3章 絶たれた繋がり4
家族が好きだった。
偽らざる真実だ。
ただ、もう違う。
ククナの出身は王都から遙か南西。馬でも二十日はかかる場所に位置する街の出身だった。街は田舎でも都会でもなく人口はそこそこ。目立つことのない中流都市。そこでククナは父と母の三人暮らしをしていた。
家族仲は良好、だったはずだ。ククナはそう信じていた。
父は祖父から受け継いだ雑貨屋を営んでおり、ククナと同じで身長が高く癖毛。穏やかでよく笑い遊び好きな性格だった。よく肩車をしてもらってはその高さから落ちないようにと髪を思い切り掴んでも父は笑っていた。
母は垂れた瞳がいつも笑っているように見え、実際に父にも増してよく笑い、小さなことに幸せを見いだしていた。ククナが泥だらけで帰ってきても呆れもせず「楽しかった?」と、笑って迎えてくれる日だまりのような人だった。
楽しい父に優しい母。
まさに絵物語の初期設定。前提条件のような二人を疑うことなど小さな子供にはできなかった。
子供は親を愛すものだと信じるではなく、当たり前だと受け入れていた。
けれど違った。
その日はなんの前触れもなくやってきて、ククナの今までを全て奪い去ってしまった。
ある晩、寝付けず夜中に起き出したククナは水でも飲もうと廊下に出た。窓から見える月は稜線に半ば沈んでいるのにやけに明るく、足下を照らしていたのを覚えている。
ふと、角灯の柔らかな明かりが居間の方から漏れているのが目について、羽虫のようにゆらゆらと忍び寄る。父が夜に台帳などの整理や確認をしていることは前々からよくあったので、またやっているのかとククナは思った。こっそりと近づいて驚かしてやろうと幼い悪戯心が芽生え、閉じきらず中途半端に隙間の空いた戸に瞳を寄せて様子を窺うと想像とは違う光景があった。
父はいた。
ただし、いたのは父だけではなかった。母もいる。それと、
──魔女だ。
一目でククナはそう思った。
灰色に近い肌の色をした妙齢の女が机を挟んで父と向かい合っていた。
ぼさぼさの長いざんばら髪に落ち窪んだ瞳と痩けた頬。病的な姿をして裂けたように笑顔を浮かべる姿はまさに魔女だった。
魔女は何事かを囁き、恐怖心や不安を愛撫するような狂的な笑みを父に向けた。父は魔女の笑顔に目を向けることなく真剣な様子で机を睨み、
「 」
と呟いた。
ククナにはよく聞こえなかった。
聞こえなかったはずなのに、まるでそれがきっかけのように酷い耳鳴りがする。
目眩さえ起こしそうな耳鳴りに苦しんでいると、魔女は父の言葉に耳まで裂けるように笑って片手を振った。
すると、影の中にでも潜んでいたのか身なりの綺麗な少年が現れて、机の上に布の袋を置いた。置いた瞬間、父は飢えた犬のように袋に飛びつき口紐を緩めて中身を机にぶちまけた。
金貨だった。
銅貨や銀貨ではない。地方の雑貨屋では滅多に取り扱うことのない高級貨幣。
角灯の火に照らされて部屋に金色の輝きを散らす硬貨が眩しくて目を細める。
狭まった視界に映ったのは金色と笑顔。
魔女が笑い、父も笑っていた。
父の側に控えた母も笑っている。いつもの優しい笑顔なのに、大好きな笑顔なのに何かが違う。
あのひとたちは、だれなんだろう。
ずっと一緒にいて、大好きだった二人が他人に見える。
見知った笑顔の下にはどろどろに煮崩れた野菜のような混濁した感情が透けていた。ククナはそれがどんな感情かを読み解けるほど物を知らないが、本能的に淀んだ薄暗いものだと悟った。
こわい。
戸の向こうでは、父も母も別人が皮を被っただけの知らない生き物に成り果てていた。
幼い頭と心では両親の変化が理解できなかったが、笑うということはきっと幸せなことのはずだ。だから、きっと自分にとっても良いことなんだと思おうとした。
だって、いつもそうだから。
父と一緒に遊んでいるとき。
母が抱きしめてくれたとき。
三人でおでかけをするとき。
二人が笑ってくれるとククナも自然に顔が綻んで、胸の中が温かくて心地が良かった。
だから、二人が笑ってくれれば自分も幸せになれる。
そのはずなのに、今は二人がひたすらに怖かった。
なんでだろう。
耳の奥が痛い。
目が熱いのに濡れていた。
ククナは息を殺して寝床に戻り訳もわからずに震えた。
頭の中へ染みつくような光景を忘れたくて目を瞑る。
両親を変えた金色の輝き。
あれが幸せのもとだというなら……。
夕暮れの美しさはどこでも変わらない。
しかし、王都で暴れる殺人鬼のことを考えると、街を照らす夕日の赤みは不吉さの前触れといった風情だ。素直に美しいと評するだけの心の余裕が街の人間からなくなり始めているらしい。通りを歩く人々は夜の帳が下りることを恐れるように早足になっている。
道すがら聞こえてくるのはやはり首刈り魔の話題。どうやらククナを逃した首刈り魔は新たな獲物を見つけることはせず、狩りを諦めたらしい。
ただ、今朝は首なし死体が出なかったが、市民街へ残した破壊の爪痕は多くの人間が目にしている。それは見ず知らずの遺体よりも、自分たちの日常を害する危険だとわかりやすく、現実的だったのかもしれない。みんなが怯えているようだった。
ククナもあんな体験は二度と御免だ。さっさと用事を済ませて家に引っ込もう。
街ゆく人に追いつき追い越すように歩を進める。
街中には巡回する警吏が増えており、怪しい人間がいないか睨みをきかせている。
彼らは実際に首刈り魔と遭遇したときどうするのだろう。帯革には警棒と短剣が吊られているが相手は魔術師。そんな装備でやり合える相手ではないことをククナは文字通り痛感させられている。
捜査に対して本腰ではないのか。見通しが甘いだけなのか。まさか魔術師であることを共有していないということがあるのだろうか。
魔術師の犯罪に対しては対魔術師の専門家、統制機構の連中が出張るはずだが街中に見かけないところをみると後者なのかもしれない。
勝手な想像に過ぎないのだが、本当にこの街は大丈夫なのかと不安になる。
一市民として、また一被害者としては、さっさと解決して夜に酒場へ出かけれるようにして欲しいと願うばかりだ。
そんな思いを抱きながら、向かいから歩いてくる警吏を眺めていると目があったのでさりげなく視線を逸らす。
二人組の警吏は包帯を頭に巻くククナを無遠慮に睨むと舌打ちをして擦れ違っていった。
およそごろつきのような振る舞いに辟易する 体格がよく、怪我をしたククナを見て簡単に喧嘩をふっかけるような輩だとでも思ったのかもしれない。
心外も甚だしいが職務質問をされなくて安堵する。持ち物検査でもされては面倒ごとになることは請け合いだ。
肩にかけた雑嚢の帯を握りしめククナは更に足を速めた。
そして、ほどなくしてたどり着いたのは今朝以来二度目の場所だった。
「帰れ」
命の恩人。アルカンの住まいを訪れての第一声だった。
「ククナ……、おまえ懲りてないのか。もう日暮れだってのに何を出歩いてるんだ」
「歓迎してくれてうれしいよ」
「皮肉はいい。なんのようだ?」
呆れと怒りがない交ぜになった顔をしている。
「すぐに済む」
ククナは肩にかけた雑嚢から子供の頭ほどもある大きさの袋を取り出して、困惑するアルカンの胸元へ押しつけた。
「なんだこれは?」
「命の代金」
袋はずしりと重くアルカンは両手で受け止めた。
「命を助けてくれただろ。金貨五百枚が入ってる」
「舐めるな」
低い声で袋を突き返された。
「前も言ったが、俺がおまえを助けたのは俺自身の為だ。自分を見損なうようなことをしたくなかっただけだ。礼に金銭を受け取ればその思いを穢すことになる」
固い表情と瞳には見栄を張っている様子はない。むしろ覚悟を貶されたように怒ってさえいた。
本当に高潔だな。
小さく溜息をつく。
どう育てばこうなれる、と感心を越えて呆れてしまう。
きっと良い家庭で、曲がらないよう丁寧に愛情を注がれ育てられたのだろうか。それとも持って生まれた資質の問題なのか。
「アルカン。ここでおまえが受け取らなきゃ、俺はこの先の一生をおまえに感謝することになっちまう。朝起きたらアルカンのおかげ、飯を食えばアルカンのおかげ、女と寝ればアルカンのおかげ。冗談だろ、俺の子供にはおまえの名前でもつければいいのか?」
ククナが改めて金貨の詰まった袋を押しつけるも、アルカンは受け取る気はないというように無言で腕を組んでいた。
アルカンはどこに思いを巡らせてるのか不明の無表情で、たっぷりと間を開けると口を開いた。
「おまえ、俺の娘の──」
「舐めんな」
今度はこっちの台詞だった。
いつかとは違う明確な意趣返し。
「俺はおまえが嫌いだ。格好よくて強くて家庭があって、そのうえ良い父親だなんて気に食わない。そんな奴に一生の恩を着せられるだなんて御免だ。病気の娘なんて関係ない。おまえがおまえ自身の為に命を救ったなら、俺だって俺のためにこの金を受け取ってもらう。それだけだ」
一息に言い切る。
「これは礼じゃない。清算なんだよ」
視線が交錯し、間に熱い火花が散るようだった。
瞬きはしない。
それだけで自分にはなくて、アルカンが持っている何かに負けるような気がした。
玄関先の攻防に近くを通った人間は、睨み合う男たちに何事かと数瞬、視線を向けては消えていく。
一人、二人と背後を通っていく気配。
「わかった……、受け取る」
時間感覚が薄れるような睨み合いの末、折れたのはアルカンだった。
手から金貨の重みが消えて小さな痺れだけが残る。
「ククナ……」
アルカンは受け取ったものの眉尻が上下に動きっぱなし。おそらく自分の中で感情の折り合いをつけようとしているのだろう。何を言えばいいのかわからない。そんな様子だった。
「じゃあな」
これ以上、ここにいてもお互いに気まずいだけだろう。
アルカンの機先を制するようにククナは背を向けると、
「娘に会いに行くよ」
軽い調子の声が聞こえた。
どんな顔をしているか振り向くほど無粋じゃない。
そのまま歩いてきた道を辿る。
「これだけあれば病気も──」
「言ったろ。これは清算だって」
「それでもだ!」
適当に手を振って退散。
感謝を叫ぶ声が聞こえるが無視をして石畳を鳴らす。
流石に格好をつけすぎたかもしれない、とククナは頬を掻いた。
だけど、と思う。
金庫の中は寂しくなったが、自分はきっと正しいことをした。
別にアルカンの娘と自分を重ねて感傷的になったわけじゃない。
娘の為に戦うアルカンに在りし日の父親を映したわけでもない。
「……」
この感情はなんなのだろう。
この行動原理にどんな理屈をつければいいのだろう。
わからないまま、部屋を出て勢いのままに大金を渡してしまった。
でも、不思議と後悔はない。
産まれて初めて自分自身が誇らしかった。
アルカン。
どうしよう、だなんて悩む必要はない。
金貨五百枚だ。
どんな難病だろうと治しておつりがくる。
これからもおまえは格好良い父親でいられるぞ。
赤みを増した夕日は雲の暗さと相まって残酷で恐ろしげな色を王都に塗りつけている。
もうすぐ首刈り魔が街を徘徊し始めるだろう。
けれど、今はそんなことさえどうでもいいほどククナの心は清々しく輝いていた。
──翌日未明、アルカン・ダヤックの死体が自宅裏手にて発見された。