わせるほどの変わり身。
それがナーロの本気を物語っていた。
「一緒に過ごす時間はそのまま僕の幸せでした」
黙って、若い魔術師の独白に耳を傾ける。
真剣な瞳は燃えていた。
「だから、彼女を傷つける存在は許せない」
ダフネの切断された指はもう繋がることはないだろう。
優秀な医師の手にかかれば可能なのかもしれないが、仮に繋げることが出来たとして今までのように動かすことは難しいはずだ。
擦り傷や骨折などとは訳が違う。後々まで残り続ける障碍を負わされた。
自らではなく他人に押しつけられた生涯にわたる枷。
首刈り魔の残虐性を持ってすれば、まだましだとは簡単に言えない。
「なんでガノを選んだんですか?」
「は?」
急になんなんだ。
まったく埒外の方向から飛んできた質問に間抜けな声を返す。
「僕の愛した人は僕の友達を愛していた」
ダフネが俺のことを?
思わず足が止まる。
外連味のない言いようはふざけているとは思えないが、言葉のままに受け取ることはできない。けれども心は場違いな謎のむず痒さに包まれていた。
「納得しようとも思った。でも無理だった」
ナーロも足を止めていた。
視線が交錯する。
瞳はやはり燃えていた。
しかし、燃えているものが何に端を発しているのかは、もうわからない。
葉鳴りの音や小鳥のさえずりもどこか遠くに聞こえ、森の中とは思えない居心地の悪い空気が流れる。
「違法な拳闘試合に出入りしているような屑。魔術の才能を腐らせたごみ。負け組の男が僕の愛した女を袖にするなんて、こんな屈辱ありますか」
状況が状況だ。気が昂っているとはいえ、らしくない辛辣な物言いに眉を顰める。
「俺とガノはお前が考えるような関係じゃない。それにダフネも俺のことを愛してなんかいない」
努めて平坦な声でもって返す。
一端、全てを棚上げしよう。
ダフネへの恋心もククナに対する侮蔑も今は全てが雑音だ。
憎々しげに刺さる視線を躱して再び歩き始める。
「落ち着け。今はとにかくダフネを助けることに集中しよう」
ナーロだってわかるはずだ。
今は口論をしている場合などではない。
ここで矛を収めることができないような子供ではないはずだ。
「……そうですね」
足音にかき消えそうな小さな返事の後、
「もう、ここら辺でいいか」
とナーロは感情の抜けた空っぽな言葉を続けた。
「行くぞ」
ククナは嫌な空気を流すようにわざとらしく明るい声をあげたが、追従する足音がない。
「ナーロ?」
振り返ろうとすると熱い突風が脇をすり抜けてたたらを踏んだ。
覚えがあるこの感覚。
忘れがたい恐怖の感覚が蘇り総毛立つ。
頭を駆け巡るのは、あの夜。
すぐ側の木が幹を中ほどから両断され、足を失ったように断面から滑り落ちて地面に音を響かせた。小鳥たちは慌てるように羽ばたき空へと逃げていく。
「この魔術は」
忘れようもない。
最悪の予感に息が止まった。
改めて振り返るとナーロは地面を睨むように突っ立っていた。
「彼女を傷つける存在は許さない」
繰り返される言葉。
爛々と輝く瞳は獣のそれだ。
「ナーロ……」
そもそもがおかしかった。
なぜ犯人は直接ククナへ手紙を出さなかった。
ナーロを経由させる意味に疑問を感じるべきだったのだ。
遅すぎる疑問はナーロの正体への確信が故。
まったくもって自分の鈍さが嫌になる。
「最初はちょっとした悪戯のつもりでした。住処を死体で飾って心を削れば溜飲も下がると思ったんです」
「おまえ……」
ちょっとした悪戯?
何を言ってるんだ?
人を殺しているんだぞ。
脳を急速に埋めていく困惑で手足が動かない。
喉が渇く。
「だけど、物足りなかった」
目の前にいる人間は一体だれなんだ。
わかっている。わかっているはずなのに認めたくない。
「だから仕事も奪った。それでも平気そうなあんたを嬲ってやった。今度は友人を奪った。これは効いたようだったけど、生意気にも僕を探し始めやがった」
皮膚から噴出するような不穏で揺らぐ感情の圧がナーロから流れ出て、ククナの足を縫い止める。
胃が捻れそうな不快さ。
何もしていないのに呼吸が乱れた。
ナーロは三日月のように頬を吊り上げ、
「ククナさん」
やめろ。
「──僕が首刈り魔です」
聞きたくなかった台詞で耳朶を貫いた。




