3章 絶たれた繋がり9
「怪我はどうしたの?」
「なんだ今更」
もはや昼も近い、いつもは朝食もそこそこにガノがやってきて、夕方までぶっ通しで修行なのだが今日はまだ手つかず。いい加減に始めたいと思い始めた頃、察したようにダフネがそろそろ帰ると言い出した。
ダフネを送っていこうかとも考えたが、酔ってはいても意識はしっかりしているし、幅を利かせている首刈り魔も日が高い内からは暴れないだろう。
玄関先までの見送りで別れようとした矢先、ダフネはククナの包帯に触れた。
「結局聞きそびれちゃったし、拳闘試合が原因だったらそう言うかなってさ。本当に娼婦にやられた訳じゃないでしょうねー?」
からかうような口調だが心配をしているのもわかる。ありがたいし嬉しい。ダフネのことはもちろん好きだ。だからこそ、正直に言うべきではないのかもしれない。
女に心配させろ。でも苦労はさせるな。それが一流の男だ。
いつか酒場で絡んできた自称伊達男が垂れていた戯れ言を思い出す。
その時も思ったが、心配も苦労もかけない方がいいに決まっている。
ここで首刈り魔に襲われたと言えば、きっと更に心配を色濃いものとするだろう。それは心苦しいし、望むところではない。単純に自分のことで誰かが心痛めることを煩わしいという感情もなくはないが。
「まさか首刈り魔?」
適当な冗談か、それらしい嘘を練り上げようとしている間にダフネの口から正解が飛び出した。本人は、それこそ冗談のつもりで言ったのかもしれないが、意表を突かれたククナの顔を見て瞬時に理解したのだろう。
「え、本当に?」
即座に違うと言えばよかったが、突如、言い当てられて固まってしまったのは一生の不覚。
ダフネは真実だと確信したのだろう。
ククナが慌てて否定しようとするも、
「はえぁ?」
とダフネが謎の言葉を吐き出し、目を白黒させる。
きっと酔いだけのせいじゃない。
「え? え?」
誤魔化しようがないか。
ダフネは存外鋭い。ここでしらをきったところでもう遅すぎる。確信をもった相手にどんな言葉を尽くそうと騙されてはくれないだろう。
ククナは諦めて事件当夜のことを掻い摘まんで話した。
一緒に飲んだ帰りがけに魔術で襲われたこと。
必死に逃げたが、どうしようもなかったこと。
運良く助かったが、あと一歩で殺されていたこと。
ダフネは最初こそ混乱した様子だったが徐々に真顔になり無言で頷いていた。
話が終わるとダフネはその場でしゃがみ込み、床板を吹き飛ばしそうな勢いで溜息をついた。
「もー」
そのまま小さく一声あげると顔を伏せて動かなくなる。
ダフネは話を聞くだけで青ざめていた。
もしかすると、あの日、飲んだくれていた自分に対して自己嫌悪の念でも抱いているのかもしれない。
だが、友人が死の瀬戸際で戦っていた裏で自分が安穏と酒に酔いしれていたことに恥や罪悪感が湧いているのだとしたら感傷がすぎる。
ダフネが気に病むことなど何一つとしてない。
悪いのは首刈り魔。
あとはククナ自身の運ぐらいのものだ。
「……」
廊下を通っていく隣室の住人が遠慮のない怪訝な目をククナに向けてきた。
立ち尽くす男としゃがみ込んで動かない女の取り合わせをどう思うだろう。
別れ話がこじれているとでも勘違いさせたかもしれない。
「ダフネ?」
妙に気まずくて声をかけるも動かない。もしかすると泣いているのだろうか。
部屋の中からはガノがまだかと圧をかけている気がする。
無理に立たせることも憚られ、どうしようかと頭を悩ませ始めた頃、ダフネはすっくと立ち上がりククナの胸に抱きついて熱い吐息を鳩尾にぶつけた。
「よがった……」
一言だけを漏らし、また動かなくなる。
急な抱擁には驚かされたが嫌な気持ちはしない。
やはり彼女は泣いているみたいだった。
鼻水も垂らしているかもしれない。鼻声になったダフネの声はいつもより通りが悪く、胸元で低く響いている。
伝わってくるのは心配や安堵、それに多分、愛情。
真意を推し量ることは難しいが、くぐもった嗚咽と服の濡れる感触も特に気にならない。これだけが答えかもしれない。
鼻を垂らした女に色気も何もあったものではないが、情感の籠もった抱擁は心の中で凝り固まった何かがほぐれていくようで心地がよかった。
「私の知らないところで死んじゃやだよ……」
「なんだそりゃ」
それだけ言うと、しばらくダフネはククナの胸で泣いていた。
数秒か、数十秒か、やがてダフネは惜しむようにゆっくりと抱擁をとくと、ククナの鳩尾を拳で叩いた。
「ククナ君、汗臭い!」
照れ隠しなのだろう。細腕に見合った弱々しい一撃だった。
いきなり抱きついてしまったことが恥ずかしくなったのかもしれない。ダフネは耳まで赤くなっていた。
「じゃあね!」
声を張り、おまけとばかりに鳩尾にもう一度拳を叩き込んでからダフネは去って行った。
騒がしくて感情豊かで楽しい。料理もそこそこ。彼女が結婚すれば、きっと幸せな家庭を築くことだろう。幸せの気配を感じさせる女性だと思う。
そんな彼女が瞳に涙を溜めて自分の生存を喜んでくれたのだ。ククナも知らず知らずのうちに口元には笑みが浮かんでいた。
「あの娘、あんたに惚れてるわね」
部屋に戻ると、ガノが悪戯を企む猫のように笑いかけてきた。
どうやら聞き耳を立てていたらしい。
「ただの友達が死にかけて泣くことなんてそうないわよ」
「師匠の無感動ぶりとはえらい違いだ」
「嘘だと思ってたけど、首刈り魔の件は本当らしいわね」
「やっぱり信じてなかったんじゃねえか」
愚痴を叩きつつも二人で寝室へ入る。
いい加減に修行の時間だ。
ガノから種を受け取り、水もなしで一息に飲み込んで服を脱ぎ捨てる。
そして寝台にうつ伏せで寝転がると、ガノはご自慢の魔術で鍼を取り出した。
「今日も始めるわよ」
慣れた様子であっという間に鍼を身体中に刺し、ダフネは魔力を流し始めた。
「っふぅぅ」
熱い吐息をもらす。
背中に突き立てた鍼から全身に痒みという形で拡がる拒否反応は、日を追うごとにどんどん弱くなっている。
初日は酷い痒みから逃れようとするククナをガノが魔術で抑えこんでいたが、今は我慢をするのもさして難しくはない。
修行と称してはいるが実態は師匠による肉体の改造だ。こうなるとうつ伏せで寝転ぶだけでやることがない。
だが今はそれが丁度良い。
考えることに集中できる。
切り替えろ。
緩んでいた意識を夜へ向けてゆっくりと引き絞っていく。
悪いなダフネ。
泣いてくれてありがとう。
でも、今夜からやることは決まっているんだ。
ククナは瞼を閉じて、夜を徘徊する怪人に思いを馳せた。




